19話 エリィ 塔の後
エルデ王国の一室。
勇者を召喚するという天賦の才を持ち、
その勇者と共に旅をし、魔王、そして魔王神を倒した英雄。
それだけの豪傑にも関わらず、豪傑の対極にあるような婉美な女性と賞賛も受ける姫騎士『エリィ』
そんなエリィは表情に影を落としたまま、茶が満たされたティーカップの淵をただ指でなぞっている。
カップに満たされた茶には少しも手がつけられていない。
本来の役目とは違う使われ方をしているカップから漂うのは、すでに香りではなく陰鬱さだけだった。
彼女の頭の中は、勇者から突然の別離を言い渡された事で一杯だった。
そして信頼していた勇者がアルクスに対して一切の躊躇無しに半死半生の攻撃を行ったという事も苦悩に輪をかけている。
……唇を奪われた事、エリィのファーストキスを奪われた事も、その苦悩の中に少しだけあったが、それは悩みとして大きく占めるものではない。
なぜならそもそも姫という王族の一員である以上、自分の身体の存在など、元々自分の意思の通りに自由にできる物ではない。そう教え込まれてきていたからだ。
エリィは勇者が目の前から消えた後、あまりの事態に困惑しながらも、なんとか動かせるまでに回復したアルクスと回復魔法を使いすぎて疲労困憊になったクリスティを連れて塔を脱出した。
その後、苦労の末に近隣の町まで辿り着き、アルクスとクリスティの回復を待ち王国へと帰還した。
「いつも帰りは転移だったから…………
どれだけ彼に甘えていたのか身に染みたわ……」
塔から近隣の町へ向かう際、エリィ達は魔物とも遭遇した。
アルクスとクリスティは戦力としては数えられず、意識の戻らないアルクスをクリスティが守る形が自然と取られ、魔物に対して攻撃できるのはエリィだけ。
腕には覚えがあった。
勇者に同行するのだから、騎士としての力に自信が無いワケではない。
だが……勇者のいる戦いに慣れ過ぎていた。
常勝無敗・無傷のパーティとして過ごした期間が長過ぎたのだ。
知らずに守られている事に慣れ過ぎていた。
いつもなら戦いが始まると同時に終わる程度の敵から、命の危機を覚えかねない強敵に感じられる程の苦戦を強いられる。その戦いは自信を奪うには充分すぎるものだった。
自身の弱さ。
そして、魔王討伐の為に国から旅立った当初から、だいぶ薄れてしまっていた『勇者の重要さ』が身に染みて感じられた。
また一つ溜息をつき、ティーカップを撫でていた手で顔を覆う。
――彼が最後に言い残した言葉が何度も頭に響く。
考えても仕方が無いこと。
時はもう戻らない。
そう思いながらも、またいつもと同じことを繰り返し考えはじめてしまう。
彼はいつから不満を溜めていたんだろうか。
……いや……そもそも最初から不満しかなかったのかもしれない。
急に異世界に呼び出され、
もう元の世界に帰れません。
貴方は最強の力があるから手伝いなさい。
……こんな理不尽な要求に従う理由がどこにあるというのだろうか。
――ただ……彼はなぜか従った。
強いくせに、すぐに謙るし、あれやこれやと気を使う。
旅を始めた当初なんかは、終止私に何もさせないくらいに動き続けていた。
『いやいやいや! お姫様にそんなことさせたら大変なことになるでしょう!』
とか心から焦ったように言っていた。
……そんな日々が続いて。
長く一緒に過ごす内に、いつしか私は 『彼はそういう人だ』 と思っていた。
誰かの為に尽くす事が好きな人なんだ。
誰かに使われる事が嬉しい人なんだ。
下にいる事が普通の人なんだ。
そう、勘違いしてしまったんだろうか。
……もちろん彼を馬鹿になんてするはずは無い。
頼れる仲間として好きだった。
思いやりに溢れた所も好きだった。
ちょっとした事で慌てる可愛いところも好きだった。
さりげない気の回し方も好きだった。
圧倒的に強い所も好きだった。
真面目な所も好きだった。
思慮深い所も好きだった。
ただ、異性としては
アルクスの方が好きだった。
でも、彼とアルクスなら間違いなく彼の方が大事。
国を支える姫としても、パーティメンバーの騎士としても『彼』の代わりがどこにも居ないことはわかっていた。
だからこそ私は、自身の好意を誰にも悟られないように隠し、彼の事を異性としても好きになろうと努力していた。
また、溜息が漏れる。
「いつから気づいてたのかなぁ……」
窓に目を移し、流れる雲を見つめる。
すると、時々悲しそうな顔をしていた彼の顔が次々と脳裏に浮かんでは消えていく。
ワケのわからない感情が沸き起こり、思わずテーブルに突っ伏す。
ティーカップがガチャリと音を立てた後、静寂だけが残る。
「……私の体くらい……何も言わずに……唇だけじゃなく全てをただ、ただ奪えば良かったのに。
絶対に逆らわなかったし、力ずくで手篭めにされたとしても喜んで見せた!
…………そうすれば私だって諦められたのに。」
また脳裏に彼が浮かぶ。
その姿は、さりげなく身を引き、アルクスと一緒に居られるように気遣いをしている彼だった。
悲しさを隠しながらも楽しそうに笑う彼。
あぁ……
そういうことができない優しさも……好きな所だったなぁ。
また先とは違う感情が溢れだし、考えはいつも通りまとまらない。
ただただティーカップをなぞる時がはじまる。
――その時、トントントントンと扉をノックする音が聞こえ、力のない返事を返す。
執事服を着た老齢の執事が部屋に入り、礼をしてからエリィに声をかけた。
「エリィ様……ガイノラという奴隷商人よりの使いが来ました。その者が言うには『勇者様より伝言を預かった』との事でしたので火急の要件と思い待たせております。いかがいたしましょう。」
老齢の執事の声の途中で立ち上がり、動き出すエリィの姿があるのだった。




