第19話 無茶なお願い
初老の支配人に案内されながら、マリーベルの待つ楽屋へと向かう通路を私達は歩いている。
プリシラの足取りは軽く、ほとんどスキップしてると言ってもいいくらい上機嫌だ。
「ご機嫌ね、プリシラ」
「そりゃそうよ! だってマリーベルに会えるんだもの! ああっ、夢じゃないかしらっ」
プリシラは顔いっぱいに笑顔を浮かべて私に振り向いてくれた。彼女が私にこんな顔をしてくれるなんて……生きててよかった……
そんなプリシラが、ふと何かを思いついたような顔になった。
「ねぇ、何か私に出来る事は無いかしら?」
「えっ?」
何それ? どういうこと?
「だから、このままだとあなたに借りを作りっぱなしでしょ? それだと悪いし」
「いや、でもこれはプレゼントなんだから、借りとかそんな気にしなくても……」
「私が気にするのよっ」
ホント気にしなくてもいいんだけどなぁ……だってこれは私の罪滅ぼしみたいなもので、それもまだまだ全然償い足りないんだから。
でもプリシラのそういう義理堅いとこ、好き。
「ほら、何か無いの?」
プリシラは急かすように私に迫ってくる。
「え、ええと……」
そんなこと急に言われても、プリシラが私のお願いを聞いてくれるなんて、私にとっては山のような財宝が突然目の前に現れたみたいで困惑してしまう。
でもそこで未だにうっすらと彼女の爪痕の残る左手が私の目にとまる。彼女に手を握ってもらっていた間、私は人生で一番幸せだった。あの幸せをまた味わうことができたら……
「じゃ、じゃあ……えっと、無茶なお願いだから、嫌なら嫌って断ってくれてもいいんだけど……」
「多少の無茶なら聞いてあげるわ、それだけのことをあなたはしてくれたんだし」
プリシラは本当に機嫌がいいらしい。でも、こんなお願いをして嫌われたりしないだろうかって思ったけど、そもそもハナから嫌われてるってことを思い出した。なら、言うだけ言ってみよう。
「その……」
「早く言いなさいよ」
プリシラは焦れるように私をなお急かす。
そう言われても、やっぱりためらう。だってホントに無茶なお願いだし。でも、私はぐっと覚悟を決めて口を開いた。当たって砕けろだ!
「わ、私の手を……」
「手?」
「私の手を……その……」
「手がどうしたの? まだ痛いの?」
そうじゃなくて、えっと……
「きょ、今日のデートの間だけでもいいから……私の手を握って欲しいなって……」
「えっ?」
「あ、いや、ホント嫌なら断っていいから……」
言ってしまった。なんて無茶なお願いをしてしまったんだろう。私の言葉はドンドン尻すぼみになっていって、最後まで彼女に届いたか自信が無い。
足を止めてしまった私に合わせて、彼女も足を止めていた。
彼女の返事を待つ、時間にしたら一瞬のことなのだろうけどその時間が、私にとっては永遠にも思えるくらい長く感じた。
そしてプリシラはゆっくりと口を開き――
「いいわよ」
「ふぇ!?」
――その言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、彼女は彼女の爪痕がまだ残る私の左手をきゅっと握った。
プリシラが、私の手をまた握ってくれている!! それも今度は明確に彼女の意思で!?
1日に3度もプリシラに手を握ってもらえるなんて、私なんかにこんな幸せが訪れていいんだろうか!!
「さ、行きましょ、マリーベルが待ってるわ」
「え、え、あ、う、うんっ」
自分で言いだしたお願いだけど、まさかそれをプリシラが受けてくれたことにほとんど夢見心地になりながら、彼女に手を引かれるようにして私は廊下を歩いて行く。
「それにしても」
プリシラはスタスタと軽い足取りで歩きながら、私に話しかけてきた。
「えっ」
「あんなに勿体付けて『無茶なお願い』なんて言うから、どんな無茶なお願いをしてくると思ったら……」
彼女はそう言いながらクックッと笑う。
「手を握って欲しいだなんて……ふふっ、随分可愛いお願いをするのね」
か、可愛い!? 彼女が私に可愛いって!? 聞き間違いじゃないよね!?
私は胸の高鳴りを必死で抑えながら、彼女に答える。
「だ、だって……あなたまだ私のこと……き、嫌いなんでしょ? ……その嫌いな相手の手を握ってって、ずいぶん無茶なお願いだと思うんだけど……私、てっきり秒で断られると思ったのに……」
自分で言っててへこむ。でも事実だからしょうがない。
「まぁ、確かにまだ嫌いだけど」
実に彼女らしく、はっきり言われてしまった。分かっててもきつい。
「――でも、それはそれとして感謝もしてるのよ」
「えっ?」
「あんな素晴らしい舞台を特等席で見せてくれて、しかもマリーベルに会わせてくれるなんて言うんだから」
それは、すこしでもあなたと仲良くなりたいっていう、わたしの自分勝手な思いからなんだけど……それもお父様のコネを使ってのことだし……
「あと、ご飯の時も言ったけど…………助けにも来てくれたし……」
「あっ……」
「ま、まぁ、そこまでしてくれたなら、手を握って欲しいなんてお礼としては安すぎるくらいよっ」
「そ、そう……」
そんなことないんだけど。だって私からしたらプリシラに手を握ってもらうなんて、それこそ黄金以上に価値のある事なんだから。
「それに、悪いこともしちゃったし」
その悪いことというのは、私の手にまだうっすら赤く残る彼女の爪痕のことだろうか。でもこんなの全く悪いことでも何でもなくて、むしろご褒美と言っていい。
出来れば私にもっとあなたの爪痕を付けて欲しいとさえ思ったくらいで……
でもなんとなくだけど、これ言ったらドン引きされる予感がするから言わないでおくけど。




