45 stand and fight でござる
じっと、クラヴィスはこっちを見ていて。
まだ何もされていないのに、ヨルフェリアはほとんど過呼吸を起こしていた。
当たり前の話だった。何せこの兄にはこれまでだって一度も勝てたことがない。勝つという発想が出てきたことすらない。あの大きくて小さくて閉じた家の中で、唯一の味方だった。同じ傷を受ける被害者仲間のはずだった。それでいて自分よりずっと凄くて大きくて賢くて、ひょっとしたらこの人みたいになれば自分の境遇だってそれほど不幸とは言えない、当たり前のハードルになるんじゃないかって、そう思ったりしていた。
そんな相手に、真っ向から歯向かうなんて、怖くて仕方がないに決まっているのだ。
「…………何のつもりだ?」
「こ、ここは通しません!」
息が苦しい。何もしてないはずなのに。杖を持つ手がカタカタと震えている。その手を抑える手も震えているからもうどうしようもない。泣いて許しを請いたい。何を許してほしいかわからないけれど、何かを許してくれるかもしれない。少なくともそっちの方が『大魔道』と『ダンジョンコア』の融合体を相手にするよりずっと可能性の高い賭けに思える。
でも。
それでも。
ヨルフェリアは、宝剣を失ったヒナトを庇うように、クラヴィスの前に立ちはだかっていた。
「……それで? どうするつもりだ」
静かに、表情を崩しもしないままクラヴィスは言う。
「まさか理解していないわけでもないだろう。たかだか『補助魔法士』であるお前の実力は俺には及ばない。どころか、上級職同士の戦闘ですら支援に徹するしかない。――そしてこの中で唯一俺に対抗できた戦士はそのザマだ」
くい、と顎で彼は示す。
砕け散った宝剣の欠片を前に、自失しているヒナトのことを。
これもまた、無理もない話だった。王族として育ってきた以上、どんな無頼にも国へ向ける執着というものがある。その象徴を砕かれたとあっては、心の根を抜かれて引き裂かれたようなもの。
ヨルフェリアだってわかっている。
もうこの場では、自分しか戦える人間がいないということを。
だからこうして、柄にもなく先頭に立っているのだ。
「――『補助魔法士』は、確かに直接の魔法戦に長けていません。でも、できないってわけじゃない」
「試してみるか?」
「――っ!」
クラヴィスが指を鳴らす。無詠唱。空気の鞭。ひょっとするとザンマやシェロであればその音を頼りに避けられたかもしれないけれど、ヨルフェリアには避けられない。身体をばちり、と弾かれて、たったそれだけで倒れ込む。
地面に這いつくばりながら、悔しさを堪えていた。
(なんて、情けない――――)
戦闘にすらならない。咄嗟に地面に付いた手が宝剣の破片を巻き込んで、手のひらがぱっくりと裂ける。そこに走る痛みすらも、今はただ腹立たしい。
無力だった。
「たとえば、今の俺は――」
夜空を、クラヴィスは見上げて、
「今この視界にあるすべての範囲を爆破することができる」
「だ、から、なんですか――」
「無意味だ、ということだ。お前との戦闘は」
「〈見えないままに傷つけろ〉!」
魔法を唱えても、何の音もしない。
それがどういう意味か、ヨルフェリアにはわかった。
相殺された。魔法を使った素振りも、何もないまま。
「威力のない分は特殊な攻撃方法で補う、か。俺を真似た不可視の無属性魔法という発想はよかったが、残念だったな。無詠唱で使わない限り、お前が唱え出してから反対魔法で打ち消せる」
(ダメだ、やっぱり勝てない。どうしよう、どうすれば――――)
考えている。何かないのか。何か自分にできることはないのか。何かやれること。なんだっていい。少しでも何か。何か――。
杖を向けながら、座ったまま後退していくヨルフェリア。
クラヴィスがそれに向ける視線は、冷たい。
「お前は弱いな……ヨルフェリア」
そんなの。
そんなの、言われなくたって。
(言われなくたって、ボクが一番わかって――)
とん、と。
そのとき、ヨルフェリアの身体が、ヒナトに触れた。
ずっと、こうして退がってきたから。
背中に庇っていたヒナトのところまで、追い付いてしまった。
あの自信満々だった人が。
瞳に希望を失っているのを、はっきりと見てしまった。
(ああ、そっか)
それで、ようやくヨルフェリアは気付いた。
(ここで、終わりなんだ――――)
「よっちゃん!!」
でも。
ヨルフェリアは、これまでの人生の中で何度も経験してきたはずのことも、今になって思い出した。
終わってからも、何かは続いていくということ。
終わった先で、何かを始めなくちゃいけないということ。
自分の名前を呼んだ13歳の、世界で一番可愛いアイドルの女の子は。
自分を助けに来たみたいに、こっちに向かって走っていて。
クラヴィスの指先が、彼女に向けられるのを見た。
「あ――――」
初めて、ヨルフェリアは知った。
今まで感じてきた恐怖とか苦痛とか、そんなのはただの遊びでしかなくて。
本当に本当に、大事なものを失いかけたとき。
こんなに頭が真っ白になるんだ、って。
だから、叫んだ呪文のことも、本当は自分ではわかっていなかった。
「――――〈切り拓く力をここに〉!!」
全部。
何もかも。
偶然の一撃だった。
手のひらに、砕けた宝剣を握っていた。手のひらから甲まで貫通するくらいに、強く。
だから、過去の残り香が。
クラヴィスの腕を、吹き飛ばした。
「はっ、えは――」
「…………」
「よっちゃん、だいじょ――」
「下がってなさい!! 早く!!」
今まで一度も使ったことのないような言葉遣いで、ヨルフェリアは叫ぶ。ローの顔も見ないまま、クラヴィスの前に再び立ちはだかる。誰かの足音がする。きっと避難民の誰かがローを連れて中に戻ってくれたんだ、と遠ざかっていくのを信じるしかない。
クラヴィスは自分の吹き飛んだ腕を見ていた。
『夢の蝶』としての力を使って再生することもないままに。
「お前は――」
彼は訊ねる。
「怖くないのか。自分より強大な相手に立ち向かうことが」
「怖いに……怖いに決まってるでしょう!!」
泣きながら、ヨルフェリアは叫んだ。
「怖いに決まってる……怖くない人間なんているもんか! 殴られたくない壊されたくない自分の心を脅かされたりしたくない! 人と向き合うのは怖いし優しいものだけと暮らしたいし自分が幸せになれるどこかを求めて逃げ出したい! でも、だから、それでも――」
強く、強く。
拳を握りしめた。
痛いけれど。
『融けない氷』に比べたら、こんなのは。
「逃げ出したくない、居場所だってあるんだ!!」
そのときヨルフェリアは、すべてのことが繋がった気がした。
自分の人生のすべて。つらかったことも、耐えてきたことも、耐えられなかったことも、逃げ出した先で新しい場所を見つけたことも。
今こうして、守りたいもののために、泣きながら立っていることも。
(ああ、そうか、)
だからもうその感覚を、決してどこかへ離してしまわないように。
(これがボクの、人生なんだ――――)
強く、抱きしめた。
「――――〈切り拓く力をここに〉!」
光の魔法。
過去から現在へと繋がってきた、バラバラの破片が放つ光。
『補助魔法士』としては考えられないような威力の魔法だけれど。
それだけでは、まだ足りない。
「〈この世界は存在していない〉――」
読み通り。
クラヴィスが呪文を唱えたのを、確かに見た。一度目、ヒナトが宝剣で攻撃したときは避けなかったのに、今回は見たこともないような消失の魔法――おそらく無属性を使って相殺した。そしてそれは、宝剣を破壊するときに使っていたのと同じもの。
クラヴィスは、おそらく宝剣を剣として使ったときの攻撃は無効化できるけれど、魔法具として使った場合までは『夢の蝶』の特質で受け切ることができない。その上、無詠唱による魔法でもそれを防げない。
純粋な魔法攻撃なら、勝機がある。
「見抜いたか――だがそれだけでは、」
「起きて、ヒナトさん!!」
わかってる。
自分一人じゃ勝てないことなんて。
「起きて! 立って、戦ってください!!」
自分一人で戦わなくちゃいけないことなんて、ないんだって。
「剣を壊されたくらいがなんですか、カッコ悪い! そんなのは膝を折るようなことじゃない。傷がついて、何かを失くして、そんなことくらいで終わってしまうほど、あなたは脆い人間じゃない!!」
こんなのは決めつけ。願い。こんな人であってほしいって、欲望の押し付け。わかってる。でも言う。人と関わることはきっと、そういうことだから。勝手に期待して、勝手に失望して、そういうことを繰り返して本当の心の形を確かめていくことだって、そう思うから。
「国がなんですか! 『勇者』が――その証が、どれほどのものですか! そんなのはどうだって、どうだってよくて――――」
あの日勝手に手を取ってくれたみたいに。
勝手に手を取って、無理矢理にでも立ち上がらせてやる。
「友達なら立って、一緒に戦ってください!!」
「――――情けねえな。あたしは」
金の髪の少女が。
ヨルフェリアの後ろで立ち上がった。
「……最近はそんなことばっかりだ。友達と喧嘩したと思ったらピーピー泣いて、よく知りもしねえ優しいやつに慰めてもらって……。挙句の果てには尻叩かれねえと戦えもしねえ」
宝剣を失った。
一度は勇気も、失った。
それでも立ち上がったのは。
誰かの、友達だった。
彼女は自分の手を、そっとヨルフェリアの手に添えて。
唱える。
「〈光があれば咲くように〉」
温かな光。
それが、破片で血まみれになっていたヨルフェリアの手を、癒していく。
その手を握ったまま、彼女は――ヒナトは言った。
「――純粋な魔法戦なんて、やったことねーぞ」
「ボクもです」
「おい」
「でも、大丈夫」
わけのわからないくらい大きな自信とともに。
ヨルフェリアは、言った。
「今だけは、無敵な気がしますから」
「――こんなんで強気になっちまうのか、あたしは」
クラヴィスが、指を弾いた。
不可視の風の鞭。
それを、ヨルフェリアとヒナトの光の魔法が打ち砕いた。
無詠唱と、同じ速度で。
「分担、か」
クラヴィスの見抜いたとおり。
ヒナトが宝剣の欠片から魔力を引きずり出して、それをヨルフェリアが瞬時に整える。あとはヒナト自身の魔力でその魔法を発射するだけ。お互いがお互いを補い合うことで可能にされた、高速魔法迎撃。
「だがそれでは、精々が互角程度――」
今度は、指を鳴らすことすらしない。
ただ無言のままの魔力操作で、次々とクラヴィスは魔法を繰り出す。炎、氷、風、雷、土、無――ありとあらゆる大魔法。天地を揺るがす大災害に匹敵する大いなる魔の奔流。
それを、二人は受け切っている。宝剣だって、ヒナトだって無尽蔵に魔力があるわけではない。全身から汗すら出なくなるほど疲弊して、それでも絞り出す。そしてヨルフェリアも。一歩間違えば膨大な魔力が不発に終わってしまうプレッシャーと戦いながら、光の魔法を的確に、大魔法を相殺するのに最も効果的な場所に照準を合わせ続けている。
たらり、と鼻血が流れ出した。脳の酷使による過剰な血流。細い血管がそれに耐えきれずに破れて裂けた。
それを、拭いもしない。
そして小さな声で、作戦を囁いた。
すべてを聞いて、ヒナトは。
「――本当にそれでいけんのか? どうなっても知らねーぞ」
「大丈夫ですよ」
ヨルフェリアは、自信満々の声で。
「どうなるかはボクが知ってます。――勝つんですよ。これから」
「…………参るな。友達がカッコよすぎると」
飛び出した。
二人同時にではない。ヒナトが一人だけ、手を離して走り出した。
もちろん、ただ無策に突っ込んだわけじゃない。
ヨルフェリアの手には、発射準備を終えた宝剣の欠片が握られている。
つまりはそこに、一発だけ、ヒナトと宝剣を合わせただけの魔力を持つ無詠唱魔法が装填されている。
クラヴィスには迎撃の選択肢がある。ありとあらゆる攻撃用の大魔法。けれどもしこれをヨルフェリアの手の中にある〈切り拓く力をここに〉がかき消した場合、無防備なままヒナトの接近を許すことになる。
「〈我が心より溢れ出ずるもの〉――!」
疾駆するヒナトが取り出したのは、魔法剣。本人の魔力によって具現化するそれは、宝剣と異なり、剣の形を保っているだけの純然たる魔法の一種。『夢の蝶』にダメージを通すことができる近接武具。
接近されたら、当てられる。
もう一つの選択肢に、呪縛魔法がある。一度目のヒナトにかけたのと同じように、途中で動きを止める。しかしこれも難しい。呪縛魔法を使った直後にヨルフェリアからの攻撃を受ければ、大ダメージは免れない。
だから、クラヴィスはこうする。
大火力で、すべてを薙ぎ払ってしまおうと、
「〈この世界は存在し――」
それを、ヨルフェリアは読み切った。
「行けっ、ヒナト!!」
「おォおおおおおおおおおおおッッ!!」
宝剣の魔力と、ヒナトの魔力。
ふたつの膨大な魔力を合わせて、練って、ヨルフェリアがその手の中に握っていたのは。
攻撃の呪文なんかでは、なかった。
〈もっとも速く辿り着くもの〉
加速のための、補助魔法。
クラヴィスの口が、呪文の最後の一言を唱える前に。
ヒナトの魔法が、彼の身体を焼き切った。
身体が壊れる。『夢の蝶』が無数の群体へと散らばって、そのひとつひとつが、滅ぼされていく。
魔力を限界まで出し切ったヒナトが振り向いて、ヨルフェリアと目を合わせたときには。
もう、誰もいない。
二人の勝利だった。
@
ゆっくりと、ヒナトは歩いて戻った。
ゆっくり、ゆっくり。超加速で駆け抜けた道を、一歩一歩、踏みしめるようにして。
そして、ヨルフェリアの前に立つ。
そこでどういうわけか、初めて気が付いたというような顔で、お、と声を上げて、服の袖で彼女の鼻血を拭いながら、こんなことを言った。
「カッコいー女がいる」
「……ボク、未だに信じられないんですけど」
ヨルフェリアは、そんな軽口を聞く余裕もまるでなくて、
「か、勝ったんですよね、ボクたち……ヒナトさん!」
「手ごたえはあった。あれで死んでねーってんなら、もうこっちはお手上げだな。……つか、『さん』とかいらねーよ」
「え、」
「さっき思いっきり呼び捨てにしてたじゃねーか。いいよ、もう。……友達なんだろ?」
「あ、いやあのそのさっきのはほら切羽詰まってたっていうかなんていうかいやそのほらあのその、ね、ほらわかるでしょみたいな」
「どこでテンパってんだお前は……」
二人の話し声に、周囲で眠っていた冒険者たちも起き上がり始める。何人か、起きて戦いを見ていた人間たちも、ようやく目の前の光景に現実感が湧いてきて、がやがやと騒がしくなり始める。
避難所の中から、金髪のアイドルが飛び出してきた。
「よっちゃーん!!」
とてててて、とそれなりの足の速さで走ってきて、どーん、とヨルフェリアに抱き着いた。
その横で、ヒナトは生まれて初めて、喜びのあまりに人間の顔が紅潮した時に出る『ぼんっ!』という音を聞いた。
「よっちゃん、すごい! ありがとー! みんなのこと守ってくれて!」
「ああいや当然っていうかなんていうかていうかさっき急に怒鳴りつけたりしてごめんなさい怖かったですか怖かったですよねあああああごめんなさいほんっと調子乗っちゃってごめんなさい」
「すごい早口だー!」
ぺこぺこ頭を下げるヨルフェリアに、ローが「こっちこそ勝手なことしてごめんなさい」なんて頭を下げ返しているのに、ふ、とヒナトは噴き出して。
これからのことを、考えた。
「……なんとか、この拠点は守り切ったな」
するとヨルフェリアも真面目な表情に戻って、
「他の拠点にも、きっと来てますよね。攻撃」
「……頼めるか?」
「はい。……兄様が来た後に、また援軍が来るとも思えません。ヒナトさ……ヒナトがここを請け負ってくれるっていうなら、ボクは他の場所の応援に向かいますよ」
「……なあ、」
その、と遠慮がちに、ヒナトは。
「……大丈夫か?」
兄だった。
たった今ヨルフェリアが倒したのは自分の兄だった。ヒナトにとってだって、仲間だった。
それを失った痛みは、絶対にあるはずで。
けれど、ヨルフェリアは胸を張って言った。
「大丈夫です! ……悲しむのは、全部が終わってからでもいいですから。今は人命第一! 違いますか?」
ヒナトは一瞬、呆気に取られて。
それから、苦笑した。
「……違わない。頼むぜ、よっちゃん先生。こっちはこっちでやるからさ、他のとこで思う存分暴れてきてくれ」
「了解ですっ。第一か、第三か……まあ、第三かなあ?」
ん?とヒナトが口を挟む。
「そうか? 第三はザンマがいるから不安は……」
「いや、ザッくんが一番強いんですよね? 兄様が向こう側にいたってことはそれもわかってただろうし……。むしろ、第三に戦力は集、」
言葉が途中で切れたのは。
みんな同時に、耳を澄ましたから。
「……シアちゃんの声だ」
呟いたのは、ロー。
第三拠点の方から、歌が聞こえてきている。
ちらり、とヨルフェリアを見上げて、目が合って、溜息を吐いて。
ヨルフェリアは、ローの手を取った。
「しょうがないなあ。……ちょっとだけですよ?」
@
路地裏で崩れ落ちた魔法使いの男にも、人生というものがあった。
何でもできる男だった。何をやらせても人並み以上。理不尽な貴族の家でもそこそこうまくやっていたし、魔法に至ってはこの国で文句のつけようもない一番星。
何にでもなれた。
けれど彼は、自分に感情がないと思い込んでいた。
自分の心を測るのが苦手だった。だから、いつでも反抗できたはずの家の中でずっと人形のように過ごしてきたし、それに疑問を覚えることもなかった。自分の中にある優しさと残酷さを区別することもなかったし、それらに重さの違う価値をつけることすらもしなかった。
妹が家を出たいと言えば出してやったし。
その罰を受けろと言われれば、目玉だって抉られた。
義眼になってなお、男は自分の心を知ることはなかった。そんなものは簡単に作れたし、何かを譲れないと思う気持ちも、大して存在しているとは思えなかった。
だから、父親を殺したときには、不思議な気持ちになった。
何が自分をそうさせたのだろうと、少しだけ考えたりもした。
少しだけだったから、どこにも辿り着けなかったけれど。
捕まってもいいと思ったところに、世界を滅ぼそうとしている女からの勧誘を受けた。知らない仲でもなかったので、そのまま付き添うことにした。
そして最後まで、男は何も知ることはなかった。
妹たちが迷っている間に、すぐさま殺してしまわなかった理由も。
かつて魔人の少女に、ステージを見せた理由も。
父親が、どこにでもいる一人のメイドを妾にすると言っただけで、殺してしまった理由も。
そのメイドとただ一度だけ、指先が触れたときに感じた、甘い痺れの理由も。
何も知らないまま彼は、街の、誰もいない路地裏に座り込んでいて。
自らその心臓に手を伸ばし、最後の魔法で破壊した。
後に残されたのは、一羽の蝶の死骸だけ。
最後まで、彼は知らなかった。
遠い地で一人のメイドが、夏の月の中に飛ぶ一羽の蝶に手を伸ばしたこと。
そのとき誰かを、思い出していたこと。
何も知らないままで――少しだけ微笑んで、去っていった。
『夢の蝶』の『ダンジョンコア』――――破壊。




