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44 麒麟でござる



(――――ああ、これは死ぬな)


 血溜まりの中に倒れ込んで、静かに、シェロはそんなことを思っていた。


 出血量がひどすぎる。全身裂傷。右足なんか千切れかけて、どうやったって助かりそうにないし、立ち上がれそうにもない。


(実力が、違いすぎた――)


 当然の話だ、と思う。

 ずっと、力を疎んできた。


 怖かった。力を振るうのが、振るわれるのが。どうして傷つけ合わなければいけないんだろうと思えば泣きたいような気持ちにもなったし、食事に行った先でぼんやりと口にする肉の元の形を想像していたこともあった。


 あの日から、ずっと立ち止まっていた。

 進んできたクドに、敵うはずもなかった。


 これからどうなるだろう。自分が死んだ後。ザンマは来てくれるだろうか。あのクドを簡単にいなしてしまった友人は、今回もそういう風に街を救ってくれるだろうか。



(何にせよ、私にできることはもう――)




「止まれ、クド=クルガゼリオ」




 聞き覚えのある、声だった。


 視力がもうほとんど戻らなくなっている。音だけ。でもそれだけでもわかってしまう。聞き慣れた声は、それだけで誰のものだか理解できてしまう。


 心の中で、叫ぶ声がした。


(やめろ、)


「ああ? ……んだよ、雑魚」

「この先には街の避難民がいる。お前は通さない」


(やめてくれ、)


「お前まさか、俺とやるつもりか? 見覚えあるぜ、お前の顔。仲間置いて逃げた腰抜けだろ」

「そのとおりだ。僕は弱い。それでも、お前に立ち向かう」


(お願い、だから、)




「僕はカイト=イストワール。――たとえ勝ち目がなくたって、背中に守るものがあるのなら。どんな相手とだって戦ってみせる」




「やめ……ろ……」


 自分でも、自分に起こったことが信じられなかった。


 立ち上がっていた。シェロは。ほとんど神経の通ってないような二本の足で。少し体勢を変えただけでコップをひっくり返したような血が地面に降り落ちていくような重傷で。


 手足の感覚がない。上下感覚も、平衡感覚もない。視力もない。クドがどこに立っているのかすらわからない。


 なのに、立ち向かうために。

 また、立ち上がっていた。


 クドの声がする。


「…………お前は、何のために戦う」


 答えられない。

 本当は、戦いたくなんてないから。


「お前は、何のために立ち上がる」


 答えられない。

 本当は、立ち上がりたくなんてなかったから。


「お前は――」


 ふっ、と。

 少しだけ、笑う声がした。

 ずっと昔に聞いたような、懐かしい声で。





「――――今、どこに立ってるんだ」

「――――この、街、だっ……!!」





「――シェロくんっ!!」


 もう何も感じられないようなひどい有様だったけれど。

 好きな人の声だけは、死んでも忘れなくて。


 だから、彼女が投げてくれたものも、受け止めることができた。


 急速回復ポーション。

 割って、使って。


 全快なんてわけにはまるでいかなかったけれど。

 とりあえず、生死の境を脱するくらいのことはできたから。


 あとはもう。

 勇気を出すだけだった。



 叫べ。






「本気で来いよ、シェロ=テトラァ!!」

「〈変身(シェイプ・シフト)〉――――!」






 稲妻が落ちた。


 比喩ではなく、そのときまさに。晴天の夜空から、突然大雷が、シェロの身体に落ちてきた。けれどそれは、彼の身体を焼いたりはしない。その表面に纏わりつくように、肌を焦がしていくだけ。


 それが、シェロの〈変身(シェイプ・シフト)〉後の姿。

 口元の鱗が全身に広がる。前髪を跳ねのけて一本の角が額から突き出てくる。


 数いた『変身者(シェイプ・シフター)』の中でも最高の、別格の強度。


 麒麟。

 伝説の獣に、その姿はよく似ていた。


「行くぞ――」


 雷閃。


 踏み込みのための一足目、超高熱が地面を溶かして煙を上げる。音の壁が割れる音。数年ぶりの〈変身(シェイプ・シフト)〉に、身体が耐えきれず金属の割れるような軋みを上げている。


 一撃必殺。

 そのつもりでなければ、届きすらもしない。


 間合い。右回しの蹴りを、全力で。


 クドが、受け止めた。


「はッ――よくなってきたじゃねえか!」

「まだまだ――!」


 たったそれだけで、稲妻を込めた巨大な玉が破裂したような雷光が周囲に走る。

 ほとんどそれは、神話の中の戦いだった。


 右足を引く。踵は付けない。〈変身(シェイプ・シフト)〉してなお実力が上なのはクドの方。それはわかっている。時間は取り戻せない。でもここで勝つしかない。


 だから今、強くなるしかない。

 変形。手首から、旋棍の形を模した外骨格を形成して。


 ステップ。拳は左を前に、右を後ろに。一発、二発、左を振って注意を引き付けてノーモーションで左脚のロー。見抜かれて足を引っかけられて外側へ弾かれる。身体が開く。がら空きの顔面にクドの爪が来るのはわかっている。


 角で受ける。


「ぐッ――」

「どうしたどうしたァ!」


 攻守逆転。向こうの方が疾い。一発、二発――乱打に対応しきれずいくらか腹に貰えば、単純なやつだからもうトドメを刺そうとしてくる。


「見え見え、だっ!」

「ちッ――」


 膝を抜いた。身を屈めれば、フィニッシュブローをかいくぐって、攻撃直後の無防備な胴体がある。拳も、脚もいらない。今は五つ目の四肢がある。


「食らえ――」


 槍のように、角を研ぎ澄ます。稲妻を込める。何の技巧もない、ただの突進。


 突風が吹いた。

 クドが、その羽から、竜巻のような旋風を放った。


 突進の威力が殺されるどころか、その場に立ち止まれもしない。大きく風を受けて、シェロは後方へと吹き飛んでいく。地面に転がりながら着地して、気付けば近くにカイトが立っている。


「シェロくん、勝ち目は、」

「ほとんどない」


 きっぱりと、シェロは言った。


 土台無理な話なのだ。変身強度に違いがあるとはいえ、クドと自分を比べればおそらくお互いが〈変身(シェイプ・シフト)〉しただけの状態でもほとんど同格程度。そうなると『ダンジョンコア』の力まで使っているクドに、敵うはずがない。


 今はただ、脅かしているだけ。

 雷、角。そのふたつの新たな戦闘ファクターで向こうの不意を突いているだけ。こっちも風と翼には上手く対応し切れていない。


 こちらの手札が見切られたら一気に終わる。

 その危うさは、シェロもよくわかっている。


「だが……ゼロではない」


 逆に考えれば、だ。

 手札が見切られるまでは、一方的に蹂躙されることはない。こちらの手札が尽きない限り、劣勢ながらも持ちこたえることはできる。


 持ちこたえて、どうするのかと言えば。


「隙をついて叩きこむ……一撃必殺を」


 雷と風。

 直接的な威力なら、雷の方に分がある。戦闘の結果は単純な力量差だけでは決まらない。刺せるだけの刃があれば、たった一回の勝利を掴み取れる可能性だってある。


 ふとそのとき、気が付いた。


「カイトくんは……私が、」


 風の刃が飛んでくる。腕の外骨格でそれを受ける。正面から受ければ両断されてしまうだろうから、その刃の側面に腕を滑らせるようにして。後方に流したそれが、拠点の壁に亀裂を入れていく。


 ぐずぐずしてはいられない。シェロは走り出す。


 本当は、こう訊こうと思っていた。


 私が怖くないのか、と。


 自分は怖かった。いつの間にか、知らない間に仲間に入れられて、知らない間に期待されて、知らない間に傷つけて。そんな自分の力がずっと怖くて、ないものにしたくて、怯えながらずっと生きてきた。


 仲間に入れてほしかった。

 取り返しのつかない過ちを犯しても、まだ。


 誰かに手を、引いてほしかった。


 でも。

 訊ねる前に見たカイトの目が、何も変わらなかったから。

 ただありのまま、自分を見つめてくれていたから。



(――――もう私は、それだけでいい)


「〈招雷一縷〉――!」



 磁力の道を、クドまで走らせる。自身の身体の稲妻が持つ磁力と同種の磁極。自らを押し出して反発する力。地面に脚だって付かない。射出された矢のように、迷いも何もない。


 今なら、帰る場所があると信じられるから。


 激突。


「く、ォオオオオ!!」

「甘っ、ちょろいんだよッ、てめえの技はァ!!」


 両腕と膝を合わせて突進を受けられる。雷炎の黒い跡を残して十五歩分、シェロは進み、クドは後退して。


 インファイト。


「〈風震破山〉!」


 ゼロ距離の寸勁。重心の移動のみによってダメージを生み出すこの世で最も前触れのない、究極の打撃。


 それを、シェロは知っている。

 幼いころに、一緒に練習した技だから。


「〈雷轟裂海〉――!」


 同じ技ではない。自分は修練を怠ってきたから、同じ体術は使えない。だからこれは、〈招雷一縷〉の応用技。磁力の反発で、無理矢理に強烈な体重移動を起こす、まやかしの技。


 けれど――


「が――ッ」

「ぐ――ッ」


 それは互角を生み出して。

 間合いが離れる。

 手と足が、まだ届く距離。


「いくぞ――ッ」

「死ねや、半端者ォ!」


 上段蹴りに潜り込もうとしたところを踵が落ちてくる。咄嗟に右に身体をずらせばその瞬間にはすでにステップ。クドの両足が着地するのを左目の視界の中に捉えて交互蹴りの回避の準備をいや違うフェイント右の拳を首だけで避けて左左右バックステップで回避肘が伸び切った捕まえて中段蹴りクドが翻る腕を離す宙に浮かんだままの飛び蹴りを


 身を屈めて躱して、


「貰った――」

「なわきゃねえだろォ!」


 烈風。この距離では致命の隙になると見越して後方に転がって間合いを測り直して、


「な――」

「〈空魔虚道〉ォ!」


 身体が引き寄せられる。あまりにも急激な吸い込み。麒麟の姿になってなお骨が軋むような強烈な圧力。


 極小の真空。

 囚われている。


(逃げられ――)

「〈時の果て(アイス)の鋭利(ピラー)〉!」


 背後からだった。

 氷柱。氷の魔法。鋭くとがったその小さな槍が、無数に飛んでくる。


 誰の援護かなんて、見るまでもない。


「行け、シェロくん!!」


 突っ込んだ。


 氷柱のダメージなんて大したものではない。一流の戦闘者なら次の行動のために無視してしまえる程度のもの。たとえ真空の影響で急加速したそれであっても、それよりも強大な力が迫っているとわかっているのなら、あえて受けて対峙にすべての集中を注いでしまえる程度のもの。


 だから、刺さった。

 呪縛魔法入りの、氷柱が。


 しまった、なんて言葉をもうクドは使わない。自分の行動に後悔をしない。選択の結果を受け入れる覚悟ができている。迎撃の準備はすでに始まっている。


 だから、シェロも全力で。


 手指の神経からすべての臓器に至るまで稲妻を走らせる。身体を直接動かすんじゃない。脳で。電気で。雷で。完全な姿勢をコントロールする。磁力の道。加速。連動。高圧電流。肉体細胞の耐久限界を突破する活性化。高エネルギー。出血なんてノイズは認めない。高熱でその一滴すら残らず蒸発させる。


 麒麟が疾駆する。

 窮奇が迎え撃つ。




「――――〈迅雷〉」

「――――〈風烈〉」




 勝負は一瞬。

 あまりにも、単純な結果。


 クドの風がシェロを切り裂くよりも先に。

 シェロの雷がクドを貫いた。


 罅が入る。

 軋む。

 割れる。


『窮奇』の『ダンジョンコア』――――破壊。


 シェロの、勝利だった。





 ごぼっ、とシェロが血を吐いた。


「シェロくん!」


 カイトが駆け寄ってくるのに、心配ない、シェロは手をかざして応える。


「ただの……オーバーヒート……」

「何が大丈夫なんだそれは! とにかく治療を……」

「シェロくん、これ!」


 もう、麒麟の姿は保てていない。下手をするとさっきの瀕死の状態よりもひどい。生死の境を彷徨いかけているところに、ゼンタが追加の回復ポーションを持ってきてくれる。カイトがそれを使ってくれるけれど、一日に二度の急速回復は無理がある。細胞のほとんどが死にかけた状態では、最上級のポーションでも全治に一ヶ月はかかるだろう。


 それでも、少しだけは回復して。

 胸に穴の開いた、クドを見下ろすくらいのことはできるようになった。


「…………俺の、負けか……」

「……よく喋る。心臓が吹き飛んだ状態で……」

「かかっ。俺ァお前らとは鍛え方が、」


 言葉の途中で、ごぽり、と口から血が溢れ出す。咳き込むだけの余力もないらしい。シェロは屈みこむと、口の中に満ちたその血を手で掬い出してやった。


 見ればわかる。

 もう、助からない。


「同族殺しの、気分は、どうだ……?」

「……最悪だ。死にたくなるほど」

「かかっ。弱え、弱え。お前は力が強くても、心が弱え……」


 クドは無理やり笑顔を作ろうとして、諦めたように真剣な顔に戻った。

 そして、言う。


「俺より強えやつが……くだらねえことで、悩むんじゃねえ……」

「っ、私は、」

「死ぬまで、生きろや……クソ野郎……」

「クドっ!!」


 瞳から、光が消える。

 小さく、カイトが呟いた。


「……もう、死んでる」


 一度だけ、シェロは拳を握りしめた。

 瞼を、強く閉じた。


 それを開けば、今はもう、それでいい。


「カイトくん。この場は……任せても?」

「っおい、君、まさか他の拠点に行く気か? 『ダンジョンコア』を単騎で破壊したんだから――」

「単騎じゃない。カイトくんと……二人で、だ」

「そ、それならそれでもいいけど、でも十分だろ!? もういい加減、休んだって……。それに身体も、」

「後悔はしたくない」


 もう二度と、と。

 シェロは、カイトの瞳を見つめる。


 折れたのは、カイトだった。


「……わかった。こっちは任せてくれて構わない。だけど、どこに援軍に行くんだ? ……いや、第二拠点か。第三にはザンマくんが、」

「あの」


 ゼンタが、声を上げた。


「何か、聞こえてこない?」


 向こうの方から、と指をさす。

 第三拠点の方角。


「――――歌?」


 カイトが怪訝そうに言えば、シェロが歩き出す。


「第三に行ってみる。……何かが起こっているのかもしれない」

「あ、あの、シェロくん!」


 それを、ゼンタが呼び止めた。

 さすがにシェロもこの状況では素直に会話ができて、


「……どうか、した?」

「足手まといなのはわかってるんだけど……私のことも、連れて行ってくれないかな」


 ゼンタは、歌声の方角を見つめながら、こんなことを言う。



「これって――シアの歌声だわ」




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