29 炎と鍵の記憶でござる
幼馴染だった。
シェロと、クドは。
その頃はまだ名字もなかった。王都やライトタウンにはとてもじゃないが及びつかないような田舎。そんな小さな村の、小さな家の拾われ子として、彼らは育てられた。
どちらが年上だったのかも知らない。まるで似ても似つかないふたりだったけれど、対等な、ほとんど双子のようにして幼少期を過ごした。
幸せな時間だった、とシェロは思う。今思い返しても、間違いなくあのころの自分は幸福だった。
鳥の鳴く声に朝、目が覚める。寝起きの悪いクドを揺り起こして、手を引いて鶏小屋に向かう。そこで卵を集めて、水を取り替えて、餌をやるのが一番最初にやる仕事。卵を持って家に戻れば、仲間たちが「おはよう」と言って迎え入れてくれる。
仲間。
親では、なかった。
「俺たちは対等だ。……まあ、だからと言って何も教えないと苦労するのはお前たち子どもだからな。知らないことがあったら何でも言え」
牛と、羊の世話。何度もそれを手伝った。シェロは牛の身体を洗ってやるのが好きで、クドは羊の毛を刈るのが好きだった。それも午前中で終われば、午後からは仲間のうちの何人かが、代わる代わる勉強を教えてくれた。それから、この世界の常識も。
「俺たち『変身者』は進化した人間だ」
この村でだけ通じる、常識も。
「悪魔を見てみろ。俺たちの〈変身〉した姿と限りなく、その形は似ている。……悪魔を恐れるな。俺たちは悪魔と人の、合いの子なんだ」
実際にそうだったのか、シェロは知らない。本当に人と悪魔から自分が生まれたのか。のちにドン=ベルスは根拠のない口伝だ、と言ってのけたけれど、しかし確かめようがない。シェロは、自分の親を知らないから。
「『ダンジョンデーモン』がいて『ロードデーモン』がいる……。そして俺たち『変身者』がいる。俺たちは人より遥かに優れた力を持ち、悪魔より遥かに優れた知性を持つ。つまりは、ハイブリッドだ」
だから、と必ず教師は、たとえ誰が務めたとしても、こう言って話を締めくくった。
「俺たちには、世界を支配する権利がある――」
国家指定テロ団体『魔天』。
彼らが生活する小さな村で、シェロは育てられた。
その信条は単純明快。『変身者』こそが万種の頂点に立つべき種族であり、その他すべてはそれに隷属すべき種である。それを根拠に国家転覆を企てる、Aランク冒険者パーティにも劣らぬ戦力を備えた脅威の集団。それが、『魔天』だった。
学術と思想の教育が終われば、次には肉体の鍛錬が始まる。拠点は分散していたらしく、その村にはクドの他にシェロと同じ年代の子どもはいなかったけれど、それでも二人の才能はことごとく褒めちぎられた。
「強いな……。クドもそうだが、特にシェロは〈変身〉の強度がかなり高い。素の戦闘力もその年代でそこまで鍛え上げられるなら、いずれはうちの代表者を張ることになるかもしれないな」
「なー! ししょー! 俺はー!?」
「クドはもう少し落ち着きを持て。勝気が逸りすぎだ」
ちぇっ、と拗ねるクドの頭を、教師役が撫でる。それをシェロは、和やかに笑って見ていた。
褒められれば悪い気はしない。だから、シェロもその頃には素直に思っていた。いつか自分は、この村の代表になるのかもしれない。ひょっとするとクドがそうなるのかもしれない、とも思ったけれど、どっちだって構わなかった。どちらにせよこの穏やかな暮らしは、ずっと続くのだと思っていた。
拾われてきてから十年が経って、名字を貰うことになった。大人の証として。
誰のものでも構わない、と言われた。誰でも、好きな大人から名字を貰っていい、と。
クドは、いちばん自分と一緒に遊んでくれる男から名字を貰った。クド=クルガゼリオ。それからは、それが彼の名前。
シェロは、いちばん自分に優しくしてくれる女から名字を貰った。シェロ=テトラ。それからは、それが彼の名前。
大人になったのだから、と言われた。
大人になったのだから、もう家畜の世話ばかりではない。もっと複雑で、難しい仕事もやってもらおう、と。
クドは喜んだ。そういう仕事を任せてほしかったんだ、と言って。
シェロは不思議に思った。生き物の相手をするよりも複雑で難しい仕事なんてあるのだろうか、と思って。
シェロの疑問は、簡単に解消されることになる。その複雑で難しい仕事というのも、生き物の相手をする仕事だったから。
人間だった。
クルガゼリオの姓を持つ男が、ある日いつの間にかこの村に、見覚えのない人間を運び込んでいた。ひとりではない。大人から子どもまで、何人も。
獣を獲るための檻の中に入れられていた。食事は朝と晩、日に二回。排泄をするための容器の入れ替えを、日に一回。それ以外の時間は檻に布を被せて、お互いを見えないようにする。特にシェロとクドのふたりはその世話役をほとんど自分たちだけで担当することになった。
嫌で、仕方がなかった。
なぜって、動物ならまだいい。けれど人間は言葉を吐く。たとえそれがシェロにはわからない言葉だったとしても、あからさまに悪意があると見て取れれば、いい気はしない。初めは新しい仕事に喜んでいたクドも、やがてはうんざりし始めた。
「あんな奴ら、殺しちゃえばいいのにな」
「そういうわけにはいかないだろう」
「なんで」
「家畜だって、意味があって生かしてるんだ」
「でもあいつら、動物ってほどかわいくねーし……。それに、毛も乳も、卵も取らねーじゃん。生きてる意味あるか?」
クドの疑問に、シェロは答えられなかった。
「なー。シェロ。聞いてみてくんねえ? ほら、」
お前のとこの人。うちのは答えてくんなかったからさ、と。
クドが言えば、シェロもその気になった。名字を分け合ってから共に暮らしている女に、率直にそのことを訊ねた。
「あの人たちは、僕たちの村に何をくれるの?」
「…………」
家事の手を止めて、女はじっと、シェロを見た。
瞳の奥に、揺らぐ青い火のような、迷いがあった。
優しい人だったから、こんな顔をしているところをシェロは見たことがなかった。いつも笑ってばかりいて、思いやりに溢れて、周りからもそれを返してもらっている。自分の思う穏やかな暮らしが、そのまま生きているような人。そう思っていたから。
拳を握る仕草なんて、まるで似合わなくて。
「…………争い」
「え?」
女は短く言うと、服の中から、細い紐を引いて取り出した。輪になるように首にかけていたらしく、その間には一本の鍵が通されている。
その鍵を、女はシェロの手に、そっと乗せた。
「シェロ。よく聞いて」
「な、何……?」
「あなたにはこれから、自分がしたことを後悔する日が訪れるかもしれない。でも、必ず覚えておいてほしい。それは、あなたのせいじゃない」
触れる手のひらから、感じたことのない熱が伝わってくる。
わけもなく、怖くなった。
何か取り返しのつかないことを、言われている気がした。
(この鍵は――檻の鍵? どうして――?)
「倫理も道徳も、本当は自分だけで目覚めていくものじゃない。人と触れあって、言葉を交わして、そうして知っていくものなの。だから、この場所であなたが身に付けたこと、あなたがしたことは、あなたのせいじゃない。誰だってこんな場所にいたら、こういうことをする。それが当然だって思うようになる。たとえどんな人だって、まだ考えたりする力の弱い時期にこんな風に物を教えられれば――」
「な、何の話をしてるの……?」
「シェロ」
ぎゅっ、と。
女が、シェロの手を握らせた。その鍵を、決して離さないように。
「あなたに選択を委ねたりしない。……これから、ひどいことが起こる。そうしたら、この鍵で檻を開けて」
「でも、」
「開けて」
そのとき、シェロはようやく気が付いた。
瞳の奥に揺れる、青い火の、その正体。
それは、
(涙――――?)
泣いたりなんて、決してしない人だったから。
今でもいちばん記憶に残っているのは、かえってその表情で。
「あなたのためだなんて言わない。それはきっと、深い呪いになってしまうから。これは私の命令。今までのものも、これからのことも」
「それって、」
「シェロ」
最後に、女は微笑んだ。
「自分のことを、自分で決められる人になりなさい」
村に鐘の音が響いた。
獣が襲来したことを告げる、警鐘の音が。女はすぐさま家を飛び出していく。追いかけようとして、もうシェロが外に出たときにはその姿は見当たらない。
鍵は、シェロの手の中に。
(わからないけど――行かなくちゃ)
命令という言葉を、よく知らなかった。
この村では、お願いとか、頼み事とか、そういう言い方をしていたから。
何かをすることは、自分の意志のように見せかけられていたから。
シェロは走った。
人のいる、家畜小屋へ。
辿り着くころには、どういうわけか村のあちこちから煙が巻き上がっているのが見える。火だ。どこかが燃えている。
(家畜が死なないようにって、そう考えたのか……?)
布を剥がす。人間たちが暴れている。それにちょっと気後れしたけれど、言われたことだから。錠に鍵を差し込んで――、
「――シェロっ! 何やってんだ!」
「クド――?」
小屋の入口からクドが姿を見せたけれど、もう遅い。
鍵がカチリ、と鳴ると、次には衝撃があった。
(――え?)
何をされたのかわからない。気が付くと天井が見える。頬のあたりが火に触れたように熱い。
(なぐ、られ……?)
「やめろっ!!」
クドの叫び声。続いて家畜たちの怒号。手の中に鍵がない。殴打音。腹を踏まれた。頭を抱えて丸まった。それでも頭ごと誰かに踏まれたり、蹴られたりした。そんなに長い時間じゃなかった。クドが獣のように唸る声が聞こえる。そこに誰かが扉をぶち破って入ってくる。
「人間ごときがッ!!」
クドではない、クルガゼリオの声。
村で一番、強かった男。
遅れて、叫び声。
目の前に転がってきた、彼の首。
もうシェロは、何も考えられなくなっていた。
本当のところ、短く何度も気を失っていたのかもしれない。
それはこんなに、僅かな時間で起こった出来事ではなかったのかもしれない。断片だったはずの記憶が、まるで連続したシーンのように頭の中で繋ぎ合わされただけなのかもしれない。
次の記憶では、村が燃えていた。
手足も動かせない状態で、誰かに首を、掴まれていた。
黒い装束の男たちが何かを話していた。その言葉をシェロはもう忘れてしまったけれど、低い、落ち着いた声が聞こえたあとに、自分の首を絞める手が緩んだ。そのことをよく覚えている。
「裏切りモノォ!!」
クドが叫ぶ、光景も。
炎の揺れる、歪んだ村の真ん中で。
四足を黒く染めたクドが、涙を流している姿を。
その瞳が、はっきりと自分を捉えていたことを。
あまりにも鮮明に、シェロは覚えている。




