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26 彼女が令嬢だったころ、でござる




 夏虫が鳴いている。


 夜風はまだ日の熱を帯びて、街角は生温い水の中にいるように息苦しい。


 ただ歩くだけでも。

 ザンマの胸元、襟の下をつう、と一筋汗が流れた。


 橋の上で、ザンマは足を止める。


 月が眩しい。


(拙者は、何をしておるのか)


 さっきの自分の態度はなんだ。

 よっちゃんやアーガンがあれだけ人に親切にしようとしているところに、自分のくだらない私情を挟み込んで、意固地になって。


(自分で自分が、情けない……)


 気持ちはやる方なく、拳すらも握れない。


 自分の心の動きくらいは、自分でわかっていた。

 自分は、ただ怯えているのだ。


 よっちゃんが言ったことは、ちゃんとわかっている。

 出会いがしらのあの態度はどうあれ、ヒナトからそれ以上の悪意が感じ取れないことなど、簡単にわかったことなのだ。


 あとはいつものように殴り合って、水に流して、それで終わりの話でもよかったはずなのだ。


 それができないのは、


(拙者が、恐れているからだ。また、人に裏切られるのを。人を裏切るのを。そして――)


 月に囁くように、ザンマの口が開く。

 心に浮かんだ言葉を、そのまま。



「求めねば在るとも知らじ月の水――」



「ザッくん!」


 振り向くと、よっちゃんがいた。


 走ってきたのだろう。息切れして、前屈みに自分の膝に手をついている彼女は、やっと見つけた、と言ってザンマに向き合う。


「どうしたのでござるか」

「あ、えっと。ザッくんに話さなきゃいけないことがあって」


 ズレ落ちた眼鏡を指で上げて、額に汗してよっちゃんは、


「ボク、家出してこの街に来たんです」


 きっぱりと、そう言った。


「それも、ちょっとやそっとの家出じゃなくて……。こう見えてボク、結構高めの地位にいる、貴族の家に生まれたんです」


 そのことは、何となくザンマも察していた。

 生活の端々や、過去への詮索を嫌うポイント。そういう積み重ねが、何となくそうだろうと、ザンマに感じさせていた。


「それで姫様……ヒナトさんにも、お世話になったんです。その――」


 スー、ハー、とよっちゃんは胸に手を当てて、深呼吸を繰り返して、やがて、


 覚悟を決めた顔をして。


「ボク、次の王様との婚約を破棄して、家を出てきたんです」






 良い家か悪い家かで言えば、まず間違いなく悪い家だったのだろうとヨルフェリア=デイルヴェスタは思っている。


 両親は家のことしか考えていないような人たちだった。


 兄弟は上に兄が三人いて、下には誰もいない。

 家の中で発言権がある子どもは一番上の兄だけで、その兄もやることは両親の追従。


 だから、子どもたちに自由意志なんてものは何もなかった。


 物心ついたときから、決められたことを決められたようにするだけの生活だった。

 勉学も魔法も礼儀作法も、できて当然。唯一苦手だった運動は『間違った動きをしてしまう』たびに嫌になるほど『直された』。


 いちばん言われた言葉は『こんなこともできなくて恥ずかしくないのか』。

 一度も言われたことがない言葉は『あなたのためにやっているのよ』。


 清々しいくらいの人形生活で、ときどき、どうして人間の中には『人形』として生まれる人と『人間』として生まれる人がいるのだろうと、不思議に思うこともあった。


 ある日、社交界に顔を見せる直前くらいのこと、それを気遣って身体に傷をつけるような『修理』がはばかられるようになったころ。


 ふと余裕が出てしまって、自分が『人形』として生まれたわけじゃないことに気付いた。


 ただ、『人間』であることを、他の人に制限されているのだ、と気付いた。


 自分が生きている、と気付いて。


 生きることは、耐えることだと思った。


「喜びなさい。第一王子との婚約が取り付けられそうだ」


 社交界に出てから数年が経って、父がそう言った。


 言われたときには、喜べと言われたので喜んだ。

 それが自分に何かをもたらしてくれるとは思わなかったけれど。


「ただし、この国で王族と婚約するというのは簡単なことじゃない。もちろん、妃になる者は王に絶対の服従を誓わなくてはならないからな」


 どこがだろう、と聞いていて思ったけれど、それを表情に出したりはしなかった。疑問を持つというのは、反抗的な態度だから。


 でも、やっぱり不思議だと思った。

 人に服従することの何が難しいのだろう、と思っていた。

 だってそんなのは、人を服従させる側に立つ人間以外、すべての人間が、当たり前にしなくちゃいけないことだ。


 呼吸をするのが難しいなんてこと、あるのだろうか。


「今度、婚約の儀を行うことになっている。失敗するな。私に恥をかかせるなよ」


 父の言葉には何も心は動かなかったけれど、三番目の兄がその日、自分に話しかけた言葉は覚えている。


「第一王子は、少なくとも父上よりは君に優しい人だ」


 普段はほとんど話さない兄だった。

 学園での成績も優秀。後継者になるだろう一番上の兄を遥かに凌駕して、けれどひとつもそれを誇らず、言われたことを言われたように、言われた以上にこなす。


 自分と違って、『間違えた』からと『直される』場面をほとんど見たことがない。他の兄と違って、苛立ちを自分にぶつけてくることもない。そんな兄が、そのときばかりに口にする言葉だったから、少しだけ信じた。


 のに。


「それではヨルフェリア様にはこちらでもって、王子への忠誠のほどを見せてもらいましょう」

「ええ、ええ! もちろんですとも! 娘はいつも第一王子の話ばかりをしていますからね。このくらいのことはなんてことはありませんよ。なあ、ヨル?」


 謁見の間で、王室の面々に囲まれて、父は一度も呼んだことのない愛称で、ヨルフェリアに呼びかけた。


 王が座り、その脇に第一王子と第二王子が座り、その周りに王族がずらりと並ぶ。


 はい、とヨルフェリアが応える間に、それは運ばれてきた。


『融けない氷』と呼ばれる魔法具。


 その効果はシンプルで、その透明な氷は決して融けることなく、また魔力を込めれば込めるほど、その温度は下がっていく。


 婚約の儀とはつまり、その氷をどのくらい持っていられるか、という忠誠心の証明の場だった。


「それでは、乗せますよ」


 宮廷魔法士が何人も寄り集まって、ヨルフェリアの周りを取り囲む。

 十歩離れてもまだ冷気の香るような氷が、彼女の白い手の上に乗った。


(……なんだ、全然大したことない)


 どんどん、魔法士たちが魔力を込めて『融けない氷』の温度を下げていく。

 やがて謁見の間にいるすべての人間がコートを着込んでもなお震えるような冷たさにまでなってなお、ヨルフェリアはそれを、何とも思わなかった。



――痛みとは、生きるための信号だ。



 三番目の兄が、回復魔法の手ほどきをしてくれたときに口にした言葉を、ヨルフェリアは思い出していた。



――痛みを人は忌避する。そこから逃れようと、嫌でも動く。

――それが危難を避けることに繋がる。つまり、

――痛みは、生きようとする意志の表れでもある。



(だったら、)


 とヨルフェリアは思う。


(私、生きようとしていないのね――)


 手が紫色に変色し始めると、とうとう感覚がなくなった。


 手首の先にくっついているはずの肉の感触が、まるでない。

 顔色はそれでも、ひとつも変わらない。ただ、筋肉が動かなくなって、手の下がってくることだけが厄介だった。運動は苦手で、こうなってくるとどうすればいいのかわからない。


(いつまで、これをしていればいいんだろう――。肩まで動かなくなったら、床に寝そべらないと氷が落ちてしまう。そんな姿勢を取って、失礼だと思われないかしら。それとも、この場ならむしろ無様を晒した方が――)


 紫が黒に変わり始める頃、多少の叱責は承知で、ヨルフェリアは周囲の顔色を窺うことにした。

 小さな失敗を恐れて、大きな失敗をするのは馬鹿らしい。どうせ自分が完璧にできるなんて誰も思っていないだろうし――、


(――あれ?)


 顔を上げた先には、思いもしない表情が揃っていた。


 恐怖。


(え、なんで――)


 第一王子が、引きつった顔で、


「お前、その手は――」

「第一王子、お控えください」


 何かを言おうとしたのを、父が遮る。

 儀式は神聖。その間は何も喋ってはいけないと、あらかじめ取り決められていたから。


 ヨルフェリアは、どうすればいいのかわからなくなっていた。


(もしかして――何か作法が間違っていたの? でもそれなら、父上があんなに穏やかなのはおかしい。一体どういう……)


 そのときはわからなかった。

 後に、人から聞いてヨルフェリアはその表情の意味を知ることになる。


 この儀式の最高記録は、たったの五分。

 六代前に、気を失った妃が未だに語り継がれているほど過酷なもので。


 ヨルフェリアの耐え忍んだ時間は、その時点で三十分を超していた。


 どうしよう、とヨルフェリアは思っている。


(ただ耐えているだけならいくらでもできるけど――、何か、どこかでやめなきゃいけないの? 知らない、そんなの。教わってない。聞いてない)


 宮廷魔法士のうちのひとりが、くらっ、と魔力切れを起こして、床に倒れ込む。

 それでもなお、ヨルフェリアの手は微動だにしないまま。




(物のやめ方なんて――誰にも教わったことがないもの)




「――わり、限界だわ」




 まっすぐ進む、光のような声だった。


 ヨルフェリアが声の元を探すと、王族の席からひとり、立ち上がった姿がある。


 金の髪。猫のように強気な目をして、さらり、と前髪を揺らしながら、こつこつとブーツで床を叩いて、こっちに向かってきている。


「お、お待ちください!」

「嫌だね」


 ヨルフェリアの父が叫ぶ声にも、まるで頓着しない。


 その顔を、ヨルフェリアは知っていた。


 第一王女、ヒナト。


「大体、最初っからあたしはムカついてたんだよな」


 ぴたっ、とヨルフェリアの前まで来ると、足を止めて、彼女は言う。


「兄上はこういうのが好きなわけ?」

「は」

「だから、これから結婚して一緒に生きてく相手を虐めんのが好きなのかって」


 訊いてんだけど、とヒナトは兄、第一王子に目を向ける。


 鋭かった。周りの者たちが、椅子の上で仰け反るくらいには。


 一度は第一王子も気圧されかけたが、すぐに持ち直して、


「個人の好悪は関係ない。伝統だ」

「自分で言ったこと、覚えてるか?」


 ヒナトは真っ白な手袋を無造作に脱いで、


「あたしがガキの頃に、兄上が言った言葉だぜ――『古いものの中で、良きものが伝統であり、嫌なものは悪習である』ってな」


 じわり、とその手に光が宿る。


「こいつはどっちだ?」

「――――」


 一度、第一王子は言葉を失ってから。


 不意に、笑って。


「――お前には、いつも世話をかけるな」

「いいさ。腕試しだ」


 第一王子は、はっきりと言った。




「悪習だ。壊してくれ、我が妹」



「あいよ」




 パッ、と。

 ヨルフェリアの手の上に、ヒナトの手のひらが重ねられた。


「〈光があれば咲くように(ブルーミング)〉――!」


 温かかった。

 やわらかな光がヒナトの手から放たれて、それがどんどん、融けないはずの氷を融かしていく。


 ヨルフェリアとヒナトの間にある氷が、どんどん縮んていく。

 ふたりの手と手の距離も、少しずつ小さく。


 じわり、と感覚の消えていたはずの手に、温感が戻り始める。

 じくじくと痛みが走り、それに顔をしかめる間もなく、変色していた紫は元の白色に。


 とくとくと、温かな血が肌の下を巡り始めれば、朱を帯びて、花の色にまで変わって――。


「――よし」


 ふたりの手と手が、重なった。


「リベンジ成功。これなら雪山にも負けねーぜ」


 ぎゅっ、とヒナトはヨルフェリアの手を握ると、どうだ、と言わんばかりに笑った。


 融けないはずの氷は、もうなくて、




(あ――――、)




 手のひらの熱が胸まで辿りつけば、それが初恋。





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