25 友達に関するお悩み相談室でござる
食べ物の匂いがする。
それが妙に懐かしくて、まどろみの中でヒナトは霞む目を開けた。
背中が見える。
「……ザンマ?」
「ん?」
返ってきた声は、彼のものではなかった。
「おー、起きたな。身体、大丈夫か?」
赤い髪の青年。
咄嗟に身構えかけたヒナトは、すぐに記憶を掘り起こして、その警戒を解く。
ザンマの友達だ。
「ここは……?」
「ザンマの家。オレたち、一緒に住んでるんだよ」
「一緒にって……あいつ、あの銀髪の子と一緒に住んでるんじゃ、」
「ああ、よっちゃん?」
スープでも作っているらしい。
鍋の中身を味見しながら、赤髪の青年は言う。
「四人で住んでるんだよ。ザンマと、よっちゃんと、今はちょっといないけどシェロってやつと、あとオレ。あ、ちなみにオレの名前はアーガンね」
まあまあか、と言いながらアーガンは振り向く。
「なんか食う? 腹減ってないか?」
「あ、いや。お構いなく」
「そうか?」
あ、そういえば、と言いながらアーガンは戸棚からクッキーを取り出す。
まだ古くなってないよな、と確かめながら、それをヒナトの前に置いて、
「いま、茶も出すよ。ザンマのと違って緑色はしてないけど」
「あ、ありがとう……」
「ザンマもよっちゃんも外出てるからさ。帰ってきたら飯ってことで。いいか?」
「全然……」
なんだかヒナトは、自分が情けなくなっていた。
世間一般でよく見られる現象である。
頭に血が上っているときに、非の打ちどころのないような優しい対応をされると、自分が恥ずかしくなってきてしまうのだ。
いま、アーガンを目の前にして、ヒナトの心にはそういう変化が起こっていた。
ことり、とアーガンはヒナトの前にカップを置いて、
「あんまりオレ、上手くはないけど勘弁な」
「いや。あたしも味とか、よくわかんないし」
「そっか? じゃあよかった」
アーガンは、朗らかに笑った。
ずっと気絶してたから腹減ってるだろ、食え食え、と言ってクッキーもくれた。
ちょっと涙が出てきた。
アーガンはぎょっとして、
「何、なになになに。どした」
「いや、わり。なんでもねー」
「なんでもなくはないだろ」
誤魔化すように、ヒナトは出されたクッキーを食べる。
そのぱさぱさした感触が、この家でこのクッキーが水分を飛ばすために過ごした時間のことを思わせ、またわけもなく泣けてきた。
そしてぼそっと、こんなことを零す。
「――あのさ、友達と仲直りするってどうしたらいいのかな」
驚異的なことだった。
アーガンは知る由もなかったが、こんな言葉をヒナトが口にしたのは、ヒナトの人生史上に残る快挙と言ってもいい。
向かうところ、敵は全員殴って飛ばしてきた。
母の身分が低いからと王族まで馬鹿にしてくるような気合の入ったいじめっ子も乳歯が全部なくなる勢いで顔面を殴り飛ばしてやったし、学園にいた頃には上靴に入れられた画鋲を足裏にぶっ刺したままその足で首謀者の腹に前蹴りをくれてやったこともあったし、冒険者になったころにひよっこだなんだと因縁をつけてきたベテラン気取りも三回の決闘を経て今や「兄貴!」と言ってそれこそひよこのように後をついてくるようになったし。
ヒナトの人生において、仲直りとは相手を屈服させることに他ならなかった。
だからこの一言は、生物の歴史で言ったら五千年くらいの価値のある進歩の証だったのだ。
重ねて言うと、そんなことアーガンは知る由もないけれど。
「まあ……色々あるんじゃないか」
でも、適当な返答をしたりはしない。
元からそういう性格をしているから。相談事には、ちゃんと正面から答えるタイプだから。
「そもそも、原因が何なのかが問題だよな。相手が悪いのか、それとも自分が悪いのか」
「……どっちも悪いと思う」
「そっか。どんな風に?」
「その……」
ええい、言っちまえ、といつものやけっぱち。
「喧嘩してるっていうのは、ザンマとのことだよ。あいつ、パーティメンバーから『解雇だ』って言われて、それを真に受けてそのまま出て行っちまったんだ。……確かにあたしも悪いと思う。ちょうどそのときあたし、パーティを離れてて、そんなことになってるって知らないまま過ごしてた。リーダーなのにな。その上、いざザンマのこと迎えに来たらムカッ腹が立ってめちゃくちゃしちゃうし……」
ヒナトの言うことに、アーガンは責め立てるでもなく、うん、とひとつだけ相槌を打った。
ヒナトは続けて、
「でも、ザンマも悪いと思うんだ。出て行く前に、なんであたしの帰りを待たなかったんだよって、思う。あたしがこんなことするはずないって、なんで信じてくれなかったんだろうって……。あたし、あいつと三年近く一緒にいて、そんなことも信じてもらえなかったんだって思うと……」
「そっか」
言葉が掠れると、アーガンがそれを受け止めて、
「あんたは……友達に信じてもらえなくて、悲しかったんだな」
悲しい、と。
そんな風に、自分の心の中を言葉にされたのは初めてで。
まじまじとアーガンを見ると、穏やかな顔で。
「それでいざ再会したら、自分の知らないやつらと楽しそうにやってるんだもんなあ。そりゃ、頭に来るよ」
あはは、とアーガンの笑い声に、嫌味はなかった。
でもな、と彼は言う。
「あいつ、最初は死ぬつもりでこの街に来たんだぜ」
「は――」
「ザンマと同じ馬車に乗り合わせたって子がさ、言ってたんだ。『最初、腹を切って死ぬとか言ってたんだよ』って。『だから、もしよかったら、ときどき気にしてあげてくれない?』って」
まあ気にするっていうか、一緒に住んじゃってるんだけど、と。
「この街で色んなものと出会って落ち着いてはいるけど――、その、ちょっとオレ、やっぱりザンマ贔屓だからさ。こんな言い方でカチンとくるかもしれないんだけど」
カップの持ち手をなぞるように、アーガンの指は動いて、
「あいつ、怖いんだと思う。何かをなくしたりするのが」
「怖い――?」
それはヒナトにとって、ザンマには最も似つかわしくない言葉に思えた。
ザンマは強い。間近で見てきて、それは疑いようのない事実だった。
初めにザンマの戦いを見たとき、こいつが人類の中でいちばん強いのかもしれないと思ったし、もっと長く隣で戦ううち、こいつは生き物の中でいちばん強いのかもしれないと、そう思う瞬間さえあった。
だから、その言葉はまるでイメージと違って、
「あいつが? あんなに強いのに?」
「力の強さが心の強さってわけじゃないだろ。ザンマは、たぶん何か大切なものをなくしてるから……また同じように、何かをなくすのが怖いんだと思うよ」
つ、とカップの表面を水滴は流れる。
「大切なものをなくすのが怖いから、決定的になる前に離れたんじゃないかな。だからあんたが来ても怖がって逃げ回って……、本当は、あんたのことすごく大切に思ってるんじゃないか。オレ、あんなにムキになるザンマ、見たことなかったし」
それに、とアーガンは、
「そうじゃなきゃ、死のうとしたりなんてしないだろ」
その言葉を聞くや、ヒナトはがたっ、と立ち上がって、
「――――あたし、行かなきゃ」
「だあっ、待て待て待て」
それを、アーガンが押しとどめる。
「どこに行ったかわかんないだろ。そのうちザンマも帰ってくるからさ、それを待って話せばいいって」
「でもあたし――いま行かないと、勢いがないとなんも話せないんだ」
「いやそれは……」
アーガンは眉間を抑える。ザンマって案外こういうのと相性いいのか?と呟いて、
「さっき、オレに言ったことを落ち着いて言えば大丈夫だよ」
「でも……」
「大丈夫。あれで納得しないようなら、それこそオレも一緒になってザンマを説得してやるから」
な?とアーガンが笑えば、ヒナトの立膝も大人しくまた床の上に戻って、ぽつりと一言。
「……あんた、いいやつってよく言われるだろ」
「……そうでもないさ」
今度こそヒナトは落ち着いて、アーガンに貰ったクッキーと紅茶を口に入れる。
クッキーはぱさぱさで、確かに紅茶も美味しくはない。
でも、なんだか妙に肩の荷が下りて、ほっとした気持ちになった。
ヒナトは部屋を見回して言う。
「あれ、銀髪の子はいないのか?」
「ザンマがふらふら出てったから、連れ戻しに行ってる」
「……あの子、ザンマの彼女?」
「いやあ、オレが知る限りでは全然違うけど」
ふーん、とヒナトは呟いて、
「よっちゃん、だっけ。その子」
「ああ」
「本名はなんて言うんだ?」
「知らない」
は?とヒナトは口を大きく開けて、
「一緒に住んでて名前知らないってどういうことだよ」
「いや、よっちゃんはよっちゃんだしなあ……。なんか、そういうもんだと思って訊いたことないや」
変なやつら、とヒナトは内心ちょっと呆れて、しかしここまで相談に乗ってもらった相手にそんなことを言わないだけの良識もあるから、内心だけに留めて、
「そっか。……なんか、昔の知り合いに似てたから、もしかしたらと思ったんだけど」
「……へえ、そうなのか」
「ああ」
ヒナトは頷く。
その心当たりのことを頭に思い浮かべながら、こう呟く。
「ヨルフェリア=デイルヴェスタっていう……。失踪した、うちの兄貴の元婚約者で、パーティメンバーのクラヴィスってやつの妹なんだけど」




