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追放剣士とピンクの毛玉  作者: みなべゆうり
9.微睡の森

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9-5

 黒々とした夜空を下地に、篝火に照らされた樹冠がゆるやかに波打つ。

 どこからか聞こえるのは幼子の笑い声と、鈴の音に似た虫の声。足下に広がる暖かな灯火から視線を外せば、バルコニーから歪な階段が伸びていることに気が付いた。

 何ともなしに柵を開けてみれば、大樹の幹に沿って足場が組まれており、更に上階へ行けるようになっていた。

 ──ナズが言うには、このオルマン村はブルトゥルより二百年も前から存在した古い集落らしい。

 如何せん人里から離れていることと、獣神の寝床と呼ばれる巨大な森を守護する役目を担っていたことから、外界との関わりは途絶えがちで、それゆえに建築技術も独特かつ素朴だ、と彼女は語った。


『何代か前の皇帝陛下が、我々のために信頼できる行商人を紹介してくださいまして。以降は彼らのおかげでそれなりに文化的な暮らしをしていますよ』


 バルコニーの欄干に刻まれた、狼と三日月を交互に据えたレリーフ。村の至るところで見たソレを指先でなぞり、フィルゼはおもむろに後ろを振り返った。

 すると、弾むようなノックが三回鳴る。バルコニーから部屋に戻ってみれば、また二回ほど扉が叩かれた。


「あれ? フィルゼさま、もう寝ちゃったかな……」

「毛玉か」

「わあ!」


 扉を開けてやれば、暗い廊下でピンク色が跳ねる。そこにいたのは、質素な生成り色の貫頭衣に、赤や緑の色彩豊かな刺繍が施された厚手のローブを羽織った毛玉だった。

 ナズには彼女の膝の手当てを頼んだつもりだったが、どうやら湯浴みと着替えまで用意してくれたらしい。

 別れたときよりもつやつやと上気した頬を持ち上げ、毛玉が小さく足踏みをする。


「フィルゼさまっ、ナズさまがわたくしをお湯に入れてくださいました!」

「お湯……」

「とっても温かくて気持ち良かったです……! わたくし川にしか入ったことがなかったので」

「悪かったな、川で」


 不可抗力とはいえ皇女を毎日冷たい川に浸けていたことに今更ながら焦りを覚えれば、毛玉がハッとした顔で「川も冷たくて美味しいです!」と頭を振った。

 そしてその流れでくしゃみをした毛玉を、フィルゼは逡巡を挟みつつ部屋に入れた。


「お邪魔します! フィルゼさまはお湯に入らないのですか?」

「水なら浴びた」

「寒くはありませんか?」

「ああ」


 話しながら壁際のソファに毛玉を座らせ、湯冷めしないよう毛布を肩に被せる。瞬く間に自分だけが温かくなっていくことに気付いたのか、毛玉が慌てたようにフィルゼの手を掴んだ。


「ああっ、またわたくしだけぽかぽかに……!」

「毛玉」

「はい?」


 彼女の頼りない手を上から握り、フィルゼは少しの沈黙を経て告げた。


「……話がしたいんだが、良いか」




 ──食用油を注いだ小さな陶器の器に、蝋燭から移された火がゆらゆらと揺れる。

 フィルゼの動きをじっと見守っていた毛玉の顔が、ふわりと橙に染まったなら、途端に無邪気な笑みがこぼれた。

 開け放したバルコニーから夜風が細く吹き込む中、フィルゼはそれを遮るように毛玉の左隣に腰を下ろす。すると毛玉が居住まいを正して傾聴の姿勢を取ったので、彼は少しだけ頭の中を整理してから口を開いた。


「……。ブルトゥルで、セダ殿と話をした。主にあんたのことで」

「? わたくしのこと?」


 不思議そうに反芻した彼女に首肯を返し、つと鼻先を右に向ける。思いのほか彼女との距離が近かったため、拳一つ分だけ隙間を開けて。


「ああ。まず最初に言っておくが、毛玉。あんたは国境沿いの森で産まれたんじゃなくて、記憶を失った状態で目を覚ましたんだ。ここまでは良いか」

「えっ……えっと、はい!」

「それから、あんたは妖精でも鳥でもない。正真正銘の人間だ」


 毛玉の淡い双眸がこれ以上ないほど見開かれる。彼女は慌ただしく視線をさまよわせた後、自分の手のひらやフィルゼの顔を見て、再度「えっ」と呟いた。


「わたくしは……妖精さんでは、ない……!?」


 想像以上に愕然とする毛玉を前に、フィルゼは神妙に頷くしかない。


「……いや、あんた初めて会ったときは人間にカウントしろって言ったじゃないか」

「えーん……そ、そうですが……でもわたくしと同じ形をした人間の方はいらっしゃらなかったから、てっきり妖精さんなのかと」


 彼女は両手をお椀のようにして、しくしくと語った。確かに人間は赤子であっても小さな毛玉よりは大きいのだから、記憶の無い彼女がそう思うのも無理はない。

 人生最大の衝撃を受けている毛玉の背中をやんわりと摩りつつ、フィルゼは首に掛けていたカメオを外し、小卓の上に置いた。


「とにかく、このカメオに描かれてるのは、あんたで間違いない。今のあんたは人間に『変身』してるんじゃなくて、元の姿に『戻った』んだ」

「元の姿……」


 毛玉は自分の体をじっと見下ろしてから、不意に眉を寄せてフィルゼの方へ向き直る。


「あのぅ、それじゃあ、このペンダントをお持ちだったセダさまは……わたくしのお知り合いなのですか?」


 フィルゼが静かに頷けば、毛玉はひどく狼狽えた様子で口を覆った。


「ああ、ど、どうしましょう! だからブルトゥルで初めてお会いしたとき、あんなに動揺されていたのですね……。わたくし、何て失礼なことを」

「セダ殿も事情は分かってる。気に病む必要はない」

「でもわたくし、セダさまのご厚意を撥ねつけるような、ことを──うぅ」

「!」


 毛玉の顔色がにわかに悪くなったことに気付き、フィルゼは咄嗟に彼女の肩を抱き寄せた。

 強張った手が冷たくなる前に、そっと指をほどいて自分の手を握らせると、彼女は縋るように額をそこに寄せる。


「……大丈夫か?」

「はい……」


 毛玉は繋いだ手を胸元へ引き寄せ、今度はフィルゼの肩口に額を擦り付けた。そうすることで、自身を苛む頭痛を拭い去ろうとしているような。

 否応なしに地下通路でのことが頭をよぎり、フィルゼは右膝をソファに上げた。正面から毛玉を抱き締め、彼女の顎を肩に預けさせれば、心なしか力が抜ける。

 おずおずと細い手が背中に回されたなら、引き攣った呼吸がゆるやかなものへと変わっていった。


「……フィルゼさま」

「ん」


 ややあって、彼女が小さな声で尋ねる。



「前にも、こうして抱き締めてくださったこと、ありますか……?」



 フィルゼは華奢な背中に垂れた長いピンク色の髪を見詰め、ゆっくりと息を吐いた。


「……あるかもな」

「やっぱり」


 掠れた声に喜色が混ざり、彼女はまた一つ深呼吸を挟む。


「あの、お話、続けてください」

「体調が悪いなら明日でいい」

「大丈夫です。こうしていたら、温かくて……頭が痛くなっても我慢できます」

「……」


 この口振りからして、自分の記憶が不安定であることは彼女も薄々気付いていたのだろう。それこそヤムル城塞都市で、空白の時間に疑問を持ったときから既に。

 毛玉姿のときとは違って明白な頭部を撫でてやりながら、フィルゼは話の続きを口にした。


「セダ殿は、あんたが幼い頃から一緒にいた人だ。ヨンジャの丘は覚えてるか?」

「はい。クローバーがたくさん生えた、綺麗な湖畔にあるお城……」

「ああ。あんたはあの丘で育ったらしい」

「まあ……! わたくし、あんな素敵なところで暮らしていたのですね」


 とん、と頬に毛玉の頭が寄り掛かる。顔は見えないが、背中に回された手は少しばかり力んでいた。

 苦痛を悟らせまいとする姿に、どこか歯痒さのようなものを覚えたフィルゼは、彼女の両足を掬って膝上に乗せてしまった。

 横抱きの体勢で、全体重を預けるよう促せば、毛玉は素直に凭れ掛かって笑った。


「うふふ、大丈夫なのに」

「あんたがこうなることを分かった上で話してるんだ。気に掛けて当然だろ」


 今も頭痛は続いているだろうに、毛玉は嬉しそうに笑うばかりだった。

 フィルゼは決まり悪く視線を逸らしながらも、彼女の腕を温めるように摩る。


「……セダ殿が高貴な身分だってことは、前に話したよな」

「はい。確か、先帝……ルスランさまの乳母を務めていらっしゃったのですよね」

「そうだ。……そんな人が自ら、あんたを育てていた意味は、分かるか」


 ランプの火が、吹き込んだ夜風によって一際大きく揺れる。

 フィルゼの腕の中で、その揺らめきを見詰めていた毛玉が、戸惑いを露わに彼を見上げた。


「わたくし、まさかルスランさまと──フィルゼさまの大事な方と、何か関係があるのですか?」

「……ああ」


 首肯を返し、そっと彼女の前髪を掻き分ける。

 ──先程よりも顔が青白い。

 なるべくゆっくりと、毛玉を混乱させないように順を追って話しているつもりだが、今日はこの辺りで留めておくべきだろうか。

 フィルゼのそんな思考を見抜いたのか、毛玉がハッとしたように自分の頬をぺしぺし叩き出す。


「わたくしなら平気ですっ。どうぞ続きを!」

「いや、この辺で止めておこう。横になった方がいい」

「わぁっ待ってください!」


 毛玉がぎゅっとしがみついてきた。恐らくフィルゼに運搬されそうなことを悟ったのだろうが、これだとなお運びやすい。

 ひょいと横抱きにしたまま立ち上がれば、毛玉が「あれ!?」と高くなった視界に驚く。


「えーん! 待ってくださいフィルゼさまっ、でしたらあの、えっと、最後に聞きたいことが」

「何だ?」

「ど、どうしてわたくしが記憶を失ったのか、セダさまはご存知でしたか……っ?」


 隣室へ向かおうとしていたフィルゼは、そこでぴたりと足を止めた。



『この理不尽な現実を背負うには、殿下の心はあまりにも、脆い』



 ブルトゥルで交わしたセダとの会話がよみがえる。

 毛玉を側で見守り、実の子供同然に愛情を注いだであろうセダの見解は、何も知らなかったフィルゼが真っ向から否定してよいものではない。

 だからと言って──お前は孤独と重圧に負けて記憶を手放したのだ、などと告げられるわけもなく。

 そもそもフィルゼは、何かにつけて自分の役割を見出そうとする彼女が、そのような哀れな理由で記憶を失うに至ったとは到底思えなかった。

 昨日だってフィルゼを救うために、何の躊躇いもなく戦場を駆け、あれだけ怖がっていた高所から身を投げ出したのだから。


「……。セダ殿は、あんたの内面的な問題だと思っているみたいだが……俺は、違うと思う」


 毛玉の淡い色をした睫毛が上下し、輪郭のおぼろげな瞳がこちらを覗き込む。そこに怯えや不安が無いことを確かめ、フィルゼはこつりと額を突き合わせた。


「あんたが記憶を失ったのは、襲撃とは別の原因があるはずだ。ひと月前、あんたがどうやって一人で国境沿いの森まで逃げられたのかは、セダ殿も知らなかった。だから──もう一度、あそこへ行こう」

「国境沿いの、森に?」

「ああ。……これから何をするにも、まずはあんたの記憶を探さなきゃならない」


 セダの願い通り、毛玉をレオルフへ逃し、仮初の平穏の中で獣神の力が彼女を飲み込むのを待つか。はたまた、ルスランの遺児「アイシェ・ユルディズ・タネル」として狼月の帝位を継ぐべきか。

 それら全ては、記憶を取り戻した上で、彼女個人の意思に基づいて決定されなければならない。

 帝室の一員として、獣神の力を継ぐ者として──ひとりの人間として。


「ただ……それは、あんたにとって苦難の道になるかもしれない。怖いなら、無理強いは」

「いいえ」


 毛玉が額を離し、ゆるくかぶりを振る。

 フィルゼの瞳を間近で見詰めた彼女は、やがて柔らかく微笑んだ。


「フィルゼさまが一緒にいてくれるなら、わたくし、怖くありません」

「……そうか」

「はい!」


 毛玉は彼の首に腕を回すと、頬を擦り寄せるようにして抱きつく。長い髪がふわりと皮膚をくすぐり、フィルゼは少しばかり肩を竦めつつ、自らもやんわりと頬を寄せてこれに応じた。




『小さき狼、どうか泣いてくれるな』


 そうして閉じた瞼の裏で、亡き主人の声が響く。


『私と共倒れなど、許しはしないぞ』


 その温かくも冷たい言葉は、やけに耳に残った。



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