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フィルゼはひどく苦い面持ちで、仰向けに倒れていた。
青々と茂る草むらが、吹き抜ける風によって緩やかに波打つ。ゆったりと流れていく雲の隙間からは、真昼の眩しい日差しが顔を覗かせた。
後方、ヤムルの城壁から聞こえてくるは、昨日の後片付けに勤しむ人々の喧騒だ。彼らは一度踏まれたところで萎れはしない花のごとく、焼け落ちた民家や崩落した街の修復に奔走していた。
──で、それは良い。狼月軍の横暴に屈することのない彼らの逞しさは実に素晴らしい。どうかこのまま無事に暮らしを立て直してほしいものだ。
フィルゼがこんなにも忌々しげな顔で草むらに転がっているのは、ひとえに彼の手にある一枚の手紙が原因であった。
「うふふ、メティ、気持ちいいですね~!」
彼の隣には、風で飛ばされないように外套に埋められた毛玉と、草むらに激しく背中を擦りつけて遊ぶメティの姿がある。
しばらく自由にしてくれて構わないと告げたら、背中の荷物を外してほしいという旨を毛玉から伝えられ、言う通りにした途端これが始まったのだ。きっと楽しいのだろう。たまにはこうして遊ばせてやらないと──それはさておき。
「これのどこが暗号文なんだ」
現実逃避から戻ってきたフィルゼは、ハリットから受け取った手紙を日に翳し、地を這うような声で呟いた。
そこに記されていた文章はこうだ。
『今日の献立はロウゲツイモのシチューよ、と彼女が言った。
僕は彼女が作るシチューが大好物で、それはもう喜んだのさ。
初めて食べたのはもう十年前。味付けが昔から変わらなくて……。
おっと、独り身の君に聞かせるには少々酷だったかな?
安心したまえ、君にもきっと良い人が現れるさ。
海の化身メルテのように優しい腕で僕の寂しさごと抱き締め、時には雷鳴の槍チチェクのごとく鋭い怒りをもって過ちを正してくれる、そんな素敵な女性がね……☆』
先に断言しておく。このふざけた文を書いたのは四騎士時代の仲間である〈鷺鷥〉こと、レベント・コライだ。
このやたらと流麗な筆跡、読み手をそこはかとなく苛立たせる文才、どこの神話から引っ張ってきたのか分からない謎の名詞を引用した比喩表現。
他の四騎士がここにいたのなら、三名全員が間違いなくレベントだと言い切ることだろう。
「フィルゼさまっ、レベントさまからのお手紙は読めましたかっ?」
ふわふわと毛玉が耳の横に寄ってきて、手紙の影に入ってくる。隣に寝転ぶのが気に入ったのか、彼女は持ち上げた両足で楽しそうにフィルゼの肩をぽすぽすと叩いた。
フィルゼは少しだけ顔を傾け、毛玉を頬で挟むようにしながらかぶりを振る。
「いや……全く。レベントが書く暗号は、いつも無駄に難解だ」
敵に文を掠め取られたときのことを考え、簡単に読み解けぬよう工夫を施すのは理解できる。フィルゼも仲間に教わった方法を参考に、いくつか仕掛けを考えたものだ。
しかし、レベントの暗号は毎度毎度わけの分からない恋文のような内容が書き綴られるものだから、間違えて捨てそうになったことは数知れず。もう少し文章を省けないのかと苦情を申し立てれば。
『ふふ、いくら気高き狼の子である君とて、僕の翼をもぐことは叶わないよ』
普段の会話もこんな調子だったので、フィルゼは簡潔な暗号文を早々に諦めたのである。
「あのあの、フィルゼさまはどんな暗号を使っていたのですか?」
「ん?」
「わたくしも暗号文を作ってみたいのです……! 毛玉式暗号文……!」
きらきらぱやぱや、視界の端でピンク色がはしゃいでいる。フィルゼは毛玉の小さな足を指先で弄りながら、ひとまず体を起こした。
この絶妙に腹立つ文章を読み返すのにも疲れたところだ。気分転換がてら、彼は毛玉に四騎士時代に使っていた暗号を教えることにした。
「暗号って言っても、明確な規則を設けてるわけじゃないぞ。要は仲間にだけ伝わればそれで良い」
「仲間……!」
フィルゼは手紙を入れていた封筒を持つと、その四隅をそれぞれ指していく。
「まぁ、簡単なものなら……この角に文字の一部を書くとして、一定の手順で折り畳んだり切り合わせたりして文章を読ませるとか」
「ふんふん……!」
「自分の称号に因んだ逸話や古語を文章に含ませて、落ち合う日時を指定するとか」
「わあ素敵……!」
「仲間内で交わした雑談の一部を改変して、意図を婉曲的に示すとか」
「あっ! ではこのレベントさまのお手紙もいつかの雑談……!?」
「いやこんな話は一度もした覚えがない」
にべもなく切り捨てたが、こうして改めて暗号の構成を列挙するうちにフィルゼは少しずつ頭が冷えてきた。
暗号文は伝達内容の他にも、常に「送り主」が誰か分かるようにするだとか、「四騎士の誰に読ませるか」を想定しておくだとか、その時々で条件が追加される。特に後者の条件を含めると、ぐっと機密性が上がるのだが──。
フィルゼはそこで、はたと顔を上げた。
封筒の四隅を順番に跳ねている毛玉を後目に、彼は再び手紙を広げる。
「……十年前。昔から、変わらなくて」
目に付いた文章をぼそりと口に出して読めば、フィルゼの頭に柔和な声がよみがえった。
『難しいかい? その本』
眩しい日差しを背に微笑む青年。真珠のような光沢を帯びた長髪が、ゆらりと頬をくすぐって。
「!!」
「フィルゼさま?」
フィルゼは勢いよく後ろに倒れると、再び仰向けの状態で手紙を空に翳す。
だらだらと綴られた文章の内容はひとまず無視して、彼は一文字ずつ目を凝らした。すると、いくつかの文字に小さな小さな穴が開いていることに気が付く。
穴が開けられた文字を文章の流れに従って繋げてみれば、ある単語が完成した。
「『瑠璃の指輪』……」
「指輪?」
いつの間にか隣に寝転がっていた毛玉が、不思議そうに反芻する。フィルゼは彼女を肩に座らせたまま、ゆっくりと体を起こして頷いたのだった。
「ああ。そう呼ばれてる場所があるんだ。……レベントは、俺をそこに呼びたいみたいだな」




