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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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その鼠は龍と語らう 最終話

 荊州南郡(けいしゅうなんぐん)当陽県(とうようけん)長坂(ちょうはん)と呼ばれる地。


 そこで趙雲は子供の泣き声を聞いたように思った。


 空耳かもしれない。


 それは本当に聞こえたかどうか疑わしいほど小さな声で、仮に空耳でなかったとしても、相当に遠い場所で上げられた声であることは間違いなかった。


「白龍よ、無駄足でも構わないな?お前の足なら、どれほど遠いところとて一瞬だ」


 さすがに一瞬というのは言い過ぎだろうが、趙雲は虚言を口にしたつもりはなかった。


 己の愛馬、そして魂の片割れたる相棒ならば、どこへでも一瞬で連れて行ってくれると信じている。


 ブルルン、と白龍は鳴いて応え、すぐさま趙雲の思う方へ駆け出した。不思議なことに、ほとんど指示すら要らない。


 気持ちが通じ合うということがどれほど嬉しいことか、趙雲は白龍と走るたびに実感するのだ。


 そして駆け出すと、すぐに敵に出くわした。


 ここは戦場だ。しかも軍と軍が真っ向から戦っている戦場ではなく、すでに自軍が潰走をしている負け戦の戦場である。


 それも退却戦と呼べるほどの上等なものではなく、乱れ逃げているところを蹂躙されている有り様だった。


 趙雲はそんな戦場の真っ只中を逆走している。敵に出くわすというよりは、周りの全てが敵のようなものだった。


「しかしこんな敵、お前と一緒なら木っ端のようなものだ」


 趙雲はそう言って槍を持ち上げ、不敵に笑った。


 そして言葉通り、材木の切れ端を蹴飛ばすような感覚で敵を蹴散らしていく。


 突き、斬り、叩き、すくい上げた。


 その都度、敵が一人また一人と倒れていく。


 こうまで簡単に敵中を突破できるのは趙雲の絶技によるところが大きいが、今のその絶技は白龍によるところが大きい。


 騎兵が疾駆しながら戦っているのだから、馬の力を最大限に使うのが肝要なのだ。


「白龍、お前を得てから私には翼が生えたようなものだ」


 薄い笑みを浮かべて敵を蹂躙をしていく。もちろん多勢に無勢で楽な戦いではないが、白龍と一緒なら何だってできる気がした。


 趙雲と白龍が再会できたのは今年の一月で、今が九月だから八ヶ月ほど前になる。ちょうど孫権に黄祖が討たれたという報が入ってきた頃だった。


 街の人間から自分の名が書かれた巨馬がいたという情報が寄せられたのだ。体毛の色を聞けば、山梔子(くちなし)の花のような白だという。


 まさかと思って兵営を飛び出して探すと、そのまさかがいた。白龍だ。


 趙雲は踊りだしたくなるほど喜び、白龍は踊るように暴れたので民家の壁に被害が出てしまった。


 困ったやつだと思いつつも、趙雲は一緒になって家の一軒くらい壊したいほどに舞い上がった。


 ただ、白龍の首に書かれていたのが血文字であったことは嫌でも気になった。


(昼千里、夜五百里……この話をしたのは、あの牧場にいた調教師だけだ。確か馮則といったか。無事だといいが……)


 わざわざ血で文字を書くとは穏やかでない。


 趙雲は馮則の無事を祈りつつ、もしまた会うことがあれば何らかの形で報いねばなるまいと思った。


 おそらくこの字は普通ではない状況で書かれたはずであり、そんな時に自分と白龍のことを思ってくれたというのは心が震えるほどありがたいことだった。


「我らが共に働ける機会をくれた馮則殿に応えるためにも、絶対に若様をお救いするぞ」


 いっそう気合の入った槍先が空を裂き、敵兵の喉笛に風穴が空いた。


 若様というのは趙雲の主君である劉備の息子のことで、名を阿斗(あと)という。後に蜀漢の皇帝として四十年という長い在位期間を誇る劉禅の幼名だ。


 後の皇帝もこの時はまだ産まれてから一年ほどしか経っていない幼児で、よちよちと歩く姿が非常に愛らしい。家臣団からはたいそう可愛がられていた。


 そんな阿斗がこのひどい敗戦の最中に取り残されている。趙雲としては気が気ではなかった。


(曹操……あの簒奪者め!)


 この二月前、曹操という大群雄が荊州の劉表を攻め始めた。


 袁紹を破って漢の国の最大勢力になった曹操は、これが覇業の王手とばかりに荊州へと手を伸ばしたのだ。


 そしてその攻撃が開始された翌月、劉表は死んだ。ただしこれは戦死ではなく、病死だった。


 ある意味で最後まで負けずに逝ったのは、あまり冒険というものをしなかった劉表らしい最期と言えるかもしれない。


 そして劉表の跡を継いだ息子は早々に降伏した。戦力的にはもはや勝てる見込みは薄く、妥当な判断と言えるだろう。


 しかし、その降伏を絶対に受け入れられない男が荊州にはいた。


(帝を傀儡にする曹操を、皇族である劉備様が許せるわけがない)


 趙雲の主君、劉備は高祖劉邦の血を引く人間として、帝を利用する曹操だけは認められないのだ。だからまだ旗幟を鮮明にしていない南に活路を求め、移動を開始した。


 ただ劉備にとって誤算だったのが、その移動に兵だけでなく民もついて来てしまったことだ。


 劉備の徳を慕ってのことだと言われているが、その数十数万というから何らかの異常な集団心理でも生じたのかもしれない。


 何にせよ、劉備はその民たちを見捨てられずにノロノロと移動する羽目になった。側近たちが見捨てろと言うのに、このお人好しは聞き入れなかったのだ。


 劉備軍は本来の行程なら軍事上の重要拠点を押さえられるはずだったのだが、それどころではない。そこへたどり着く前に、急行して来た曹操軍に食らいつかれた。


 劉備はこの段になってようやくやむを得ないと思ったらしく、全てを捨て置いて逃げることを選択した。


 ただしその全てというのは、ついて来た大勢の民だけではない。自らの妻子も含まれていた。


 劉備は妻子を置いて逃げたのだ。


 残酷にも思えるが、家父長制の強いこの時代においてはそれほど責められることではない。むしろ家長のためにその他が犠牲になることが美談になるような時代なのだ。


(しかし、憐れではないか)


 趙雲は正直な気持ちとしてそう思う。


 湧き上がる感情はこの男の心根から来るものではあるが、それだけではなく趙雲の任務も関係しているだろう。趙雲は劉備の身辺を守るのが仕事であり、その護衛対象には家族も含まれるのだ。


 平素より、常に守らねばならないと思い定めている人間が負け戦の戦場に置き去りにされる。


 その結果として起こることを思うと、やるせない気分になるのだった。


(やはり捨て置くことなどできん!)


 趙雲は決意し、ただ一騎だけで敵中へ取って返した。


 もちろん最も守るべきは劉備だと理解はしているが、そこは自信を持って大丈夫だと言える。


 というのも、飛び出す前に凄まじいものを見たからだ。


(あの張飛の様子を見る限り、劉備様の御身は心配要るまい。今の張飛を抜ける者がいるとは思えないからな)


 そんな確信を持てるほど、今の張飛には迫力があった。


 怒っていたのだ。ついて来た民もろともに攻撃を加えてきた曹操軍に対し、張飛は激怒していた。


 自分で思うのもなんだが、趙雲は肝が太い。大抵のことでは動じない自信がある。


 しかしその趙雲が怒る張飛を見て、はっきり怖いと感じた。全身から立ち昇る気配が尋常でなく、この世のものとも思えなかった。


 絶対にこいつと戦ってはいけない。生物の本能としてそう感じたのだ。


 その張飛が劉備を守っているのだから、劉備自身はまず大丈夫だ。ならば自分の為すべきことは、劉備の大切なものを守ることだと思った。


 そして今は全神経を集中させてその大切なものを探している。


「やはり聞こえる……この泣き声は若様のものだ!間違いない!」


 先ほどは空耳かもしれないと思うほど微かにしか聞こえなかった泣き声が、今ははっきりと聞き取れた。


 しかも聞き慣れた泣き声だ。阿斗のもので間違いない。


 そしてついにその姿が趙雲の目に捉えられた。


 趙雲にとって見間違えようもない玉のような姿が、六人の兵に囲まれている。


 側に女が一人倒れているが、あれは阿斗の世話係の女だろう。そちらは残念ながらもう息は無さそうだったが、阿斗は声を上げて泣いていた。


「若様……」


 趙雲はいったん安堵したが、その気分は一瞬で消え去った。


 なぜなら兵の一人が阿斗を殴ったからだ。泣き止まない子供に癇癪を起こしたのだろう。


「下郎!若様に何をするか!」


 腹の底から怒りが湧いてきた。


 大切な若君を殴られたこともさることながら、阿斗はまだ産まれて一年ほどだ。この年頃の幼児に手を上げる大人など、消えて無くなればいいと思った。


 兵たちはその殺気混じりの大喝に振り返り、誰もが恐れ慄いた。


 閻魔のような形相の大兵が、化け物のような巨馬を駆って迫るのである。見ただけで失禁した兵もいた。


 しかし六人のうち、一人だけはまだ働かせるだけの頭を持っていたらしい。剣を阿斗へと向けて叫んだ。


「お……おい!止まれ!こいつがどうなってもいいのか!」


 この子供を助けに来たのなら、人質として有効だろう。


 そう考えての行動であり、それは普通なら極めて効果的な対処だったはずだ。


 しかしこの兵にとって残念なことに、相手の乗っている馬が普通ではなかった。


 元々高速で疾駆していた白龍がさらに急加速し、目を疑うような速度で気づけば眼前にいた。人質に何かする暇など無い。


 そしてその馬上、趙雲は右手に槍、左手に剣を握り、ブンブンと振った。左右で二人ずつがゴミクズのように吹き飛んでいく。


 そして残りの二人はというと、白龍にはね飛ばされてやはりゴミクズのように吹き飛んでいった。


 その惨劇の真っ只中、阿斗は何が起こったかも分からずに、突然宙を舞った大人たちをポカンと見上げていた。


 速度の乗りに乗った白龍はいったん駆け抜けていったものの、すぐに引き返して阿斗の前で急停止した。


「若様!」


 趙雲は鞍から飛び降りて阿斗を抱きしめる。


 驚きに泣き止んでいた阿斗だったが、見慣れた趙雲が現れたことに安堵したのだろう。今度は甘えるように泣き始めた。


「よしよし……もう大丈夫です。もう大丈夫」


 本心ではこのまま一刻でも二刻でも頭を撫でてやりたかったが、戦場でそうゆっくりもしていられない。


 懐から傷の処置用の布を取り出すと、阿斗と自分に何度も巻いて念入りに固定した。


 それから再び白龍へとまたがる。


 その途端、泣き続けていた阿斗はスッと泣き止んだ。


「若様?……やはり若様も感じますか。この白龍はただの馬ではありません。名の示す通り、まさに龍のような生き物なのです。白龍さえいればまず間違いなく父上の下へ戻れましょう」


 まだ言葉さえ知らない幼児に重々しく語りかける趙雲は、少々真面目過ぎるきらいがあるだろう。


 しかし阿斗は何か感じるものがあったのか、ピッタリと固定された頭を微かに動かしてうなずいたように感じられた。


「分かっていただけたようで大変結構。では、参ります!」


 趙雲の意志が定まると同時に、白龍が爆発したように駆け出した。


 固定されていても相当な衝撃だろうに、阿斗は声も上げずにただ趙雲へと身を任せていた。


 子連れの(つわもの)が戦場を突き進む。


 当然ながら途中で何度も敵兵が立ち塞がったが、趙雲の槍がきらめく度、邪魔者たちは紙を剥がすように除かれていった。


 白龍の力強い走りに趙雲の槍術が加われば、敵に満ち満ちた負け戦の戦場がまるで無人の野に変わったようであった。


 趙雲は阿斗を守るという使命に気を昂らせている。そして白龍もそれにつられて気を昂らせている。


 ただ少し昂ぶり過ぎたらしく、趙雲は突き出した槍先が少しぶれたのを感じた。


 それでもきれいに敵兵の胸を貫きはしたのだが、こういう時には早めに修正した方が良いことを知っている。


「……いかんな、少々盛り上がり過ぎている。白龍、お前も少し抑えろ。まだ先は長い」


 しかし白龍はまだ余裕だと言わんばかりに、むしろ加速した。


 その様子に趙雲は苦笑してしまう。自分といる時の白龍はとにもかくにも興奮しやすいのだ。


 もう少し時を重ねれば落ち着くかもしれないが、まだ自分と会えた興奮が尾を引いているように感じられる。


「お前が頑張ってくれるのは嬉しいが、龍とて万能ではないのだ。何事にも限界はある。少し落ち着け」


 そう語りかけながら、趙雲は白龍の首を手のひらで撫でた。


 そこは血文字で趙雲の名が書かれていた場所だった。


 白龍はここを撫でると不思議に落ち着くのだ。きっとあの字を書いてもらった時のこと、そして字を書いてくれた人間のことを思い出すのだろう。


 趙雲はそう考えている。


 そして期待した通り、白龍は気持ちを落ち着けてやや馬足を落としてくれた。劉備の元まで駆け続けることを思えば、ちょうど良い塩梅だ。


「お前にとって、馮則殿はそういう存在か」


 それは自分のように、共にいることで歓びを感じる存在とは違う。


 きっと熟年夫婦のように、側にいることがまるで重荷にならない存在なのだろう。


「少し妬けるが……私は嫉妬心の強い方ではない。いつかまたお前が馮則殿と会えればいいと思うぞ。特にそういう存在は、年を取れば取るほど大切だと感じられるらしいからな」


 祖父母から聞いたそんな話を思い出し、白龍の幸せな老後を少し想像してみた。


 年老いた龍が地に横たわり身を休め、鼻先の小さな鼠と語らうのだ。


「……いいではないか。私はそれが是非見たい。こんな所で死にはせんぞ」


 趙雲は胸に芽生えた愉快な願望に口の端を上げ、この死地にあってなお生きるということを思った。


 すると当然のように、魂の片割れたる白龍も同じことを思うのだ。


 そうして一人と一頭は一つになり、乱世を駆け抜けて征く。

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