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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景 最終話

「ありがとうございます……」


 張懌(チョウエキ)は腕に包帯を巻いてもらいながら、つぶやくような礼を漏らした。


 それで張機は一瞬だけ手の動きを止めたが、すぐに再開した。


 添え木の位置を微調節し、適度な力加減で固定していく。


「今回は骨の位置が大きくずれていないから、こうして添え木で固定しておくだけでそのうち治る。でも無理して使うとずれて繋がることもあるから気をつけるように」


 礼の言葉には答えず、医師としての注意だけを口にした。


 治療の礼を言われても、そもそもその怪我をさせたのは張機だ。それに今の言葉は治療に対してだけではないような気もした。


「……無理なんてしませんよ。私は勝負に負けました。だからお約束した通り、死んだつもりになって新しい人生を受け入れます」


 張懌は両腕が折れている。これでは飯どころか下の世話までしてもらわなければならない。


 いくら足が無事でも自力で曹操の元へ向かったり、長沙に戻ったりすることなど出来ないだろう。


 その事実はすでに張懌も受け入れている。


 受け入れてはいるが、やりきれない思いもあった。


「しかし……桓階殿たちには申し訳なくて……」


 長沙の城では戦友たちが張懌の帰りを、働きを待っているのだ。


 それを思うと新しい人生だなんだと明るい気分にはなれない。


「皆……私が不甲斐ないばかりに死んでしまう……」


 総大将を立て続けに失い、曹操への救援願いを絶たれ、敗れて多くが死ぬことになる。


 申し訳無さに、張懌の顔には暗い影がかかっていた。


 その一方、張機の顔にはそんな影は微塵もない。


「いや、これは予想だけどこれ以上の戦死者はもう出ないと思う。桓階殿はすぐに降伏するよ」


 その言葉を聞いた張懌はバッと顔を上げ、その勢いで腕まで動かしてしまった。


 その痛みに顔をしかめながら尋ねる。


「なっ、なぜそう思うのです?桓階殿は帝への忠誠も厚く、それと対立する劉表とは……」


「桓階殿はそういう人間じゃない。中央で一緒だったから多少知っているけど、本音と建前のはっきりしている人だと思う」


 張懌のこの印象は正しい。


 史書によると、桓階は帝の保護を理由に曹操へ付くべきだと張羨には助言しているくせに、後で曹家への帝位禅譲を推し進めている。


 時と共に考え方が変わるのは仕方ないが、この男の言動は大きな矛盾を抱えているのは確かだ。


「実は昨日、この村の長を通して劉表様への文を軍に渡してもらっている。僕が張懌を殺したという内容のものだ」


 その事実を聞いて、張懌は不満げに眉を曇らせた。


 勝負をして互いの今後を決めるという話だったのに、決着の前にそんなことをしていたとは。


 張機も卑怯だったという自覚はあるが、軽く流した。


「そんな目で見るな。結果的に僕が勝ったんだからいいだろう」


「釈然としませんが……言って仕方ありませんね。しかし私を殺したという文だけで戦が終わるでしょうか」


「終わると思う。劉表様にはその情報と反乱加担者の助命を掲げて降伏を勧告するようお勧めした。桓階殿なら飲むだろう」


 張羨に続き、総大将が立て続けに死んだとなれば士気はだだ下がりだろう。


 そこに助命の条件が重なれば、桓階でなくても応じる可能性が高い。


「これで傷つく人間は減る、ということに関しては、あらかじめ話し合っていた張羨も同意していたし、そう望んでいた。こんな状況でもなければすぐの降伏なんてなかなか選ばないだろう?結果的には多くの人間にとって最良の結果になったと思うんだ」


 張機はその点、非常に満足だった。医師として死傷者が減ることは大変喜ばしい。


 だから戦闘が始まる前にと思い、さっさと劉表へ文を出したのだった。


「そうですか……皆無事に……」


 張懌はその見通しに心底安心したようで、力の抜けた少し情けない顔になった。


 しかしすぐに目に力を戻し、半眼で張機を睨む。


「ですが張機様、誰にとっても最良の結果というわけではありません。本物の武人というものはいて、彼らは傷も死も厭わず、ただ戦いの中にあるべき己を見出します。世の中にはそんな本物もいるのですよ」


「その言い方だと、張懌は本物の武人じゃないんだろうな」


 ぐっと言葉に詰まった張懌の心情は、図星そのものだった。


 本人にも完全にそう自覚できたらしい。


「……おっしゃる通りですよ。父上には結局見透かされていたわけですが、私は戦自体にも、戦をするための大義名分にも本心では興味がありません」


 そう告白してから、包帯を巻かれ終わった両腕を見下ろして皮肉げに笑う。


「こうやって戦えなくなったことに、殺さなくて良くなったことに、すっかり安堵している自分がいます。やはり向いていないのでしょう」


 張機はこの言葉にうなずいて肩を叩き、同意と同情とを示した。


 自分も向いているとは思えない太守を頑張っていたから気持ちはよく分かる。


「やれば出来るからといって、必ずしも適性が高いとは言い切れない。知識や技術があっても、それを使う人間には心があるからな」


「そういうことなのでしょうね。父上はそういったことも含めて、私に適性の高い何かを見つけて欲しかったのでしょう」


「そうだな。何かやりたいと感じることはないのか?」


 少し落ち着いた今ならしっかりと考えられるのではと思い、張機は尋ねてみた。


「まぁ腕が治るまではまだ時間があるし、その間は動けないからゆっくり考えればいいけど」


 こういうものは無理に決めてしまっては意味がない。だからゆっくりでいいと言ったのだが、張懌はすぐに視線を上げた。


 それから張機を見て、おずおずと答える。


「実は少し……思い出したことがあります」


「思い出した?」


「はい。小さい頃、私は父上の跡を継いで教師になることを信じて疑っていませんでした。その頃は将来に対して何の不安も不満もなく生きていたことを思い出しました」


 張羨の家はその先代の蔡幹の時から私塾を経営している。


 跡継ぎである張懌が教師になるのは当然の流れだった。


「教師か……それはただ環境に流されてということではなく、張懌自身の望みなのか?」


 そうでなければ親友との約束を果たせない。


 だから張機は確認したのだが、張懌はしっかりとうなずいた。


「そう感じます。教師が望みというか、私は他人の夢が輝く瞬間が好きなのです。そしてその輝きを一番感じられるのは、教師という職業だと思います」


「夢の輝き……か。確かに生徒の夢を応援するのが教師の仕事なんだろうな」


 そういえば元の師である蔡幹は張機の医師になりたいという夢を聞き、背中を押してくれた。


 玉梅と許嫁にまでなっていたのに、怒ることもなく婚約破棄を許可してくれた。しかもその後も嫌な顔ひとつせず、様々なことを教授してくれた。


「私はその輝きを見たいがために、誰の望みも肯定してきたという部分があります。父上にはそれがただの追従に感じられたのかもしれませんが」


「……なるほどな」


 何でもかんでも肯定する節操なしに感じられていたが、そこには張懌の望みもきちんとあったようだ。


 そしてこんな男ならきっと良き教師となれるだろう。教えるべき知識と技術を叩き込まれていることを考慮しても、これ以上の適性はない。


 張機は明るく笑った。


「張懌が自分の望みを見つけてくれて本当に良かったよ。これで張羨との約束を果たせた」


 その顔があまりに晴れ晴れとしていて、張懌も釣られて笑ってしまった。


(こんないい顔をして……この人は私のためにここまで……)


 そんなふうに感動してから、少し考えを改めた。


(いや、私のためというか、父上のためなのだろう。父上は本当に素晴らしい親友を持てたのだな)


 そう思ってから、それにしても少々頑張り過ぎだとも思った。


 ただ面倒を引き受けたというだけでなく、今回のことは完全に命がけだった。これほどの仕事を友情の二文字だけで片付けるのはどうなのか。


「張機様は父上のためにこれだけ骨を折られたわけですが、何かその報いはあるのですか?」


「報い?」


「報酬ですよ。お二人の友情が篤いということは嫌というほど分かりましたが、だからといって何の報いもないのはどうかと思います」


「ああ、報酬ね」


 張機はニヤリと笑ってから、腕を組んで大きくうなずいた。


「ちゃんともらったよ。前払いでね」


「そうなのですね。良かった」


 父がきちんと報いているということを聞いて、張懌は安心した。


 ここまでさせて何も無いのでは息子として申し訳無なさすぎる。


「それで、その報酬とは?」


 尋ねられた張機はいっそう嬉しそう目を細め、自信満々に答えてやった。


「書名をね、付けてもらったんだ」


「……書名?」


 張懌は言われた意味がよく理解できず、眉間に大きなしわを寄せて聞き返した。


「だから書名だよ。僕が書いていた医学書の名前。その名付けを報酬として受け取ったんだ」


 あまりの軽い報酬に、張懌は愕然とした。


「な、名付けって……それだけですか?」


「それだけなんて言うことはないだろう。どんなものでも名前は大切だ」


「それは……そうですが……」


 もはや呆れ返るしかない。これだけの大仕事に対して書名一つとは。


 しかも張機はいたって満足そうだ。


(この満足顔を見るに、書名を聞かない訳にはいかないんだろうな)


 張懌は呆れ返った顔のまま、よほどすごいのであろう書名を尋ねた。


「父上は、どういう名を付けられたのですか?」


「ふふん、それはな……」


 張機は嬉しげに鼻を鳴らし、その時の会話を思い起こす。




 それはほんの数日前のことだ。


 劉表軍が退却した後、張羨の意識が消えたり戻ったりを繰り返していた頃に、張機と張羨はよく二人で話をした。


 医師として病床に控えるのは当たり前なので、そういう時間は比較的長く取れた。


 起きている間の張羨は頭も割としっかりしていて、昔話などして笑い合うことができた。


 そんな時間の中、張羨がふと尋ねてきたのだ。


『そういえば張機、例の医学書ってまだ書名は付けてないのか?写してた長沙の医師から聞かれたんだが』


『そうなんだよ。中身はほぼ出来上がったんだけど、いい名前が思いつかなくて』


『中身を頑張り過ぎたせいで、どんな名前もしっくり来ない感じか』


『そうそう、そんな感じ。思い入れが強くなり過ぎたんだろうね。玉梅も考えてくれたんだけど、ろくな案が出て来ないし』


『あいつ、どんなの出したんだ?』


『全病治癒とか、神農処方集とか……』


『あっはっは!あいつらしいと言うか、相変わらずと言うか。妙なところで妙なズレ方してるんだよな』


『本当にその通りだよ。何の参考にもならなかった』


『そんなのを任せてしまって申し訳なかったな』


『本当だよ。しかも今からまた輪をかけて面倒なことを任されるわけだし』


『すまんすまん。詫びと言っちゃなんだが、俺のものでやれるものなら何でもやるよ。どうせあの世には持っていけないしな』


『何でもって言われてもなぁ。この状況で持ち出せる物なんてほとんどないし…………あっ、そうだ!物じゃなくて名前をくれ』


『名前?』


『医学書の名前だよ』


『ああ、物の代わりに頭を働かせろってことか。でもお前が頑張って書いた医学書の名前だぞ?俺が決めていいのか?』


『むしろ他人に決めてもらった方が諦めがつく』


『そんなもんか。なら請け合うが……内容は傷寒(しょうかん)(発熱性の急性疾患)を中心にして、それ以外の雑多な疾患も載せている感じだよな?』


『ああ。書いているうちに想定より雑病の文量が多くなったけど、半分以上は傷寒に関する内容だ』


『じゃあ……』




 張機はこの時の会話を一字一句、張羨の顔に浮かんだしわの一本まで覚えている。今後も忘れることなど出来ないだろう。


 そのやたらとはっきりした記憶の中の張羨と同じ口調で、受け取った書名を張懌に教えてやった。


傷寒雑病論しょうかんざつびょうろんだ」


「傷寒……雑病論?」


 張懌は困った顔をして小首を傾げてしまった。


 張機が報酬として喜んでいるからよほど機知に富んでいるか、仰々しくて重厚な名前かと思ったのだ。もしくは古典から取った教養深い名前かもしれないとも思っていた。


 しかし、あまりにも単純で平易な書名が付けられている。


「そうだよ。傷寒を中心にしてそれ以外の雑多な疾患も扱っているから、傷寒雑病論」


「それは何というか……その……わ、分かりやすい名前ですね」


 張懌は色々なところに気遣った結果、少し引きつった笑顔でそれだけを口にした。


 名付けた父も、それを喜んでいる張機も良い書名だと思っているのだろう。その様子を察しての精一杯の褒め言葉だった。


 その気遣いは功を奏したようで、張機は無邪気に笑みを深くした。


「だろう?物語ならともかく、医学書は実用書だからね。書名を聞いただけで中身が想像できる方が合理的だ」


「ああ……合理主義者である父上が口にしそうなことです」


「その通り、張羨がそう言っていたんだ。あいつらしいと言うか、相変わらずと言うか」


 どうやら張機は書名がどうのというよりも、そのことが嬉しいらしい。クックと肩を揺らして幸せそうに思い出し笑いをしている。


 張懌個人としてはもう少しはったりの効いた書名の方が好ましいように感じるが、


(まぁ、本人が満足なら)


と口をつぐみ、分かりやすい書名に助かる後進たちの幸運を思った。


 ただ残念なことに、この傷寒雑病論は広まる過程で二つに分かれて名称が変わってしまった。


 傷寒部分の『傷寒論』、そして傷寒以外の『金匱要略(きんきようりゃく)』の二冊として現代には伝わっている。


 しかし傷寒論はともかく、金匱要略は名前だけでは中身がちんぷんかんぷんだ。


 それに金匱(きんき)とは秘したる書を保管するための金属製の箱を指すのだが、張機に傷寒雑病論を秘する意図があったとは思えない。


 張機は序文においてこの書を基にさらなる研究を進めて欲しいようなことを書いているし、そもそも疫病である傷寒の治療法を秘しては本末転倒だ。


 だから筆者としては金匱要略が適切な書名だとは思えないのだが、中身の有用性は間違いないから非常によく広まっている。


 医師、薬剤師で傷寒論、金匱要略の名を耳にしたことがない人間などいない。


 漢方薬の中で最も有名であろう葛根湯の原典が傷寒雑病論だと言えば、一般の方にも価値の一端が伝わるのではなかろうか。


 その他にも小青竜湯、麻黄湯、芍薬甘草湯、大建中湯、八味地黄丸、麦門冬湯、五苓散、桂枝茯苓丸、当帰芍薬散……


 ……等々、現代で使われる漢方薬はこの書を初出としているものが多く、その改良処方も含めれば大半に影響を与えていると言っても過言ではない。


 千八百年前の処方が現代においても医療現場の第一線で使われているのである。凄まじいとしか言いようがない。


 そんな大著を書き上げた医の大家、張機。(あざな)仲景(チュウケイ)と称した。


 張仲景というと、医学史においてはまるで聖人のように扱われている。


 もし仮に、


『三国志の時代における一番の偉人は誰か?』


などと問われれば、多くの人は曹操や孫権、劉備などの英雄を思い浮かべることだろう。もしくは諸葛亮、司馬懿、魯粛などの切れ者か。


 しかし筆者は断然、張機推しである。


 その残した医学書は千八百年もの長きに渡り人々を救ってきた。そして今後も救い続けることを思うと、その功績は如何ばかりか。


 まこと、医聖と呼ぶにふさわしい偉人である。

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