医聖 張仲景42
張懌は鍵と張機の顔とを見比べた。
何度も視線を行き来させ、静かに尋ねる。
「……倒す、とは力で倒していいということでしょうか?」
「そうだ。思い切り暴力で来い」
「怪我しますよ」
「殺されたって恨まないよ。かなり危ない橋を渡ってここまで来たんだ。今更だろう」
張機は軽く肩をすくめてみせた。
その通り、ここまで命がけで来たのだ。今更である。
「鍵を奪えれば張懌の勝ち、張懌を行動不能にできれば僕の勝ち、ということでどうだ?」
それは張懌にとって何の異論もない提案だったので、大きくうなずいて了承した。
「いいでしょう。すぐにでも曹操殿の所へ向かいます」
「勝ったらそうするといい。だけど負けたら新しい人生を受け入れるんだ」
「新しい人生?」
「張懌という人間は死んで、新しい人間として生きろ。戦からは離れ、一人の民として生きるんだ。死なないためにはそれが一番いいだろう」
そしてそれが張羨の、親友の遺志に一番沿うことになると張機は考えた。
張羨の息子という事実は、否応なく張懌を戦に近づける。曹操なり宗賊なりに取り込まれかねないから、そんな立場は捨てさせるべきだ。
それに張懌が叩き込まれた知識、技術ならどこで何をしてでも食っていけるだろう。この乱世でも十分に生き抜けるはずだ。
だから張機は親友の息子に新しい人生を望んだ。
張懌はじっと張機の目を見つめ、それからまたうなずいて提案を受け入れた。
「分かりました。お約束します」
そう言ってから、音も立てずに立ち上がった。
衣擦れすら聞こえないような静かな立ち上がり方に、張機の背筋はゾクリとした。
緊張で顔の筋肉が固くなった張機とは対照的に、張懌は全くの無表情でいる。まるで人形にでもなったかのような様子で、その脱力が逆に圧を感じさせた。
(これは……失敗したかな?)
考えるまでもなく、普通に戦えば張懌の方が圧倒的に強い。
年齢、鍛錬、実戦経験、いずれも負けている。
そもそもこの若者は張機が逆立ちしても勝てなかった張羨と玉梅の息子だ。まともに戦ったとしたら、まるで勝てる気がしない。
(だけどこのまま無理やり監禁していても、開放されたらまたどこかの戦に突っ込んでいくだろう)
張機にはそんな未来がはっきりと見えた。こんな形では、武将としての己の終わりに納得などできないだろう。
だから本人が納得いくように、機会を与えたのだ。
(それに、あの足枷は軽くない)
張機はチラリと張懌の足元を見た。
足枷の鍵をかけた戦いなのだから、当然張懌は足枷をしたまま戦うことになる。
つまり張機は今いる場所のように離れてさえいれば、攻撃を受けなくて済むのだ。これはかなり有利な点だろう。
(近づき過ぎなければ大丈夫だ。距離を取り、自分の都合がいい時だけ間合いに入って細かく攻撃する)
そのつもりでゆっくり立ち上がり、鍵を懐に収めた。
それから一歩前へ出る。
張懌の間合いの内にギリギリ入った場所だ。ここに足を踏み入れることが戦いの合図となる。
瞬間、張懌の体がブレた。まるで蜃気楼のように揺れたと思った直後、張機は身を後ろに引いていた。
張懌の動きが見えたわけではない。しかし何かするということだけは分かったので、反射的に安全圏に下がろうとしたのだ。
ビッ
と小さな音がして、張機の鼻頭が熱くなった。
それからタラリと何か垂れてくる。血だ。
(速い!!予備動作なしの蹴りでこの速さか!!)
張懌はなんの前触れもなく、恐ろしい速度の蹴りを放ってきた。
鼻先にそれがかすめたが、本当に少しの接触で鼻血が出てきたのだ。顔に当たった風圧からも、直撃すれば一撃で意識を失っていたであろうことが分かった。
(やめておけば良かった!)
張機がこの勝負は本当に失敗だったと後悔している一方、張懌は張懌で渾身の一撃がかわされたことに驚いていた。
「今ので決めたつもりだったのですが……さすが張機様ですね。父上もお祖父様もよく褒めておいででした」
「二人が?嘘だろう?……いや、努力だけはよく褒められてたか」
「ええ。そして努力は人を強くします。私は張機様を強者と定め、気持ちを入れ替え油断を捨てて望みましょう」
張羨がそう言ってから息を深く吐くと、その存在感が大きく増したように感じられた。
張機は生まれて初めて努力してきたことを後悔した。そのせいで格上に本気を出させてしまっている。
「ちょ、ちょっと待った」
張機は片手を上げ、もう片手で鼻血を拭いながら後ろに下がった。
そして部屋の隅に転がっていた棒を手に取る。
戸が開かないようにするためのつっかい棒で、振り回すにはちょうど良い長さがあった。
「……武器を使うのですか?拘束された相手に?」
張懌はさすがに不満そうな顔をしたが、張機は必死だ。
自分でも情けないと思いながら、言い訳をした。
「ぼ、僕は医者だぞ?現役武将の相手をするんだから、これくらいいいだろ」
「しかし……最終的に離れたところから矢で狙われたりしたら、もはや勝負ではなくなりますが」
「いやいやいや。そんなことはしないって。この棒だけ、これ以外は一切使わないから」
懇願するような形になってしまった張機に、張懌はため息をついた。
どちらにせよ、自分はあれこれ文句を言える立場ではない。これくらいは受け入れようと思った。
「分かりました。その棒だけですよ」
「よ、よし。じゃあ行くぞ」
気を取り直し、張機は棒を構えた。
その構えは張懌にとって馴染み深いものである。祖父の蔡幹、父の張羨は棒術や杖術を重視していた。
何でも使う実戦武術を教えていたのだから、どこにでもよく転がっている棒など格好の武器だ。
(卑怯だけど、この棒でさらに距離を取りながら攻撃する)
張懌の手足が届く範囲を極力避けつつ、棒を突き出した。さすがにこれなら負けはないだろう。
ただし、そんな攻撃も張懌は素手で捌いていく。きれいに当たることはほとんどなく、当たったとしてもそれは誘いや牽制で、かわされた方が次に繋がるような攻撃ばかりだった。
(実力差が開きすぎてるな……しかも攻撃が読まれてる)
当たり前といえば当たり前のことで、張機と張懌は師を同じくしているのだ。
そこでより研鑽を積んできた張懌がこちらの攻撃を読めるのは必然だった。
(型から外した攻撃でないと決まらないんだろうな)
そう考え、自分の知っている定石から手を変えてみた。
小さく突いた後、普通なら素早く引くが棒を素早く回して首を打とうとした。
が、その一撃は張懌の手のひらで受けられた。しかもそれだけでなく、棒が握られた。
張機は棒を取られまいと強く引いたが、それが悪かった。
逆に引き返され、体ごと二歩前に出る。
(いけない!!)
張機は慌てて棒から手を離し、後ろに下がろうとした。
その直後に視界が消える。取られた棒が回転し、目と目の間にぶつけられたのだ。
それは大した痛みにもならなかったのだが、一瞬目を閉じてしまった。
そして次に目を開けた時、張懌の姿が消えていた。
(どこに!?)
張懌がそれを探す間もないほどすぐに、足首が引かれた。
低く床を滑るように迫った張懌の両手が張機の足首を掴み、ぐいと引かれていたのだ。
「あっ」
張機は小さな声を上げることしかできなかった。
ほとんど抵抗できないままに張懌の下に敷かれ、両手で首を押さえられた。
このまま強く首を締めれば、ものの数秒で張機は落ちるだろう。
しかし実際にそこまでせずとも張懌の勝利は明らかだ。
油断なく手にわずかな力を込め、ふっと笑った。
「私の勝ちですね」
そう言って、片手を張機の懐へと伸ばそうとした。そこに鍵が入っている。
張機は反射的にその手を掴んだ。
「……張機様、素直に負けを認めてください。それとも本当に絞め落とした方がいいですか?」
張懌は片手にじわじわと力を込めながら、冷たい視線を張機に落とした。
張機は歯を食いしばってその視線を見返し、もう片方の手で首の方の手首を握った。
両手で両手を押さえている形にはなっているが、張懌の言う通り勝負はすでに決しているだろう。張機にもそれは分かった。
(すまない、張羨……)
親友との約束を果たせなかった。
そのことを心の中で謝りながらも、わずかに開放された気持ちもある。
当然のことながら、張懌の気持ちを無視していることに罪悪感を覚えていた。そのせいだろう。
「張懌、曹操殿の所に無事たどり着けたらの話だが……」
張機はその前提で話を始めた。
この若者は自身の運命を勝ち取ったのだから、もはや見送るしかない。
ただし、最後に忠告はしておこうと思った。
「もし希望通りに曹操殿が軍を動かしてくれても、すぐ長沙の城に帰ってくるのはやめておけ。どこかに身を潜めて状況が落ち着くまで待つんだ。それと、もし曹操殿からあちらの軍に残るよう言われても受け入れるんじゃない。固辞して去れ」
張懌はこの忠告に眉根を寄せた。
長沙の城にすぐ戻るなというのは分かる。劉表軍が城を包囲していたら、無理に入城しようとするのは危険だ。
こちらの狙いは曹操軍が劉表の本拠地を攻めると見せかけることなので、上手くいくと仮定するならば退却するまで待った方がいい。
しかし曹操軍に残るなと張機が言うのはなぜか。
(張機様は無理やりとはいえ、私を死なせまいとしてくれている。ということは、曹操軍にいるのは危険ということになるだろう)
そう考えた張懌は、かなりの確信を持って張機に尋ねた。
「曹操軍は、そこまで劣勢というわけですか?」
恐らくだが、張機は劉表やその周辺からそのような情報を得ているのだろうと推察した。
張懌とは陣営が異なるのだから入る情報の経路、種類、量、質どれも違うはずだ。
張機はこの推察に首肯した。
「実は黙っていたが、今の曹操軍は本拠地である豫州の維持すら危ういらしい。袁紹軍の劉備が豫州の反乱を助けて暴れ回っているからな」
張懌は張機の言うことの意味が分からず、小さく首を傾げた。
「それなら私も知っていますが……というかそれを鎮圧するための軍を曹操殿が出しており、その鎮圧軍の進軍方向を劉表の方へ向けてもらうようお願いに行くわけで……」
「その鎮圧軍だが、実はもう敗れてる」
その爆弾発言を耳にした張懌は声を裏返してしまった。
「はい!?」
「だから、劉備軍に返り討ちに遭って敗走したんだ。僕が襄陽を出るその日の朝に劉表様の近侍からそう聞いた。たまたま薬を届ける用事があってね」
張機はその情報がいつ桓階たちのもとへ届くのかヒヤヒヤしながら今回の企てに当たっていた。
張羨の死でバタバタしていたせいか、思いの外情報の入りが遅かった。
結果としてバレずにここまで来られたが、もしかしたら桓階は今頃耳にしているかも知れない。
「では……今から私が曹操殿の所へ行っても無駄ということに……」
「いや、そうとは限らないだろう。本拠地を放っておくわけにもいかないと思うし、次の鎮圧軍を出すんじゃないかな」
「そんなこと言ったって……それだけ切羽詰まっていて、うちのために動いてくれるわけが……」
張懌の視線はまだ張機に落とされていたが、すでに張機を見ていないように感じられる。
絶望的な眼差しが、どこかここではないようなところへ向いている。
「……そんな状況の曹操軍に頼み事をしても、無駄でしょうね。やはり曹操殿の元へ向かうのはやめます」
「何?じゃあ、戦が終わるまでここにいてくれる気になったのか?」
パッと顔を明るくした張機に、張懌は力の抜けた笑いを返した。
それは生きる力すら抜けてしまったような笑みで、張機の胸に冷たい不安が落ちてきた。
「いいえ。長沙に戻り、仲間とともに華々しく散りますよ」
そう言って、張懌は己の征くべき方向を転じた。生ではなく、死に向かって自ら進むのだと。
その目には虚勢の欠片も見えず、本気であることがよく分かった。
「ば……馬鹿なことを言うんじゃない!せめて生き残るために戦うのならまだしも、死ぬために戦うやつがあるか!」
「医師である張機様に分かってもらえるとは思いませんよ。私たちは軍人です」
「医師だとか軍人だとかは関係ない!生きるということに関しては誰しも同じだ!それを……」
「いつか死ぬことだって誰しも同じです。そして、私は父上のような無様な死に方は嫌です」
その言葉に、張機の頭は冷水をかけられたように急速に冷えていった。
凍りつきそうなほどの冷たい怒りが湧いてくる。
「……張羨の……死に方が無様だって?」
急に温度を下げた張機の声に、張懌の本能が震えた。
しかし戦いにおいては気で相手を圧倒しなければならない。それを知っている張懌は、逆に奮い立った。
「ぶ……無様でしょう!病で苦しんで、衰えて、まるで人の体ではないようになって……」
「だから何だ。それのどこが無様だと言うんだ」
「誰が見たって無様ですよ!あれなら戦って死んだ方がずっといい!」
「張羨だって戦ったさ!病と戦って、必死に戦って死んだんだ!その姿を無様だなんて言うのは、絶対に許さない!」
叫びとともに、張機の中の凶暴な棚が開いた。
そして腹の底から苛烈なほどの力が湧いてくる。
掴んだ張懌の両手首を強く握って押し返すと、張機の首にかけられていた手が離れた。
「くっ……!!」
張懌は慌てて体重をかけたが戻らない。むしろ、少しでも気を抜くとひっくり返されそうだ。
「僕は医師として、たくさんの患者の戦いを見てきた。そこには苦しみも多いけど、皆最後まで生きるために必死に戦うんだ。それなのに、お前は死ぬために戦うのか。それは全ての患者の戦いを侮辱する行為だぞ……」
張懌の手首にかかる力がさらに増した。
張機の体からは、人体が自壊を避けるために無意識にかけている運動制御が失われていた。
限界を超えた筋繊維が自らを千切りながら収縮していく。
(て、手首が折れる……!!)
直感的にそれが分かった張懌は慌てて己の拳を握り込んだ。少しでも筋肉を固め、抵抗力を上げなければならない。
それと同時に背筋を反らせ、頭を上げた。そして振り下ろす。
強烈な頭突きが張機の顔の真ん中に落ちた。
鼻が潰れ、鼻血が霧のように吹き出す。
しかし、それでも張機の手からは力が失われなかった。それどころかその圧はさらに増していき、張懌の前腕がミシミシと音を立てる。
「お前はずっと……父親の望みに応えようと努力してきたんだろう……最期の……一番強い望みだけ応えなくてどうする……」
張機の目は必死で、同じ顔をして死んだ父の最期と嫌が応にも重なった。
その顔で、父の顔で張機は叫ぶ。
「……生きろっ!!張懌!!」
たった三文字の、父の最期の望み。
それが耳に入った瞬間、張懌はこの望みを受け入れるように握っていた拳を解いてしまった。
途端に前腕の抵抗力が落ち、張機の万力のような握力で握りつぶされた。
「ぐああっ!!」
ゴキンッ
低い音がして、張懌は痛みに呻きながら張機の上から転がり落ちた。
両腕を床の上に投げ出し、苦悶に顔を歪める。
張機の方は鼻血を拭いつつ起き上がり、張懌の表情を確認した。痛がり方からも、診立てに必要な情報は得られるからだ。
「両前腕の骨折……尺骨だな」
冷静にそう診断を下しながら、医師が怪我人を作ってしまった不本意にため息を吐いた。




