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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景35

 張機は冷や汗をかきながら城門を見つめていた。


 重厚な城門だ。分厚い木材をさらに鉄で覆い、おいそれとは壊されないよう造られている。


 しかし造り手がどう意図しようと、形あるものが壊れないということはない。


 それは大型の破城槌(はじょうつい)に勢いをつけて突っ込まれれば、なおのことだ。


「ああっ」


 と、張機は声を上げてから自分の口を押さえた。


 桓階(カンカイ)がそれに責めるような視線を送ってくる。


「静かに」


 桓階は小声でそう言ったが、実際には破城槌が城門にぶつかる音が鳴り響いたので張機の声はさほど目立たなかっただろう。


 二人は低木の茂みに身を隠し、張羨の守る城をじっと見つめている。


 『会いたい』という言葉に応えるため、張機は桓階とともに長沙まで来た。しかし城は今まさに激戦の真っ只中だった。


 攻めているのは劉表軍だ。城を包囲した上で、城門を破ろうと攻城兵器を繰り出している。


 もちろん張羨軍もそれをただ見てはいない。城壁の上から石や矢を落として撃退しようとしている。


 しかし、城門まで敵が達している時点で優勢とは言い難いだろう。


「……っ!!」


 また破城槌が城門に当たり、張機は再び声を上げそうになった。しかし今度はなんとか我慢する。


 そんな張機を落ち着かせようと、桓階が背中を叩いてきた。


「大丈夫ですよ。張羨様が改修された城門はそう簡単に壊れませんし、きちんと手も打たれています」


 そう言った直後、戦場の別のところで喚声が上がった。


 騎馬隊が土煙を上げながら現れて、城門に取り付いた兵たちに突撃していく。


 どうやら別の門から打って出たようだ。


「来た……あれが敵を蹴散らしたら出て行きますからね」


 桓階にそう言われ、張機は緊張の面持ちでうなずいた。


 破城槌を使っていた部隊は騎馬隊に突っ込まれて崩れ、半ば散るようにして後退を始めた。


 援護に来た部隊もあったのだが、城壁からの石と矢に襲われるので思うように近づけない。


 劉表軍は破城槌を破棄することだけは避け、どうにかこうにか味方の多い安全圏まで下がっていった。


 その間に桓階は張機を連れて騎馬隊へと向かって駆けている。その手には青い旗が掲げられていた。


 この青い旗が味方であることの印ということになっている。任務で城外に出た少人数が城内の仲間から攻撃されないようにするための合図だ。


(包囲されている城に入るのは、味方でも命がけだな)


 張機はそれを知識として知ってはいるものの、命をかけての実感としては初めて知った。


 慌てた味方が矢でも撃ち込んできたら死ぬかもしれない。慌て者一人で死ぬかもしれないのだ。


 だから騎馬隊が自分たちをきちんと回収してくれたことに心から感謝しながら、張機はようやく城内へと入ることができた。


「張機様!来てくださったのですね!」


 入城してまず迎えてくれたのは張羨ではなく、息子の張懌(チョウエキ)だった。


 張機の姿を認めると、カチャカチャと鎧の金を鳴らしながら駆けてきた。


「張懌!元気そうだな!無事で何よりだ!」


 張機は親友の息子を抱擁し、鎧越しにその背中をバンバンと叩いた。


 張懌も同じようにしようとしたが、張機の背中には手を回せなかった。


 ものすごく大きな荷物が背負われていたからだ。


「この大荷物はもしかして、薬ですか!?」


 張機はその推測をうなずいて肯定した。


 この男は敵軍の包囲から隠れて城に入らなければならないというのに、馬鹿みたいな量の薬を持ってきたのだった。


 出発前、止める桓階に対し、


『矢避けにもなるから』


と言って無理やり持参した。実際、矢避けになるほどの大きさではあった。


「籠城中は医療資材が不足しているだろうと思って、持てるだけ持って来たんだ」


 張羨との話がどうなるにせよ、張機はその後に城内の怪我人や病人を治療して回るつもりだ。


 今の自分は劉表の主治医とはいえ、基本的には私人という立場である。医師として責められることではないはずだ。


 張懌は薬だという大荷物を改めて見上げ、表情をさらに明るくした。


「ありがとうございます!これだけの薬と張機様の腕があれば、父は助かるかもしれません!」


 その言葉に、張機の顔は石像のように固まった。


(……助かるかもしれません?)


 それは一体、どういうことだろうか。


 張機はここに来るに当たって、桓階から呼ばれた理由を聞いていない。


 ただ張羨が会いたがっているということと、劉表軍の使者としてではなく私人として包囲を抜けて来て欲しいとだけ言われた。


 詳しい事情など分からずとも、張羨に会えるなら何を差し置いても行かねばならないと思って襄陽を出たのだ。


「おい……どういうことだ!?張羨は今どうなってるんだ!?」


 張機は顔を険しくし、張懌の肩を激しく揺らした。


 どうやら張懌は張機が何も知らないとは思わなかったようだ。意外な反応に、困惑したように桓階の方を見る。


 桓階は無言で一つうなずき、張機の袖を引いた。


「とにかく、張羨様のところへ行きましょう。行けば分かる話です」


 それだけ言って歩き出す。


 張機は強張った顔のままそれを追った。


 途中、事情を聞こうと思えば聞けたはずだ。


 しかし張機はそうしなかった。出来なかった。聞くのが恐ろしかったからだ。


 だから無言で桓階の後をついて歩く。


 張羨の居室までの道のりがやけに長い気がした。恐ろしい時間など早く終わればよいものを、なぜこんなにも長いのか。


 そんな気の遠くなるような思いを経て会えた張羨を前にして、張機の頭は真っ白になった。


 寝台に腰掛けた幼馴染の姿は今まで見たどれとも違う。まるで違う。


「張羨……」


 張機はつぶやきつつ、真っ白な頭で反射的に医師の目を動かした。


 まず第一に、ひどくやつれている。長いことまともに食べられていないのだろう。頬がげっそりとこけていた。


 第二に、黄色い。肌と白目が黄色いのだ。いわゆる黄疸を起こしている。


 第三に、呼吸器が障害を受けていることが見て取れる。運動後でもないのに肩で息をしており、短くて回数も多い。


 第四に、皮膚のあちこちに紫色の出血痕がある。止血機能が上手く働かず、内出血を起こしているのだ。


 第五に……


 と、真っ白になったはずの張機の頭に、外観だけで分かる病状がいくつも並べられていく。


 しかしそれらの外観はふと、一つの単語でまとめられた。


厥陰病(けついんびょう)……)


 この厥陰病というのは病名ではない。病の進み具合のことだ。


 張機は進行性の病に関し、病期を六つに分けてその進行状態を把握する。


 軽い方から太陽病、少陽病、陽明病、太陰病、少陰病、厥陰病の順だ。


 つまるところ、厥陰病は末期である。


(すでに五臓六腑が正常に機能していない)


 明らかにそういう病状だった。


 多臓器不全。これが張機の診断になる。


 現代であれば癌の全身転移など、もっと正確な病名がつけられただろう。しかしもはや為す術もないことが明白である以上、それも意味はない。


(死相……だな)


 張機は別の単語でもって張羨の状態を再認識した。


 仮に医師でない者が見たとしても、張羨の姿は死相にしか映らないだろう。


 この病人はもう長くない。そういう沈痛な面持ちで接するのが普通の人間だ。


 しかし医師であり、親友でもある張機は普通とはまるで違う態度を取った。


 明るく笑い、幼馴染へと軽い足取りで歩み寄ったのだ。


「久しぶりだな張羨。ようやく会ってくれる気になったのか」


 ただ久方ぶりに会った親友に挨拶をしている。そんな風に片手を上げた。


「お前のせいでうちの家庭が荒れたんだ。会って文句を言うくらいさせろよ」


 慰めでも労りでもない、一つの苦情を口にした。


 これを受け、張羨はこけた頬をニィッと上げた。


「だから会いたくなかったんだよ。雪梅さん、キレた?」


「キレたさ。『あなたっ!!』って鼓膜が破れるくらいの声で」


「あっはっは!そりゃいい。あの人いい奥さんみたいだけど、そういうの気にしそうだもんな」


 張羨は楽しそうに笑う。


 その様子に桓階と張懌はひどく驚いていた。


 張羨のこんな顔はもう長いこと見ていなかったのだ。


 張機がもしただの親友で、医師でなかったとしたら体を気遣う言葉をかけただろう。


 それはもしただの医師で、親友でなかったらという仮定も同じことだ。


 張機は医師であり、親友でもあることで初めて張羨を心から笑わせてやることができた。


 ……が、張機はその笑いにも苦情を申し立てる。


「笑い事じゃないよ。あのピリッとした空気だけで寿命が三年は縮んだね」


「なんだ三年くらい。この乱世じゃ誰だって明日の命も分からんぜ」


「乱世のせいならまだしも、妻に刺されるような死に方は勘弁だな」


「アッハッハ!そりゃその通りだ」


「ホント冗談じゃないよ。妻ってのはいつだって自分を暗殺できる人間なんだからな」


「ああ、そうだな。この世で最も懐柔すべき相手だ」


「分かってるならあんなのはよしてくれよ。頑張って説得したんだからな。形だけの妾だから、って」


「なんだ、形だけにしたのか」


「何言ってんだ。張羨だってそのつもりだったくせに」


「いや、俺はお前に任せた以上……」


 などと談笑をしている二人に、桓階が口を挟んできた。


 こちらは楽しそうな様子などなく、事務的で冷静な声をかけてくる。


「張羨様。申し訳ございませんが、先に報告をさせていただいてもよろしいでしょうか」


 今は戦の真っ最中なので。


 と言葉にはしていないが、その意図はよく分かるような口調だった。


 桓階とてこんな張羨を見たのは久しぶりだから話させてやりたいのだが、外からはまだ戦の喚声が聞こえてきている。


 張羨の耳にもそれは届いているから、特に文句も言わず桓階の方を向いた。


「すまん、聞こう」


「まずは張懌様から」


 声をかけられた張懌はハッとして、背筋を伸ばし直して報告を始めた。


「敵は予想通り、手薄な北門に攻撃を集中させています。先ほど何度か破城槌を打ち込まれるほど迫られましたが、打って出た騎馬隊によって散らせました」


「他の門への攻撃は?」


「散発的で、牽制程度です」


 張羨は小さくうなずき、軽く手を振った。


「分かった。今のところ許容範囲内だな。予定通り進めろ」


「はっ!」


 張懌は父に向かって短く返事をすると、背を向けて退室して行った。


 その背中へ向けられた張羨の、


「諸将の進言をよく聞くんだぞ」


という言葉を聞き、張機は今の状況を少し推察することができた。


(張懌は父の代官として全軍の指揮を取っているみたいだな)


 まだ若いが、主君の一人息子ということで立てられているのだろうと思われた。


 今のように張羨本人が報告を受けて指示は出しているようだが、この体ではさすがに現場指揮は無理だろう。


「では、次に私から」


 と、桓階が報告を続ける。


「残念ながら、こちらの誘いに乗る人間はおりませんでした」


 これは張羨の予想通りだったようで、特に残念そうな顔もせずうなずいた。


「一応打てる手は全てと思って行ってもらったが、やはり無理だったか。勝ち馬に乗るなら袁紹と曹操の決着がついた後になるだろうからな」


「そうでしょうね。忠誠やら仁義やらを口にしてはいましたが、今裏切る価値を見出だせないというのが本音でしょう」


 やはり桓階の言っていた内部工作とは裏切りの誘いだったようだ。


 それにしても城門まで攻め込まれていて、しかも造反なども期待できないとなると、張機には勝ち筋が見えない。


 加えて張羨の病状である。


(せめて張羨さえ元気なら……)


 自分の親友は本当になんでも出来る男だ。だから張羨さえ生きていれば、何とか出来るのではないかと思う。


 そう思う一方、張羨の死をすでに受け入れてしまっている自分がいた。


 息子の張懌はまだ希望を抱いているようだったが、自分も医療知識などなければそうだったのかもしれない。


 奇跡を願い、神にすがれと言われれば財をはたいてでも親友の治癒を祈っていたのではないだろうか。


 しかし悲しいことに、張機は医師なのだ。


 医師ゆえに抱けなかった希望を羨み、抱えることになった絶望に苦しみながら、必死に微笑んで悲しみを隠した。

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