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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景31

「張機、お前の医学書すごく好評だぞ。長沙の医師たちに渡したら写させてくれって人間が多いらしくて、まだ返ってきてないんだ」


 張羨は自分のことのように嬉しそうに笑ってから、謝罪を付け加えた。


「すまないな、意見が欲しくて草稿を送ってくれてたのに。お前が来てくれた時に手元にないなんて段取りが悪過ぎだ」


 謝られた張機は軽く手を振り、笑い返す。


「いや、別に構わないよ。それはまた送ってくれれば……」


 という張機の言葉は最後の部分がかき消された。


 部屋の外で大きな声が上がったのだ。


 張羨と張機は長沙郡の役所の執務室で対面している。張羨らしく、飾り気の少ない実用性重視の部屋だ。


 太守の部屋なのだから壁が薄いということもないのだが、ちょっと言葉を途切らせる程度には響いた。


 しかし張機はあまり気にせず言葉を繋ぐ。


 どうやら何か急ぎの仕事があるようで、実は来訪時から役所全体が慌ただしいのだ。


「……後日送ってくれればいいから。急かして診療の妨げになるといけないし、本当にいつでもいいよ」


 実際に、張機は別に急いではいない。執筆は順調で、もうかなり良いところまで出来上がっているのだ。


 特に曹操から返ってきた草案は役立った。華佗という音に聞こえた名医からの意見が書き込まれており、非常に参考になったのだ。


 あれでかなり改善され、完成はもう間近だという手応えがある。


 張羨へ送っていたものも草稿ではあるが、書き写されても恥ずかしくないものだと自負していた。


「それより、あの医学書が患者を救う手助けになってくれるならそれが一番嬉しい」


 張羨はこういう幼馴染の心根が誇らしい。


「お前は本当にすごいやつだよ。あれだけのものを書くのは本当に大変だったろう?」


「そりゃ大変だったさ。主に妻を説得するのがね」


「雪梅さんを?」


「家が医学書で埋まってしまう!頼むから捨てさせてくれ!って叫ぶのを頑張ってなだめたんだ」


 その様子を思い浮かべ、張羨は声を上げて笑った。


 ただし納得はできる。実際に張機の家の蔵書を見たが、ありえない量だった。


「でもまぁ、あれをきちんとまとめられるお前がすごいと思うけどな。情報の取捨選択、整理ってかなり難しいだろ」 


「正解がないからね。だから完成後も内容は更新していきたいし、今後も色んな医師の意見を聞き続けたいんだ」


「頑張ってくれ。長沙の医師たちには早めに返してもらえるよう言っておくよ」


「いや、それは本当に急がないから。それより何だか大変そうだな?忙しいんだろう?」


 張機は部屋の扉へと目を向けた。


 その向こうは相変わらず騒々しく、たまに怒声のような言い合いまで聞こえてくる。


 張羨は苦笑した。


「そうだな。ちょっとバタバタしてて、実は医師たちに返してもらうよう伝えるのを忘れてたんだ」


 張機はあらかじめ今日来ることを文で張羨に伝えていた。


 それなのに草稿がないのは几帳面な張羨らしくないと思っていたが、忙しくて失念していたようだ。


「さっきから矢の本数とか城壁の修繕とか聞こえるけど、もしかして宗賊に反乱の兆候でもあるのか?」


 少しだけ聞こえてくる単語から、戦についての話をしているように感じられた。嫌な感じだ。


 張羨は宗賊とも上手くやっていると聞くが、ない話ではないだろう。劉表が来る前には五十以上もの宗賊がいたのだ。


 しかし張羨は首を横に振る。


「いや、大きめの盗賊が出たってだけだ。討伐には向かうが今はまだ準備段階で、攻めるのは少し先になるな」


「そうか。ならいいんだけど……」


「念のため、帰り道は長沙郡の兵を護衛に付けてやるよ」


「それは大丈夫だよ。護衛は劉表様がかなり多めに付けてくれてるから」


「こっちの警戒網にかかると面倒だ。二、三人でいいから同行させろ」


 確かに何かしらの行き違いで揉めることになってはかなわない。長沙郡の兵も同行してもらえるなら助かる。


「分かった。ありがとう」


 素直に礼を伝えてうなずいた。


 張羨はそれにうなずき返し、置かれていた茶に手を伸ばした。


 二口ばかり飲み込んでから、大きく息を吐く。


 その吐息は先ほどの軽い会話とは打って変わり、ずしりとした重量を感じさせた。


(急に雰囲気が変わった……)


 吐息一つで、張機にはそれがはっきりと感じ取れた。


 組手をしている時に、気を入れて構えたような警戒を感じる。幼馴染で仕草をよく知っているから余計にそれが分かった。


 そして張羨の吐息の重さは、次に発した言葉にも乗っていた。


「……で、劉表様からはどんなことを頼まれてるんだ?」


 話題をまるで変え、張羨は唐突にそう問うてきた。


 その視線は茶碗に落とされているのだが、張機は直視されなくても頭の芯が緊張してくるのが分かった。


 なんの前触れもなく、いきなり急所に斬りかかられた思いがする。


 張機は戸惑いの声を上げた。


「いや……」


「隠さなくていい。劉表様の主治医とはいえ、役人じゃないお前の私用に百人も護衛は付けないだろう」


 張羨が受けた報告では、護衛が百人という話だった。


 しかし張機は今日、医学書の草稿回収と張羨の顔を見たいがために来ているのだ。少なくとも、事前に送られてきた文にはそう書かれていた。


 それに百人の護衛はおかしい。


 張機も張羨なら気づくかもしれないとは思っていた。


「……出発の前日に劉表様から呼び出されたんだ。それで張羨の思ってる通り、いくつか頼み事をされた。ごめん」


「謝るな。お前の意志とは関係のない頼まれごとなんだろう?」


 張羨は張機を信じている。だからそこは気にしていない。


 張機もそういう気持ちを感じ、言われたことをそのまま話そうと思った。


「ああ。正直に言うと、初めに頼まれたことは僕自身も劉表様の方針に反対なことだ」


「何だ?」


「神霊療法の禁止の禁止」


 張羨は盛大なため息を吐いた。


 そして己の頭をガシガシと掻きむしる。


「あの人は……まだそんなこと言ってるのか。前の疫病の流行で神霊療法が危ないって分かっただろうに」


 張羨はひどく不満だったが、張機はもう少し事情が分かる分だけ劉表に同情的だった。


「劉表様も分かってないわけじゃないんだけど、色んな宗教組織からの苦情は最終的に劉表様のところに集まるだろ?張羨に対してやめろって言わざるを得ないんだよ」


「ああ……まぁな」


 そう説明されると、張羨も気持ちは分かる。


 行政の長は苦情や要望の行き着く先で、それらが来れば何らかの行動を取ったと示さねばならない。


「なら、それは言うことを聞かなくてもいいな」


「そこまではっきり言われると少し答えにくいけど……ただ僕としては宗教組織から目の敵にされるのは怖いと思うし、そこは張羨にもよくよく注意と配慮をして欲しい。最悪、殺されるぞ」


 医師としての張機は神霊療法を全否定すべきだと考えているが、太守経験者としての張機は宗教と対立することの恐ろしさも分かっている。


 この点は真剣に注意したかった。


「そうだな、よく気をつけるよ。他には?」


 張羨は顎をしゃくり、他の頼まれごとを促した。


「宗賊たちと距離を置くように説得しろって」


 先ほどの反応とは異なり、張羨は無言、無表情でうなずいた。


 宗賊とは地元民の一揆勢力であり、領民ではあるが統治側と争う反乱勢力ということになる。


 張羨はそれらと巧みに親交を結んで統治を安定させてきたのだが、そもそも太守が反乱勢力と繋がりを持つのには問題があるだろう。取り込まれかねない。


 これは命じられても仕方のない内容だ。だから何も反論はせず、先を促した。


「あとは?」


「あとは……」


 張機はその先を言う前に、茶を飲んで一拍置いた。


 大きく息を吸い、自分の気持を落ち着かせてから言葉を再開させる。


「張羨に何か変わったところがあれば、どんな細かいことでも報告するよう言われた。普段と違う表情、仕草、言葉、雰囲気……何でも感じたことは全て報告しろと言われた。これは……」


 と、張機はまた言葉を切って茶を飲んだ。全て飲んだ。


 張羨を見ず、空になった茶碗を見つめる。


 口を開こうとするが、それを口にするのがためらわれてまた閉じてしまった。


 しかしここまで言って黙るわけにもいかない。逡巡を振り切り、その言葉を口にした。


「反乱を疑われてる。張羨、お前は反乱を疑われてるんだよ」


 劉表は直接的な言葉でそうは言わなかったが、頼まれた内容からこれは確定事項だった。


 すでに行政から離れている張機では詳しく知ることはできなかったが、恐らく劉表とその周囲の間では低くない可能性として議論されているのだろう。


 百人の護衛たちも、本当の目的は護衛ではなく反乱の兆候を調べることのはずだ。


 もし張羨が劉表への反乱を企てていたなら、自分はどうしたらいいのか。


 張羨は友だ。劉表も友だ。その間に立つ自分は引き裂かれるしかないのではないか。


 張機は祈るような気持ちで親友の顔へと視線を上げた。


 親友は微笑んでいた。少し眉間にしわを寄せて微笑んでいた。


 張機にはその表情の意味がすぐに分からなかったが、次の言葉によって理解できた。


「無駄な気苦労をさせられて気の毒だったな。同情するよ」


 同情。


 張羨の顔は同情の顔だったようだ。


 それが分かった張機はようやく安堵した。


「じゃあ、劉表様が心配しているようなことは何もないんだな?」


「ないない。多分だが、俺と仲のいい宗賊が武器を集めてるって情報を得たんだろう。それが反乱の兆候に思えたんじゃないか?」


「そんなことがあったのか?」


「あった。だがこの乱世だし、自衛目的だと言われれば止められん。先々で徴兵してうちの兵になるならその武器も戦力になるしな」


「確かにそうだな」


「その事も、今やってる盗賊への準備もきちんと護衛たちに説明するよ。あの百人は反乱の調査隊ってことだろ?」


「そういうことだな。彼らはこの役所の慌ただしさでさらに疑り深くなってるはずだ。本当に盗賊が出たんだっていう証拠を見せてやってくれ。じゃないと安心できないだろう」


「分かった。村一つが丸々焼かれたんだ。そこへ連れて行こう」


 それならば誤解も解けるだろう。


 張機は全身の力を抜き、卓にもたれかかった突っ伏した。


 それから茶碗を持ち上げる。


「お茶、おかわり」


「持ってこさせるよ」


 張羨が従者を呼び、それを命じた。


 それから自身も茶碗を空にし、フッと息を吐いてからつぶやく。


「俺は合理的な世の中を作ると心に決めたんだ。非合理的に歩みを緩めている訳にはいかないさ」


 その声は人と話すにはやけに小さくて、張機に言ったというよりも自分に対して言い聞かせているように感じられた。


「ああ……張羨はそういうことをしたいんだったよな。じゃあ反乱なんか起こしてる暇はない」


「そういうことだな。無駄な気苦労、ご苦労さん」


「本当だよ。本当に馬鹿馬鹿しい苦労だった」


「苦労ついでに、もう一つ苦労を頼んでいいか?」


 そう言われ、嫌な声を返す。


「ええ?やだよもう……って言いたいところだけどね。大切な幼馴染の頼みを聞いてやろう」


 張機はいまだに卓にもたれかかったままで顔を伏せている。力の抜けたその姿勢のまま幼馴染の頼みを聞いた。


「玉梅と娘たちが襄陽(じょうよう)で買い物とかしたいらしいんだよ。一緒に連れて帰ってくれないか?」


 襄陽は劉表が荊州を治め始めてから移した州治所だ。


 荊州の新しい首都のような街だから、ここ数年で大きく発展してきた。新築のきれいな店舗が立ち並び、市も活気がある。


 張機は顔も上げず、フラフラと手を振った。安心してすっかり気が抜けている。


「なんだ、そんなことか。じゃあ百人の護衛による安全な旅を提供するよ」

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