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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景30

 曹操の心臓は強く拍動していた。ドクン、ドクンと自分で脈打つのが分かる。


 緊張していた。いや、胸をときめかせていたと言った方が正確かもしれない。


 まるで恋をしているようだ。すでに恋で胸ときめかせるような齢ではないが、手元の文には恋文の返事と同様のときめきを感じる。


(人材の収集癖、か……)


 曹操はいつか言われた己の性向をあらためて思い、その表現が言い得て妙だと改めて思った。


 人材が欲しい。優秀な人間が欲しいのだ。


 だから曹操は目ぼしい人材を見つけると必ず声を掛けた。


 曹操の手に握られている文には少し前に誘いをかけた人材からの返事が書かれている。曹操は己の執務室で、ただ一人でそれを開こうとしていた。


 緊張する。胸がときめく。


 果たして彼は己の部下として馳せ参じてくれるか。


「……失恋、か」


 曹操は返書に目を通し、ガックリと肩を落とした。


 最近は帝を手にして振られることが少なくなったから、特に堪える。


「張機殿……こちらには来てくれんか」


 つぶやき、床にゴロンと寝転がった。


 長沙太守になっていた張機が官を辞したという情報を得たのはいつだっただろうか。曹操はすぐにその後の動向を探らせ、状況が分かるとすぐに文を出した。


 しかし返書には丁寧にお断りの旨が記されていた。


「張機殿が来てくれれば、医療というものがより実証的に改善されただろうに」


 曹操はそういったことを狙って張機を召喚していた。


 以前に張機から医療の講義を受けて、それが可能な人材であると認識していたのだ。


 後世において張機の遺した医学書が論じられる時、必ずと言っていいほど『実証的』な書であると評される。


 診療に際し、まずは病の自覚症状、他覚症状、そして体質を総合的に検討し、さらに病の進行具合を見極める。それらをありのままに捉えることを始まりとするのだ。


 その情報をもとに、様々な類形から治療方法を選択していく。


 もちろん現代科学からすれば不十分な点も多いだろう。しかしこのように、ありのままの生体を観察するという手法はこの時代においては極めて実証的であると言える。


 ちなみに現代医学との一番の相違は、体質を重視するというところだろう。


 現代の西洋医学では同じ症状であれば同じ処方になることが多いが、張機の流れを汲む中医学や漢方では必ずしもそうではない。


 体質を元に、その人に最も適した治療方法が検討されるのだ。オーダーメイド医療と言っても過言ではないだろう。


「医学書を執筆するために退職したのだから、それを理由に断られるのは当たり前か」


 曹操も事情は知っていたから、実は断られる可能性が高いとは思っていた。


 しかしダメ元で告白しても振られれば傷つくのだ。つい乙女のようなため息を漏らした。


「……それにしても、よほど執筆に熱中していると見える。こんなものを送ってくるとは」


 曹操は返書に添付されていた木簡の束を一つ取り上げ、中に軽く目を通した。


 内容は医学書の草稿だ。


『もしよろしければ曹操殿の周囲にいらっしゃる名医にこちらを見せていただき、ご意見を賜れないでしょうか』


 張機は返書でそういう依頼をしてきたのだった。


 この機会を逃す手はない、と思ったのだろう。曹操は難治性の頭痛持ちで、常に医者にかかっている。


 加えて今は自身が権力者なだけでなく、帝を擁している。つまり帝の侍医と繋がりがあるのだ。


 その意見を受けられるのは極めて有益なことだろう。


「こちらにとってもありがたいことだが」


 張機はどうやら医療知識について秘匿する気がないらしい。


 医師によっては己の医術を門外不出とし、独占販売のようにして稼ぐ者も多い。しかし張機は出来るだけ多くを救うため、出来るだけ多くの人間にこの医学書を読んでもらいたいとのことだった。


 ひいては、そのために書の質を高めたいから是非ご意見を賜りたい、と記されている。


「あの男らしい」


 曹操は張機の善良そうな顔を思い浮かべ、楽しそうに笑った。


 仕官はすげなく断られたわけだが、悪い印象は皆無だ。そんなもの持ちようがない。


 あの男はきっと文面通り、出来るだけ多くの人を救いたいがために執筆活動に情熱を燃やしているのだろう。


華佗(カダ)を呼べ」


 曹操は部屋の外に向かって声を飛ばした。


 廊下に控えていた従者から了解の返事が帰ってくる。


 それからしばらく書類仕事をして待っていると、その男はやってきた。


 現れたのは一点の曇りもないまっさらな白髮、白髭の老爺だ。低い背も、細い腕も見るからに年老いて頼りない。


 ……のだが、不思議なほどにその背筋はきれいに伸び切っていた。杖もなく、凛とした足取りで部屋に入ってくる。


 目の色も老人のそれではない。光を帯びて、力があった。


 その目を曹操へと向けた後、プイとそっぽを向いた。


「迷惑じゃ」


 そう言ってから思いっきり舌打ちしてみせた。曹操に聞こえるよう、わざと大きな音を立てた。


 曹操のこめかみに青筋が立つ。


「……華佗よ。貴様は相変わらずだな」


 苦々しくそう言ってから、舌打ちを返してやった。


「相変わらず私を怒らせるのが好きなようだ」


 華佗はその言葉に軽く鼻を鳴らす。


「ふん。その言葉、そっくりそのまま返してやるわい。仕事中の医師をいきなり呼び出しおって」


 華佗はそれを怒っていた。


 この老人は医師であり、その仕事の真っ最中に急遽呼び出されたのだ。それではっきりと迷惑だと伝えたに過ぎない。


 しかし曹操は自分に非があるとは思わなかった。


「診療中なら私も多少の遠慮をしただろうが、今日は役所で例の体操を教えていただけだろう。弟子に任せればいいだけの話だ」


 華佗はただ病人を診療するだけでなく、そもそも病を得ないようにするための体操を勧めている。


 曹操の記憶では、今日は役所内を回ってその体操を教授しているはずだった。華佗に救われた役人の一人が予防医療という発想に心酔し、企画したものだという。


 だからちょうど良いと思って曹操は呼び出したのだが、やはり華佗には不満だった。


「相手の意見も聞かず、一方的に命じるのが迷惑でなくて何じゃ。誰にも様々な都合というものがある。それを端から無視するのは傲慢というものじゃよ」


 全くの正論だろう。


 しかし曹操は権力者だ。


 車騎将軍、兗州(えんしゅう)牧、司空という、これ以上ないほどの地位にいるし、今は帝を保護しているから相当な力がある。


 腹が立ったというだけで医師の一人くらいを殺しても、何の問題にもならないのだ。


 だから漢の国において曹操に対してこんなことを言える医師などいない。ただ一人、華佗を除いて。


「怖いもの知らずも相変わらずだな」


「うるさいこの小男め」


 ビキビキっと、曹操のこめかみにさらなる青筋が立った。


 曹操は美丈夫ではあるが、背が低い。しかし、やはりそのことをわざわざ揶揄してくる恐れ知らずなど華佗を除いていないのだ。


「こいつ……」


「なんだ、小男くらいの罵倒では憤死せなんだか。ならば色情狂とでも罵ってやればいいかな?右腕にそれだけの傷を受けても傲慢さは消えぬようだな」


「……っ!」


 曹操は吐き出しかけた罵詈雑言をグッと飲み込んだ。


 そして無意識に右腕を引く。そこには白い包帯が巻いてあった。


 曹操はこの少し前、女が原因で戦に敗れた。右腕の傷はその時に負ったものだ。


 簡単に経緯を記すと、曹操は降伏した敵将親族の未亡人を妾にした。しかしそのことで恨まれた曹操は、その将から反旗を翻されることとなってしまった。


 女にかまけて恨みを受け、女にかまけている間に奇襲を受けて敗れたのだ。


 この敗戦で曹操は息子や腹心を失い、自らも右腕に大怪我を負って命からがら逃げ延びた。


「ふん……この腕の治療に免じて命は助けてやる」


 華佗の外科治療の腕は凄まじい。


 曹操の腕は化膿して酷いことになっていたのだが、華佗が処置してから数日できれいになった。


 負傷兵たちも華佗が診てくれれば死亡率が下がる。麻沸散という薬で眠らせて開腹手術までやってのけるのだから、周囲からは神医ともてはやされていた。


 曹操も人材として心から素晴らしいと思っているのだ。ただ一点を除けば。


「……このクソジジイ!!」


 曹操がいきなり面罵したのは、華佗が思いきりアッカンベーをしてきたからだ。


 絶妙に腹が立つ顔だ。老人が、まるっきり子供のようなことをやってきた。


「殺されたいのか!?冗談で言っているのではない!本当に殺すぞ!」


「おうさ、殺せ。じゃが逆に聞くが、お前さんには儂がこれ以上生きたいように見えるか?」


 そう言われ、曹操は続く言葉をはたと止めた。


 華佗の年齢は不明だ。しかし故郷の者に尋ねると、軽く百は超えているはずだと答えるらしい。


 本人はもう覚えていないと言うし、華佗よりも長生きしている者はいないので確かめようもない。


(まさか、本当に百を超えているのか?)


 それが現役の医師で、しかも当代の誰よりも高等な外科処置を施す。ありえない。


 曹操は目を細め、あらためてその姿を上から下まで眺めた。もしこの老人を写実的に描かせたら、誰もが仙人の図と言うだろう。


(まさか……まさかだが……本当に仙人なのでは?)


 不老不死の仙人が生きるのに飽いて死を求めている。


 そんなことを考えてから、自分らしくない推量を全否定した。


 ただ一点思うに、確かに殺されたくない人間が取れるような言動ではないだろう。


「……死にたがりをわざわざ殺してやるほど私は親切ではない。だが医学の発展を手助けしてやろうと思う程度には親切だ。これを読め」


 曹操は丸めた木簡を放り投げた。


 適当に放られたのに、華佗は片手で軽く受け止めた。いよいよ百を超えているとは思えない。


「何じゃ、これは?」


「医学書の草稿だ。知り合いの医師から意見を求められている。読んで、加筆修正すべきことがあれば書き込んでやれ」


 華佗は胡散臭そうな目を曹操へ向け、それから木簡へと目を落とした。


 無言でそれを読み進める。


 初めは流し読みしていたのか、かなり速い速度で目が動いていた。


 が、しばらくするとその目はゆっくりになり、何度か読み返している様子すら伺えた。


「どうだ?」


 曹操は尋ねたが、華佗は答えない。


 ただただ木簡を読み進め、一気に一巻を読み終えた。


 その後なにか言うかと思ったら、無言のまま曹操の仕事机に並ぶ草稿の束の前に座った。それらに細い指を這わせて撫でた後、二巻を手に取って読み始めた。


 華佗はさも当然だと言わんばかりの顔で、曹操の仕事机のど真ん中を占領している。


 曹操はそれを見て、またイラァッとした。


(クソジジイめ……!!)


 しかし、何を言ってもさらなる苛立ちを重ねるだけな気がする。


 憎たらしい白髪を睨むだけ睨み、黙って隅で己の仕事に手を付け始めた。


 どれくらい時間が経ったか、曹操が集中で華佗への怒りを忘れかけた頃、華佗は最後の巻を読み終えて卓へ置いた。


 それから深いため息とともに、万感の思いでつぶやく。


「これは、本当に人を救える書じゃな」


 曹操は少し驚いた。


 口を開けば憎まれ口しか叩かない男が、ここまで素直に何かを褒めるとは思わなかった。


「それほどか」


「それほどなものか。今のような賛辞では、この書の価値は欠片も表せん」


 華佗は小さく首を横に振った。興奮しているのか、その首は軽く赤みがかっている。


「これを書いた人間だが……」


「張機という」


「張機はかなり高齢の医師なのか?そうでなければ、相当な量の医学書に目を通していると見えるが」


「後者だな。自宅には圧倒されるような量の医学書が積み上がっていた。奥方から何とか言ってくれと泣きつかれたよ」


「それはいい」


 華佗は顔のシワを増やして笑う。


「やはりそうか。この草案に書かれている症状や体質の類形はあまりに豊富過ぎる。一人の医師が一生をかけてもこれだけの経験知を得るのは難しいだろう」


「なるほどな。書とは偉大だ」


「お前さんの言でもそれには大いに同意じゃな。しかもこの張機という男、情報の整理が大の得意らしい。美しく体系化されている」


「貴様にそこまで言わせるとは、本当に大した出来なのだな」


「うむ」


 華佗はうなずいてから、部屋の中を見回した。


 そして適当な袋を見つけると、いきなりその中身を床へぶちまけた。


 空になった袋の中へ、当たり前のように草稿を入れ始めた。


「おい……」


「一度持って帰ってから写しを取り、その後に意見を書き添えよう。いいな?」


 抗議を無視された曹操は華佗を思い切り睨んだが、効果がないことはすでに分かっている。


 仕方がないので曹操も己の苛立ちを無視しようと努力した。


「……構わんが、それはまだ草稿だ。わざわざ写さなくても完成したらまた送ってくれると思うぞ」


「誰が完成を保証してくれる?お前さんらが戦なんぞという阿呆らしいことをしとるから、これを書いた人間だとて明日にも死にかねんじゃろうが」


 華佗は言いたいことを言い、袋を抱えてさっさと扉へ歩き始めてしまった。


 曹操には挨拶もないどころか、目も向けない。


 車騎将軍、兗州牧、司空に対して無礼にも程がある。


(しかし……すでにこれくらいでは腹が立たなくなっているな。いや、これ以上は腹の立てようがないと言うのが正しいか)


 そう思った曹操だったが、直後に己の心の声を訂正することになる。


 一度消えた華佗は扉から顔だけ出し、片手をビッと上げてきた。


「良いものをもらった。お前さんも()()()()役に立つな」


 要らぬ部分だけをやたらと強調した言い方に、曹操の苛立ちは限界を突破した。


「とっとと失せろ!!クソジジイ!!」


 憎たらしい顔面目がけて手元の木簡を投げつける。


 華佗は若者のような身軽さでそれをかわし、高笑いを上げながら去って行った。


「いつか……いつか本当に殺してやるからな」


 曹操は荒い息でそうつぶやいたが、そうしたところであの老人を喜ばせるだけな気がする。


 それを思うと曹操の苛立ちは向けられるところがない。


 仕方なく握っていた筆をへし折り、申し訳程度に怒りを発散させた。

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