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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景29

「張機殿、今日までご苦労だった」


 劉表は酒杯を掲げ、労いの言葉を乾杯の合図にした。そしてクッと飲み干す。


 張機もそれに習い、手元の酒を一息に飲み下した。


「劉表様こそご苦労様でした。こんな低能の部下を使うのは大変だったでしょう」


「そんなことはない。ただ、辞めたい辞めたい言われながら働かせるのは確かに大変だったかも知れないな」


「アハハ、でも言い続けてみるものですね。こうしてようやく辞めさせていただけました」


 張機は官を辞し、野に下ることを劉表に認めてもらった。


 それで今日は送別会と称して二人だけで飲んでいるのだった。


 二人の前には酒食が並んでいるが、あまり豪勢なものではない。


 乱世でものが少ないということもあるが、この二人はそんなものを用意して飲み交わすような間柄ではないのだ。


 君臣として働いてきたわけだが、その経緯が普通ではない。昔約束したように、友人同士でもあるのだ。


 だからお互いが目の前にいて、安物でも酒とつまみがあればそれだけで心地良い飲みになるのだった。


「さすがの私もこれ以上は慰留できないな。張機殿は実家が大変な時にも任地を離れず頑張ってくれた。辞めるにも切りの良いところまで勤め上げ、しっかりと引き継ぎもしてくれて」


 劉表は本当に感謝していた。上司からすればこれ以上ないほどありがたい辞め方だ。


(本当はすぐにでも辞めて実家に駆けつけたかったけど)


 それが張機の本音だ。


 しかし太守の職責はおいそれと投げ出せるほど軽くない。


 だから人をやって張伯祖に頼み、治療内容を改善させることを試みた。


 張伯祖はすでに相当な高齢だが、隠居先の山中から出てきて弟子たちを一喝してくれたそうだ。


 引退後の老人から叱られ、腹の立つ者もいただろう。


 しかし、実際に彼らの治療法では他所よりも致死率が高かったのだ。そういう事実を元に叱責されては、弟子たちも小さくなって非を認めるしかなかった。


 そしてその後は治療方針を改め、死ぬ人間を随分と減らすことができた。新しい治療内容は張伯祖を通して張機が勧めたものだったので、張機として親族を守れた気がして少しだけ心が安まった。


 そして今現在は、疫病の流行は落ち着いている。免疫と季節とが感染を抑え、ようやく張機は退職できた。 


「おっしゃる通り、引き継ぎはしっかりと済ませましたから安心してください。そもそも僕よりも後任の方がずっと優秀なんですから、長沙郡のことは何も心配いりません」


 そう言う張機はどことなく誇らしげで、劉表は苦笑してしまった。


「張機殿の幼馴染推しは相変わらずだな」


 長沙郡の太守後任として選ばれたのは張羨だ。


 以前に張機がそれを提案していたことがあったが、数年越しで実現した。


 県令として、不安定な南部で見事に民心を得ていた実績を評価されたのだ。もちろん改めて張機からの推薦もあった。


「それは推しますよ。あいつは何でも出来ます。何だってやれてしまうんです」


 そしてその背中を見ながら走っていたから、自分も走り続けられたのだ。


 そんな感謝とともに、張機は何度もうなずいた。それから上機嫌で酒に口をつける。


 劉表としても、確かに有能な人間だと分かるから太守にしたのだ。


 ただし張機ほど手放しに褒めることはできなかった。片頬を少しだけ吊り上げる。


「そうだな。あれで独断専行がなければもっと良いのだが」


「独断専行……ですか」


「張羨殿は有能だが言うことを聞かない。この評は私と私の周囲の人間の間ではすでに確定しているものだ」


「……まぁ確かに、そういうところもありますが」


 張羨は何か命じられたり、修正を求められても自分の中で理に適っていなければ聞く耳を持たない。


 どこがどう理に適っていないかを長々と丁寧に書き連ね、ご親切にも兵法書などの写しと共に返書してくるのだ。


 教師が生徒を教え諭すような文章に、読んだ人間は皆閉口した。いくらそれが分かりやすくとも、送り先は上司なのだ。


 ただし、逆に理に適っていると思えば素直に言うことを聞く。しかもその指摘をひどく称賛し、感謝する返書を送ってきた。


 そういったところから、他意あって言うことを聞かないわけではないのだということを理解はされている。


 しかし、こんな男が好かれるかというと話は別だ。


「張羨のことを嫌ってる人、結構多いんでしょうね」


「ああ……そうだな」


 短く答えた劉表の反応を見て、劉表自身も好きにはなれないのだろうとよく分かった。張機に気を遣ってはっきり言わないだけだろう。


 張羨が反抗勢力である宗賊と付き合い、一緒になって劉表の悪口を言っているという話も上がってきていた。張機は弁護しているが、腹を立てている側近もいる。


 とはいえ、それでも劉表は張羨を長沙郡の新太守に選んだ。これは張羨が優秀なだけでなく、劉表の器の大きさゆえだ。


 好き嫌いで仕事を任せていたら(ろく)なことにならない。それを理解し、実行できる上司が世の中にどれほどいるか。


「劉表様が張羨の主君で本当に良かったと思います」


「本人はそう思ってくれるかな?」


「そう思うべきです。僕の方からも言い聞かせておきますよ。劉表様でなかったら、干されて左遷でもおかしくありません」


「ふむ……それはどうだろうな。私自身は、私が使い方を間違えたのではないかと考えているのだが」


 劉表は顎を撫でながら首を傾げた。


 これはしばしば思ってきたことで、視線を彷徨わせてその思考を手繰り寄せる。


「使い方を?」


「県令などではなく、側に置いて知恵袋にすべきだったのかもしれな いと思うのだ。言い方はなんだが、張羨殿は下手に何でも出来てしまう。知識も知恵も凄まじく、誰かに教えを請わなくても自分一人で完結させられる。そういう自負のある人間を地方官にしてしまえば、全部自分でやるようになるのは仕方ない」


 太守も県令もそうだが、その行政単位を治める長に当たる。裁量権が大きく、自分の判断で様々なことを実行することになる。


 何でも出来る人間をそこに配置するのは基本的に妙手だ。丸投げにできるということだから、上からすれば楽でいい。


 しかし何か命じた時、出来るという自負心ゆえに『それは違う』『分かってないな』と思われるのも仕方ないことだろう。


(僕なんかは『まぁ命令だから』って言われた通り実行するんだけどね)


 それは張機が行政官としてさしたる自負心もないからだ。


 もちろん現場からの意見は言うし、問題点があれば指摘もする。しかし概ねは命令に従う。


 一方の張羨は出来てしまうがゆえに、その自負心ゆえに自分が正しいと思えば譲らない。


「なるほど、おっしゃる通りです」


「だが気づいたところで今さらだな。今さら近くに置こうとも、私の側近たちはすでに張羨殿への印象を定めてしまっている」


 こうなると側近にもしづらい。


 ならば丸投げ覚悟で郡一つ任せることにしたのだった。


「ですがまぁ、あいつなら放っておけば成果を上げるので」


「そうだな。その点では信頼している。むしろ勉強させてもらうつもりでその手腕を見ていよう」


(嫌いなものからでも学ぶ、か……やっぱり劉表様は器が違う)


 張機は改めてそう思った。


 張羨はいつか聞いた通り、合理的な世の中を目指して非合理を排除している。


 それはそれで正しいことだが、劉表はきっと合理、非合理あわせて飲み込めるのだろう。そう出来るだけの器の大きさがあり、為政者に必要なのはそんな器ではないかと感じた。


(ま、僕にはもう関係ないことだけど)


 フッと力を抜き、張機はこの手のことで頭を使うことをやめた。無駄な労力だ。


 自分はすでに官職から離れている。もはや政治だの行政だのと悩むだけ無駄なのだ。


 そんな気持ちで箸を手に取り、つまみに口に運んだ。


 美味い。ただそれだけを思いながら咀嚼した。


 その様子に劉表は目を細める。


「羨ましいな」


 何が、とは劉表は言わなかったが、張機には分かる。


 少し意地悪く笑い返した。


「いいでしょう。もう僕はどんな政治談義をしても他人事なんですよ?」


 劉表はくぅ〜、と今度は悔しそうな顔になった。


「本当に羨ましい。私も早く悠々自適になりたいものだが……」


「早くというか、劉表様の場合は一生無理でしょう。この乱世とお立場を考えると」


「……やはりそう思うか」


 劉表はガックリとうなだれる。


 その様子に張機は笑い声を上げた。


「そうですね。ですが僕だってただ悠々自適に暮らすわけではありませんよ。退職した一番の理由は、医学書を書くためですから」


 張機はそのために官を辞した。


 以前からただの医師に戻りたいとは言っていたが、その時とは少し気持ちが違う。


「信頼できる、実証的な医学書があれば病で苦しむ人をずっと減らすことができるはずです」


 その完成を誓い、辞職を申し出たのだった。


 受け取った辞職表は劉表の記憶にもよく残っている。燃えるような字でもって決意がしたためられていた。


 稀に見る、気迫の伝わってくる筆致だった。


「張機殿の親族は半分近くが病で亡くなったということだったな。痛ましい限りだ」


 張機は重々しくうなずく。


「戦乱の影響もあり、ここ十年ほどで親族の三分の二が亡くなりました。その七割の死因は傷寒です。ですから医学書は傷寒を中心に書こうと考えています。もちろんそれ以外もまとめますが」


「期待しているぞ。期待ついでに頼みたいことがあるのだが……」


 そう言われ、張機ははっきりと嫌な顔をした。


 せっかく面倒ごとから開放されると喜んでいるのに、何を頼まれてやるものか。


 そんな気持ちがそのまま顔に出ていたので、劉表は可笑しそうに箸を横に振った。


「そんな顔をしないでくれ。別に政治的なことを頼むわけではない」


「はぁ……じゃあ何ですか?」


「私の主治医になって欲しいだけだ。この歳になってあちこちボロが出てきている。誰かに体を預けるなら、友に預けたい」


 張機は嫌な顔を一変させ、嬉しげな顔になった。


 実は張機もそれを狙っていたのだ。


「僕にとってもありがたい話です。劉表様の主治医なら医学書も取り寄せ放題ですから」


「なんだ、その笑みは医学書欲しさか。友に頼られて嬉しいのかと勘違いしてしまったよ」


「それは嬉しいですよ。四割くらいはその嬉しさです」


「過半にも満たないではないか」


 二人はそんなことを言い合い、大声で笑った。


 ひとしきり笑ってから、張機はスッと真面目な顔になる。


「四割でもかなり多いはずですよ。これから書く医学書が救う患者は何千人、いや何千万人を軽く超える予定ですから」


「なるほどな、それは凄まじい医学書だ。しかし大した自信だな」


「自信ではありません。決意です。そんな医学書を完成させると誓いました。父に、一族の魂に」


 張機は酒杯に目を落としてそう答えた。


 揺らめく流体の光に父の涙を思い出す。


 父の死は自分に強い使命感をもたらした。あれはきっと天命だ。


 ならば自分は全力でもってこれを成し遂げねばならない。そうでなければ父の死に対して申し訳が立たないからだ。


 劉表は一人の男の決意を前に、身震いする思いがした。出陣する武将を前にしてもこれほどの気迫を感じたことはない。


(これほどの大丈夫だったか……辞職を認めたのは少々早計だったかな?)


 そんなことを考えてから、友の幸せを思ってその思考を霧散させた。

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