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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景18

 宦官の対抗勢力が弾圧された党錮の禁は十八年の歳月を経てようやく終結した。


 禁が解かれ、清流派の士大夫たちは再び官職に就けるようになった。


 これは宦官と清流派とが和解した結果ではない。黄巾の乱という大規模な反乱が起った結果だ。


 清流派が黄巾党に与することを防ぎ、併せてその有能な人材を活用すべく禁が解かれた。


 大局の見えない宦官の一部はこれに反対したが、国存亡の危機を前にこの政策は通った。


 ちなみにこれを主導したのは皇甫嵩(コウホスウ)呂強(リョキョウ)という二人の官吏なのだが、意外なことに呂強は自身が宦官だ。


 考えてもみれば当たり前のことだが、宦官の中にも腐ったのと腐ってないのがいたということだ。


 ただし、腐った方の宦官は身内の裏切りを許さなかった。呂強は『清流派とともに反乱を起こすつもりだ』と誣告(ぶこく)され、結果自殺してしまった。


「こんな恐ろしい場所にまた帰って来てしまったよ」


 と言って笑ったのは、劉表(リュウヒョウ)だ。


 張機に官吏復帰の祝いを述べられて、皮肉っぽい返事を返した。


 とはいえ、その顔は言葉ほど皮肉めいてはない。晴れやかな笑顔で、八年にも及ぶ逃亡生活は愉快なものではなかったのだろうと察せられた。


 ただし、恐ろしい場所というのは正直な認識だ。だからそこでずっと働いてきた張機を気遣った。


「張機殿も身の危険を感じることなどあったのではないかな?こうして無事に再会できて本当に良かった」


「あはは……ありがとうございます。自分はそこまで怖い思いをすることはありませんでしたが」


 実際のところ、張機はどの勢力に与しているということもないから身の危険を感じることはなかった。


 ただし今の張機は劉表の屋敷までやって来て復職の祝いを述べている。以前に雪梅を押し付けられた部屋で、八年ぶりに対面していた。


 こういうことが広まれば、宦官の対抗勢力と思われるかも知れない。


 劉表の立場は変わらず清流派だし、しかも復職は大将軍何進(カシン)の招きによって実現している。何進は宦官と対立する外戚(皇后の親族)の急先鋒なので、より矛先を鮮明にした形になった。


「劉表様、ご無沙汰しております」


 会話に割り込むように声を上げたのは、雪梅だ。


 張機と共に劉表への挨拶に来ていた。八年前と同じ部屋で、八年前と同じ三人が揃っていることになる。


「主人の立場に関してですが……」


「まぁちょっと待て、ちょっと待て」


 劉表は手を顔の前に上げて大きく振った。その顔は笑っている。


 自分の使用人だった娘なので、主人といえば自分だったはずだ。しかし今は張機のことを主人と言う。


 八年経った。


 八年は男女が新婚を越え、当たり前の夫婦になるのに十分すぎる時間だ。


 雪梅はもうすっかり張機の妻で、本人は夫を主人と呼ぶことに何の違和感もない。


「雪梅、いきなり本題に入るやつがあるか。久方ぶりなのだから、もう少し無駄話してもいいだろう」


「失礼いたしました」


 雪梅は慇懃に頭を下げた。


「文のやり取りは頻繁でしたので、つい」


「張機殿を前にそんな堂々と言っていいことか」


「ええ、主人はそういう点も受け入れてくれてますので」


 言われた張機は苦笑いで首を傾げた。


「いやぁ……受け入れてるっていうか、成り行き任せなだけですけど……」


「ハッハッハ、張機殿の人柄がよく分かるようだ。失礼かもしれないが、あまり政界向けの人ではないかもしれない」


「そう、そうなんですよ。劉表様に目を付けていただいてなんなのですが、もう官職を離れて医師に戻りたいというのが本音です」


 これは冗談でもなんでもなく、正真正銘の本音だ。


 ただし、すぐにそれをしない方が良さそうな事情もある。


 劉表もそれを口にした。


「しかし今は反乱によって世が荒れている。下手に下野すると身の危険があるぞ」


 黄巾の乱は漢の全土に広がる勢いを見せている。


 首都洛陽にいればまだ安心だが、郷里に帰って安全かどうかなど分からない。


「劉表様のおっしゃる通りです。落ち着くまで役人をやってるしかなさそうですね」


「ならば、しばらくでも力を貸してくれないか?宦官の好きにやらせては今のような反乱ばかりの世の中になる」


 これはつまり、正式に清流派の一員になって欲しいという要望だ。


 今までは雪梅が劉表へ情報を送っていただけだったが、さらに踏み込んで自発的な協力を仰いだ形になる。


 これに対して張機は了承も拒絶も口にせず、曖昧に笑って雪梅の方を見た。


 見られた雪梅は先ほど止められた話を再開する。


「主人の立場ですが、清流派として旗幟を鮮明にするのは好ましくないと考えております」


 劉表はその提案に片眉を上げた。


 そして少し間をあけてから先を促す。


「……と、言うと?」


「劉表様は主人の一番の力はなんだと思われますか?」


 劉表は雪梅の反問に即答した。


「それは、医師として力だろう」


 今しがた、政治家には向いてなさそうだという話をしたばかりだ。


 その一方で医師としては相変わらず評判が良い。張機の医術は都の豊富な医学書を吸収し、さらに深いものになっている。


「私もおっしゃる通りだと考えております。しかし医師としての力を発揮するには、清流派と思われてはなりません」


 劉表は賢い男なので、雪梅の言いたいことがすぐに理解できた。


「なるほどな。清流派として認識されてしまえば、宦官からお呼びがかからなくなるか」


「今現在の主人は宦官、そして宦官に近しい官吏からも頼りにされております。主人を清流派にすることは、そういう便利な情報源を一つ失うことに他なりません」


 その点は了解したが、劉表は一つはっきりさせておきたかった。


「……分かった、いいだろう。今後も張機殿を清流派として扱うことは、表立ってはやめよう。ただし我々に協力するという一言はもらいたい」


 そう考えるのは当然で、張機の立場は清流派の間者のようになる。


 意思表明くらい聞いておいたほうがいいだろう。


 劉表はそのつもりで張機のことをじっと見据えたが、本人が口を開く前に雪梅がまた割り入った。


「そうすると顔に出ます。バレます」


 さすがに劉表は閉口した。


 そこまでか。そこまで政治家に向かないのか。


「はい。そこまで政治家に向いていないのです」


 雪梅は元の主人の心情を正確に読み取り、正確に答えてやった。


 劉表は苦笑するしかない。


「……分かった。仕方ない。では張機殿は今後も中立な立場として官吏をやってくれ。そこで得られた情報を雪梅が家で聞き、勝手に流すという形だな」


「この人が政治家としてポンコツである以上、それが最善かと」


 その言い様に、劉表はさすがに可笑しくなった。


「ハッハッハ!そこまで言えるほど仲の良い夫婦になったか!」


 ひどい言い草で話がまとまった。しかも当の張機本人はほとんど喋っていない。


 そのことに頭をかきつつも、張機は話の終着点には安堵していた。


(雪梅、上手くやってくれたな)


 この流れはあらかじめ雪梅と話し合い、狙っていこうと決めたものだった。


『宦官と清流派、どちらにも付かないのが一番安全です。特にあなたは両方に恩を売れるのだから、無理にどちらかに付くことはありません』


 雪梅は夫に対し、そう助言してくれた。


 元々は劉表の間者だった女だが、八年の夫婦生活はこんな考えをもたらす程度には長い。それに現実問題として、自分の生活を支えてくれるのは張機だ。


 それに何より、張機との間には子が三人もできた。三人とも娘で、張機はよく可愛がってくれる。


 子育てを経た夫婦は戦友だ。雑仕女の間者をやらせていた元主人よりも、戦友の方が大切というのが雪梅の本音だった。


 とはいえ、もちろん劉表とは対立すべきではないので今後も関係は続けていく。


 しかし夫の安全を第一に考えたいというのが女の打算で、そこに後ろめたさなどあるわけが無い。


 むしろこの点、人の好い張機の方が劉表に申し訳なく思った。


「あの……そういうことですが、自分は個人的に劉表様を尊敬してますので」


 せめて私的な好意だけは伝えておこうと思った。それは劉表の安心に繋がるだろう。


「尊敬?私は好意を持たれるほどのことをしてあげられていないが」


「自分にではなく、ご友人にされたことに関してです。劉表様が党錮の禁の対象になったのは、ご友人の逃亡を助けたからですよね?これは自分にとって、心からの尊敬に値しますることです」


 劉表は張倹(チョウケン)という友人をかばって罪を得た。


 その行いは、同じく友人思いの張機には感じ入るものがある。だから尊敬しているというのは世辞ではなく、完全に本音だった。


 劉表自身もそういう人物こそが信頼に足ると考える男だ。ここを称賛してくれた張機に好意を持った。


「そうか。では私は張機殿のことも派閥関係なく、友人だと思おう。むしろ清流派に属さないのなら友という関係こそしっくりくる。いいだろうか?」


「ゆ、友人ですか?嬉しい話ですが、畏れ多い話でもありますね。皇族の劉表様と自分が友人というのは……」


「そんな風に(かしこ)まらないでくれ。張機殿も医師などしていると、医師という立場に畏まられて上手く話してくれない患者などいるだろう?それは少し寂しいことだ」


 その例えは張機にとって絶妙で、劉表の気持ちが理解できた気がした。


 生まれながらの高貴な血というのも、幸せなことばかりをもたらすわけではないのだろう。


 だからそれ以上は遠慮せず、劉表を友だと思うことにした。


「では、本当に友人だと思わせていただくことにします」


「嬉しいな。正直に言うと、清流派が一人増えるよりも友人が一人増える方が嬉しい」


 そう言って見せた劉表の笑顔は不思議なほど幼くて、大柄な体躯と不釣り合いな気がした。


 張機にはその不整合さが愉快に感じられ、心の壁がずっと低くなった。


 そしてこの時の会話通り、二人はその後友人として付き合うことになった。


 清流派と思われないようにするため会う頻度は抑えたが、雪梅を間に入れた文を通して密な繋がりを持った。


 その関係が張機にもたらしたものは劉表からの信頼、派閥にとらわれない人脈、そして宦官大粛清における、生命の危機だった。

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