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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景8

 張機(チョウキ)張伯祖(チョウハクソ)に弟子入りしてから八年が経った日、ちょうどその弟子入り志願した土手の道を張機は走っていた。


 今日はとても大切な日なのに、遅刻しそうになっている。


 あの日のように空は曇っていたが、結構な速さで走っているから汗が吹き出していた。


(結婚式に遅れるなんて、失礼もいいところだ)


 今日は結婚式で、式が行われる玉梅(ギョクバイ)の家へ向かっているのだ。


 玉梅は結婚する。その結婚相手は張機ではない。


 張羨(チョウセン)だ。


「大切な幼馴染二人の結婚式なんだから、ちゃんと祝福してあげないと」


 張機はわざわざ口に出してつぶやいた。まるで誰かに言い聞かせているようだった。


 二人が大切な幼馴染であることは疑いようもない。そして自分は二人のことを祝福したいと思っている。


 思っているのだ。


「おめでとう……張羨……玉梅……」


 今ここで言わなくても、練習などしなくても、こんな簡単な台詞は難なく言えるはずだ。


 しかし張機は口中で何度も繰り返しながら走った。


 大汗をかきながら玉梅の家に着くと、門の向こうで白い薄布が風に吹かれてなびいた。


 まるで天女の羽衣のように見えたそれは、玉梅の花嫁衣装だった。


「綺麗だ……」


 おめでとう、と言うはずだった張機の口から出てきたのは、そんな真っ正直な感想だった。


 その声に玉梅が気づき、こちらを振り向いてくれた。


 化粧をしていても小さなそばかすが見て取れる。ニコリと笑い、そばかすが揺れると張機の胸はさらに跳ね上がった。


「本当に、綺麗だ」


 その再度のつぶやきに答えてくれたのは、玉梅ではなかった。


「綺麗だろ?お前が捨てた花嫁は」


 声のした方を見ると、張羨がいた。


 玉梅に見惚れて気づかなかったが、初めから隣りにいたのだ。


「いや、捨てたっていうか……」


 張機は額の汗を拭ってから首をかいた。そして苦笑する。


 張羨はそんな様子を愉快そうに眺めている。今日まで何度も同じいじり方をしてきたが、今日が一番面白いと思った。


「だってお前、玉梅を捨てて医師になる道を選んだんだろう?それで仕方なく俺が拾ってやったわけだ」


 その言い草に、新婦が新郎の肩を殴った。


 女だてらに兵法を修めているから結構いい音がした。


「いったいな!」


「それって新妻に言う台詞?っていうか、むしろ私の方が仕方なく張羨で我慢してやってるのよ。婿にしてあげるんだからありがたく思いなさい」


「はいはい、そうだな。ありがたく婿入り教師になるよ」


 張機はそんな二人のやり取りに笑っていたが、内心はちゃんと笑顔を作れているか不安だった。


 本来ならあそこにいるのは張羨ではなく自分だった。自分が玉梅と結婚していたはずなのだ。


 しかし五年前、その権利を放棄したのは他ならぬ張機自身だ。


 だから張機は心の中だけで歯を食いしばり、その時でっち上げた己の夢を心の中で叫んだ。


(僕は医師として、たくさんの人を救うんだ!!)


 五年前、その嘘の夢を張伯祖に熱く語った。


 それから父に語り、そして父を伴って蔡幹のところへ行った。


 父も蔡幹も初めは驚いたし、止めもした。


 しかし張機は強硬に、何を言われようとも絶対に己を曲げずに頼み込んだ。


『僕は今回のことで医術というものに心から感動しました!どうしても医師になって多くの人を救いたいんです!お願いします!お願いします!』


 床に手をつき、父と師を睨むように見上げながら腹の底から声を出した。


 この子が産まれて今日まで、父はこんな息子を見たことがなかった。


 だからよほどの覚悟なのだろうと話し合い、張伯祖への弟子入りを許可してくれることになった。


 ただそうなると、玉梅との婚約も解消しなければならない。その父である蔡幹の私塾を継ぐ前提で婚約がなされているからだ。


(僕との婚約が破棄されて、次にお鉢が回るのはまず張羨のはずだ。張羨は私塾一の秀才だし、何より親同士の仲がいい)


 そう予想しての行動だったのだが、果たして現実は張機の予想通りになった。


 張羨と玉梅との婚約が成ったのだ。


 張機は己の最愛の人と親友が結ばれるため、医師になる道を選んだ。


(後悔していない……僕は後悔していないぞ……)


 張機は悔恨の思いが湧き上がるたび、自分で自分に言い聞かせた。


 何度も言い聞かせることになった。そうさせる玉梅と張機を何度も目の当たりにしたからだ。


 驚く二人の顔を見た時、恥ずかしがって微妙な雰囲気になった二人を見た時、次第に慣れてじゃれつくようになった二人を見た時、木陰に隠れて抱き合っている二人を見た時。


 何度も何度も、繰り返し『後悔していない』と自分に言い聞かせた。


 二人とはその後も同じように仲が良いのだが、張機の中ではそれまでと明らかに違う。


(もう三人じゃなくて、二人と一人なんだ……)


 そう思うと、心臓を細糸で締められるような孤独感に苛まれた。


 しかし、それでも張機は後悔を認めてはいけない。認めないために、やるせなさを勉学へと向けた。


 それまでも努力のできる少年ではあったが、ただの頑張りと若者の欲求不満とでは爆発力の桁が違う。


 張伯祖から渡された大量の医学書を穴が空くほど読み、書き写し、さらに系統立てて整理した上で、自分なりにまとめて書き直した。


 それを張伯祖の診療に付き従いながら毎日行うのだ。寝る間も惜しみ、暇さえあれば書を持つか筆を持つかする生活になった。


 全ては己の後悔を否定するためだ。


『私は初めて満足のいく弟子を得られたよ』


 張伯祖はそう言って喜んでくれた。見る間に知識をつけていく張機に大満足のようだった。


 初めは不安だった父もこの熱中具合を見て、婚約破棄という選択が正しかったのだと満足そうにうなずいてくれた。


 そして八年後、張機は弱冠にして経験豊かな医師にも負けないほどの知識と技術を有するに至った。


 今ではほとんど一人前の医師として、張伯祖の代診すらする。


 治療の手際こそまだ張伯祖に負けるものの、知識はそれを凌ぎかねないほどになっていた。


 今日、結婚式に遅れたのも急な怪我人の治療で抜けられなかったからだ。


 軍の訓練中に事故で胸を大きく切った兵がいて、その傷を縫って薬を用意する間に式は終わってしまっていた。


「二人とも、遅れてごめん。あと……おめでとう」


 張機は二人にそう言えたことで、少し安心することができた。


 自分は親友として、言うべきことを言えた。


 それは八年前の選択を肯定する上で、八年間の後悔を否定する上で、とても大切なことだった。


「ありがとう。遅れてでも来てくれて嬉しいよ」


 玉梅は屈託のない笑顔で答えてくれたが、それがまた張機の胸に刺さる。


 その笑顔を独り占めできる張羨は、いきなり張機の肩を殴ってきた。


「いった!何するんだ?」


「いや、こんな風に殴られなくて済むお前が羨ましくてな。お前は夫を殴らない妻を選べよ」


 そう言ってから笑う張羨の肩を、玉梅がまた殴った。


 そんなやり取りが張機には羨ましくて仕方ない。


(僕は肩を殴ってくれるような妻がいい)


 張機はそんなことを思ったが、ずっと想い続けてきた玉梅の代わりになる女などいない。いるわけがない。


 だから張機はその後も結婚する気にならず、さらに数年を医業に熱中して過ごした。


 患者を診て回り、技術を磨き、医学書を読み漁り、それをまとめる。


 患者が良くなったり喜んでくれたりするのは嬉しいことだったが、張機の心の奥底には如何ともし難いやるせなさが淀み続けた。


(自分はこうやって、やるせない気持ちを診療にぶつけながら年老いていくのかな……)


 そんなふうに考えていたある日、自分の人生に思いもよらない運命が降り注いできた。


 高級官吏の登竜門、孝廉(こうれん)に挙げられたのだ。

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