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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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選ばれた子、選ばれなかった子19

 桃花(トウカ)は結婚してほどなく、張飛から離婚を切り出された。


 まだ式を挙げてから一年と経っていないにも関わらずだ。


「実家に帰りな」


 そう言われた桃花は怒った。


 怒りの感情を乗せた拳を張飛の腹に叩き付けた。


「なんでよ。末永くって言ったじゃない」


 拳は弾かれて自分の顔の前まで戻ってきた。


 この男の腹は拳どころか材木でも傷つかないことを知っている。だから力任せに何度もぶってやった。


 張飛はその様子を可愛らしく思いながらも、やはり離婚の話は続けた。


「そりゃ俺だってそうしてぇけどよ。状況が状況だからな」


 その言葉通り、張飛も結婚生活の終わりを望んではいない。夫婦仲は周りが羨むほどに良いのだ。


 しかし相手のことを大切に思えばこそ、離れた方が良い状況もある。


 ただ、桃花はそれでも不満なのだ。


「戦に負けて逃げるくらいで離婚しないでよ。武将だったら勝つ時と負ける時があるのは当たり前でしょ?」


 戦に関して素人である桃花の方が真理を口にした。


 その起こりうる当たり前とはいえ、張飛の属する劉備軍は今まさに負けようとしているのだ。


 いや、史書によってはこの争いの際に劉備は戦いもせず逃げたと書かれているものもある。


 そもそもの事の起こりは、劉備が曹操に反逆したところから始まる。


 当時の劉備は曹操のもとにおり、左将軍を任じられるという非常な厚遇を受けていた。張飛もその頃に中郎将になっている。


 それなのに反逆したのは、劉備が皇統の(すえ)を自称していたからかもしれない。曹操が帝を傀儡にしているのを嫌っている人間は多かった。


 そういった連中が曹操の暗殺計画まで練っている中、劉備に出陣の命が下った。敵は皇帝を僭称(せんしょう)していた袁術だ。


 劉備は左将軍としての職命を果たし、袁術の軍旅を阻んだ。この自称皇帝にとどめを刺した形になる。


 それによって曹操の信頼もより厚くなり、劉備もその下で覇業を支え……


 となれば歴史は全く違うものになっていたのだろうが、ここで劉備は反逆した。


 袁術戦を終えても帰還せず、徐州の刺史を殺して周辺地域を支配下に置いてしまった。


 独立だ。


 ちなみに張飛はこの独立時に最愛の妻を得ているので、意図せずとはいえ良い運命だったと言えよう。


 当然この反逆に曹操は怒り、配下を派遣して攻めさせた。


 しかし劉備三兄弟は黄巾の乱から戦い続けている猛者だ。攻めてきた軍を返り討ちにしてから、その逃げる背中に笑ってやった。


「曹操殿が自ら出陣して来るならともかく、お前らのような武将なら百人来たとしてもどうとでもなるわ」


 劉備はそんなことを豪語したと史書に記されている。


 折しも曹操は袁紹との戦を前にして動けない。そういう状況を見越しての発言だった。


 が、これは現代で言うところの『フラグ』になってしまった。


 それからほどなくして曹操は自ら来た。しかもその間に袁紹は曹操を攻撃していないから、天才の頭脳で『今なら大丈夫』という機をしっかり計算して来たのだろう。


 劉備は焦った。


 この時の曹操はすでに袁紹と中原の覇を競う二大勢力であり、独立間もない劉備がまともに相手をできるわけがない。


 早々に逃げることにした。


 一地域の支配者が流浪の軍になるのだ。落ちぶれも良いところだろう。


 そんな事情があって、張飛は桃花に離婚を提案している。


 が、何があっても張飛と添い遂げるつもりの桃花には腹立たしい。それがたとえ自分のためを考えてくれていてもだ。


「張飛さんはもう私といたくない?」


「そんなことねぇよ。できりゃ末永くって思ってるさ」


「本音では私が欲しい?」


「欲しい」


「多分だけど、世間の張飛さん像って欲しいものは力で奪うって感じだよね」


「はっはっは!よく分かってんじゃねぇか。そうだろうな」


「私はそうじゃない優しい張飛さんが好きだけど、今はどうしようもない荒くれ者の張飛さんでいて欲しいな。あの時みたいに、私を攫うつもりで連れてってよ」


 言われてみれば、確かに張飛はあの時すでにその覚悟を決めていた。今さらこの手を離すのもおかしい気がする。


「……分かったよ。何かと大変な道かもしれねぇけど、一緒に歩いてこうぜ」


「嬉しい!!」


 桃花は体中でその感情を表現して抱きついた。


 張飛も遠慮なく、しかし桃花が胸をときめかせるほど優しく抱き返す。


「苦労させるな」


「いいよ。私、軍の飯炊きでもなんでもするから」


「そりゃありがてぇが、つまみ食いはすんなよ」


「………」


「……おい、なんで返事しないんだ」


「あ、そういえば夏侯の家だけど、張飛さんたちが逃げちゃった後はどうなるの?」


 この娘、絶対つまみ食いしまくるつもりだ。少なくとも味見の一口は口いっぱいの一口になるに違いない。


 張飛はそう思ったものの、確かに桃花の実家がどうなるかは重要なことではある。


 とりあえずそちらを答えてやった。


「ああ……夏侯博(カコウハク)は一応うちの将ってことになってるし、曹操の足止めに置いていく感じになる予定だな」


「え?それはちょっと可哀想な気が……」


 桃花は実家にあまり良い印象を持っていないが、それでも使い捨てると言われてはさすがに哀れに思えてしまう。


 しかし張飛は新妻を安心させるように笑った。


「心配すんな。夏侯博は夏侯惇とか夏侯淵を通じて曹操に繋がり続けてるらしいし、上手いことやるだろうよ。殺されやしねぇって」


「あ、やっぱりそうなの?」


「本当なら俺らの結婚でこっちに引き込めればよかったんだがな。まぁそれならそれでこっちも上手く使わせてもらうさ。『形だけでも足止めしとかねぇと、桃花を八つに裂いて夏侯淵に送りつけるぞ!』って脅しとくつもりだ」


「うわぁ、私やばいね」


 それから二人はよく似た笑い声を上げた。


 桃花は養子に来る前、夏侯一族の出世頭である夏侯淵によく可愛がられていた。


 こんな脅され方をされては、夏侯淵に気を遣う夏侯博は裏切りをためらうだろう。


(ま、形だけでもここにいてくれりゃいい。連れてっても仕方ない兵を率いて軍を展開してりゃ、多少の足止めにはなるだろう。あの臆病者は死ぬようなヘマしねぇだろうし)


 その予想通り、夏侯博はこの後曹操軍に無事生け捕りにされる。


 そして劉備たちは逃げ去った。逃亡先は曹操との戦を目前にした袁紹のところだ。


 敵の敵は味方だし、劉備は過去に袁紹の息子を茂才(もさい)(官吏の推薦制度)に挙げているから関係としては悪くない。


 桃花もそれについて行って張飛を支えた。


 袁紹軍での劉備は主に曹操の背後を脅かす仕事を任された。曹操の本拠地である許都の近くを攻め、多くの郡県を味方に引き入れた。


 が、そうまでしても袁紹は負けた。


 戦力だけ見れば順当に考えて勝てる戦ではあった。しかし曹操の奇襲で兵糧を焼かれて大軍を維持できなくなり、袁紹は北の本拠地へ逃げ帰る羽目になってしまった。


 参ったのは劉備たちだ。まさか袁紹が負けるとは思わなかったし、自分たちも北へついて行こうにもその道程には曹操軍がいる。


 しかも曹操は袁紹を追いかけず、劉備たちを攻めてきた。


 しかもしかも、曹操は劉備を決して見くびっていなかったようで、今度も曹操本人が攻めて来た。


「また逃げるぜ」


 自殺志願でなければその選択肢しかないだろう。


 張飛は当然、この逃亡劇にも桃花を連れて行った。末永く共にあるためだ。


 劉備たちが逃げた先は荊州(けいしゅう)牧である劉表(リュウヒョウ)のもとだった。


 劉表は曹操との戦に必ずしも積極的ではなかったが、その傘下に入る気もない。


 劉備を受け入れ、兵を増やした上で曹操への備えとなる地に駐屯させた。


 増強された劉備軍はその翌年、北上して曹操軍の夏侯惇(カコウトン)于禁(ウキン)李典(リテン)といった良将たちを破っている。


 戦果を上げたのだから、劉表も劉備を受け入れたかいがあったというものだろう。


 ただ、その後の劉備軍は戦の頻度が減った。曹操への備えとして重要な配置であることは確かだったが、四、五年ほどは目立った戦がなくなる。


 この間に『髀肉の嘆(この頃は戦がなくて太ってしまったという劉備の嘆き)』という有名な故事成語が生まれた。


 とはいえ、将兵でもない桃花には単にありがたい平和だ。


 幸せな結婚生活を送り、張飛との間に子も産まれた。


 母親似で目がまん丸の可愛らしい娘だ。


「私似で良かった。女の子で張飛さんに似てたら困るもんね」


「俺似でもいいじゃねぇか。それならそれで、きっと新しい可愛さが産まれるぜ」


「えー?虎髭女子って可愛いかな?」


「女でそりゃねぇだろ、ってのが普通の突っ込みなんだろうが……想像したら意外に可愛くねぇか?」


「あ、かもかも。それじゃ二人目は張飛さん似がいいね」


 今日も今日とてそんな馬鹿話をしてから娘を寝かしつけた。


 まだ夜に泣くので、一緒に寝るのは桃花だけだ。翌日も仕事がある張飛は離れた別室で寝ている。


 ただし一緒とはいっても、桃花と娘も一応別の部屋だ。小さい頃から別室で寝る方が母子ともに良いことが多いと聞き、そうしている。


 戸は薄いので泣けばすぐに気づけるし、確かに一人になれる時間があるのは精神衛生上良かった。


「ねんねんころりんねんころりん〜♪」


 桃花は子供を寝かしつけるのに、よく子守唄を歌ってやった。そうすると安心するのか早く寝てくれる。


(伯父様の子守唄、効果抜群だな)


 桃花がいつも歌うのは、夏侯淵がよく歌ってくれた子守唄だ。


 伯父も桃花が赤子の頃は今ほど忙しくはなかったし、子沢山な家だから伯父が寝かしつけてくれることも多かった。


 桃花はその子守唄が好きで、よく覚えている。そしてどうやら娘も気に入ってくれているらしい。


 今日もよく眠ってくれたから、しばらくはゆっくりできるだろう。


「ふう……ようやく母もお休みだ」


 子が幼いうちは、親の休みなど一日にほんのわずかな時間しかない。


 桃花はそのわずかばかりの時間を愛おしむように自分の寝台についた。


 本当はすぐに寝ず、自由時間を何か有意義なことや楽しいことに使いたい。


 が、疲れの方が勝ってすぐにウトウトし始めてしまった。


 そんな夢と現実の狭間を漂う桃花を、首筋の冷たい感触が現実へと引き戻した。


「おい、起きろ」

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