選ばれた子、選ばれなかった子3
夏侯淵は妻の怒声を耳にして眉をひそめた。
妻は子供を叱責している。
夏侯淵はその声を聞くのがとても嫌だった。
だから妻へ咎める視線を送り、子供を擁護した。
「おい、そんな声を出すな。まだ小さいんだから多少のことは仕方ないだろう」
叱られてる内容は大したものではない。食事中の姿勢が悪いとか、その程度のことだ。
しかし言われた妻は矛先を夫へと向け、先ほどよりは静かな怒りを込めた声を出した。
「齢は関係ありません。私にはこの子を夏侯家の人間として恥ずかしくないよう育てる義務があります」
「義務と言っても……」
「あなたが綝ではなく桃花を選んだあの日、私は自分にそう義務を課したのです。綝の分まで桃花を立派に教育すると」
叱られていた子供、桃花はその言葉を聞いてうつむき、体を縮こまらせた。
それを見た夏侯淵は情けない気持ちになった。
桃花はまだ七歳で、そんな子供にこんな思いをさせてしまっている自分が情けない。
ただ、この話をされると自分も妻に強く出られないのだ。
あの日、綝ではなく桃花を抱え上げたのは他ならぬ夏侯淵なのだから。
(七年前の襲撃……あれさえなければ……)
夏侯淵はこの七年間で何度そう思ったことか。
七年前、夏侯淵とその親族たちの住む地が黄巾の残党に襲われた。
その日の夏侯淵は弟家族と一緒に、街の外へ出て子供たちを遊ばせていた。
そこへ突然軍が現れたのだ。
軍の兵たちは皆頭に黄色い頭巾をかぶっていたから、黄巾の残党であることはすぐに分かった。
そしてその略奪の意思も。
『兄上!!子供を!!』
そう叫んだ弟は不運なことに、現れた軍と最も近いところにいた。
そしてそれが最期の言葉となった。
兵たちは弟を後ろから容赦なく槍で串刺しにした上で、その近くにいた弟の妻にも手をかけた。
兵たちは殺戮の開始を告げる血祭りに沸き立っていた。
夏侯淵は大切な弟夫婦を惨殺されたわけだが、それに対して怒りを抱けなかった。
自分たちにも軍が迫っているのだ。怒る前に恐怖が湧いてきた。
夏侯淵もそれなりに武術の心得はあるつもりだが、一人で軍の相手などできるわけがない。
(ともかく逃げねば)
そうは思ったが、弟は兄に子供を頼んで死んだのだ。
その子供は夏侯淵と黄巾軍のちょうど中間辺りの位置にいる。弟が玉のように可愛がっていた娘、桃花だ。
桃花は夏侯淵の息子である綝の腕を掴んで立っていた。本当につい最近掴まり立ちができるようになったばかりの赤子だ。
その場には夏侯淵の妻や他の子供たちも来ていたが、それらは幸いなことにだいぶ街に近いところにいた。
『お前は子供たちを連れて街へ走れ!!』
妻へそう叫びながら、夏侯淵自身は綝と桃花に向かって駆け出した。
そこに着くまでの間、夏侯淵は必死に恐怖と戦わなければならなかった。
子供たちを助けるためとはいえ、自分を殺しにかかってくる軍に向かって走るのだ。
しかも相手には騎乗している者もいる。自分の方が先に子供たちの元へたどり着けるか、本当に微妙なところだった。
(いや、微妙どころではない……先に着いても逃げ切れないぞ!!)
子供たちに手が届く前にそれを悟った。
二人を抱え上げて走っても馬に追いつかれるだろう。
しかし、すでに全力疾走している夏侯淵は足を止めなかった。
夢中だったのだ。夢中で綝と桃花の前まで来た。
ただし、夢中過ぎて自分でも思わぬ行動を取った。
桃花だけを抱え上げて駆け出したのだ。綝は置いてけぼりだ。
(なぜ、あの時そうしたのか)
何度思い起こしても、自分で自分が分からない。
もしかしたら二人とも救うのは無理だと思ったからかもしれない。
もしかしたら弟の最期の頼みを聞くため、桃花を選んだのかもしれない。
もしかしたら桃花の方が小さいから、少しでも逃げ切れる可能性を上げようとしたのかもしれない。
半ば無意識にそういう行動を取っていた。
そしてそれは、結果として正解になってしまった。
夏侯淵が首だけで振り向くと、ちょうど綝が派手に馬に跳ね飛ばされるところだった。
そして自分たちに追いつくはずだった馬はそれで転倒して足を止めた。しかも後続の邪魔になってくれる。
夏侯淵と桃花は奇跡的に街まで逃げ切ることができ、街から出てきた守備兵によって救われたのだった。
(しかし、これでは綝を犠牲にして自分たちだけ助かったようなものだ)
その罪の意識は今でも夏侯淵を苦しめている。
しかも妻がそれを煽り立てるのだ。
『あなたは綝ではなく、桃花を選んだのです。桃花によほど見込みがあると思ったのでしょう?』
遠くでそれを見ていた妻は、ことあるごとにそんな皮肉を言ってきた。
夏侯淵は妻に対しても申し訳ない気持ちがあるから、そう言われればただ黙るしかなかった。
(そんなつもりで桃花を抱き上げたのではない)
そう言ったところで綝が帰ってくるわけではない。妻がお腹を痛めて産んだ子を抱き上げなかったのは確かに自分なのだ。
だから今朝も妻に上手く反論できないのだが、それにしても桃花が不憫ではあった。
(桃花には後でこっそり美味いものでもあげよう)
月次だが、この齢の子供が喜ぶことといったらそれくらいしか思いつかない。だから夏侯淵はよく桃花に食べ物を与えた。
妻をなんとかできれば一番なのは分かっているが、なかなか難しい。
それに妻は桃花をなんの理由もなく苦しめたりはしないのだ。むしろしっかりと世話をしてやる。
ただしその一方で、しつけなどは見ている方が苦しくなるほど厳しく当たる。
恐らく本音では痛めつけたくて仕方ないのだろう。息子を犠牲にした結果として生きている姪が憎いのだ。
だから当たれる理由がある時には思い切り当たる。
ある意味で理性的な妻だったが、まだ七歳の桃花には辛かろうと夏侯淵は思うのだ。
子供とはいえ、無意識にその憎しみを感じているはずだ。
(桃花はうちで養育しない方がいいのかもしれないな……)
弟夫婦が亡くなってから、桃花は夏侯淵の家で育てられてきた。
両親を失った姪の伯父として、当然のことをしてきたと思っている。
しかし現状、妻にも桃花にも良いことにはなっていないようだ。
幸い夏侯家は豫州沛国を地盤とする大きな氏族であり、一族は多い。適当な親族の養子にでもした方が良い気がした。
「戦から帰って来たら本気で検討してみるか……」
妻には夫のつぶやきの意味が分からなかったが、『戦』という部分には敏感に反応した。
夫は今日、戦に出るのだ。
しかも今度の敵は妻にとっても因縁の相手になる。
「あなた。どうか黄巾の賊徒どもを一人でも多く討ち、綝の仇を取ってください」
妻の言う通り、夏侯淵はこれから一軍を率いて青州の黄巾党と戦う。
その中には七年前に夏侯淵たちを襲った人間がいてもおかしくはないだろう。
妻の言う通り、仇討ちにもなりうるのだ。
ただ、夏侯淵はそれ以外にも今回の戦に期待するところがあった。
(もしかしたら、綝は黄巾党の中で生き延びているのでは?)
ずっとその可能性を捨てきれずに生きてきた。
息子は死んだとしか思えないほど激しく馬に跳ね飛ばされていた。
だが、その遺体を確認したわけではないのだ。
夏侯淵は襲撃の数日後、黄巾の軍が完全に引いてから現場へ戻ってみたのだが、綝の遺体は見つからなかった。
しかも街の軍と戦って死んだ黄巾の兵たちの遺体はそのままになっていたのだ。
(兵の遺体がそのままなのに、身内でもない子供の遺体を処理するだろうか?)
それを考慮すると、綝は黄巾の子として育てられていてもおかしくはないように思える。
とはいえ、あくまで希望的観測だ。客観的に考えて、可能性の高い話ではないだろう。
だから夏侯淵は妻にその話をしなかったし、今日もするつもりはない。
「ああ、任せておけ。今回だけは私の軍が一番多く首級を上げてやる」
そう勇ましく請け合ったものの、頭の中には綝の顔をしっかりと思い浮かべていた。
もし戦場で見かけたら、絶対に見逃さないようにするためだ。




