191 劉備陣営
「劉備様、夜襲の準備が整いました。予定通り、実行させてよろしいでしょうか?」
軍議の席でそう確認したのは、諸葛亮だった。
すらりとした長身で、齢は三十を少し過ぎた頃なのでまだ若い。その若輩者は、歴戦の武将たちが居並ぶ劉備軍の中でも特に大きな発言力を持っていた。
その事に関し、疑問に思う者は誰もいない。諸葛亮はそれだけのものを示してきたのだ。
どんな頭をしているのか、誰も思いつかないような策を示し、その多くで考えられないような成功を得てきた。
ただ頭が良いだけではない。実行力があり、しかも人柄が良い。公明正大で、己の利を貪らない。誰もが諸葛亮を認めていた。
が、別に諸葛亮が言うことに誰も文句を言わないわけではない。劉備の軍営では、例え相手が劉備であっても思ったことは口にできるような風土が作られていた。
「夜襲で忍び込んで門を開けるのもいいけどよ、もっと思いっきりぶつかって負かした方がこの後言うこと聞くんじゃねぇかな」
ぶっきらぼうな口調でそう言ったのは、張飛だった。
いったんは軍議で通った夜襲ではあったが、張飛はその時も難色を示していた。
張飛は強いが、小手先の戦術よりも力技を好む。逆に力技であれば誰にも負けないだろう。
(だが、それでも戦後のことを考えるようになっている。先日も罠を使って巴郡を落としたというし、随分大人になったものだ)
劉備は義弟の成長を感じたが、かくいう自分も随分齢を取った。
自分と関羽と張飛、三人いれば何でも出来るのだと、若い頃はそう思っていた。しかし、自分は多くの人間に助けられて今ここにいられる。
益州の首都たる成都城は、完全に劉備軍に包囲されていた。
他の城も主要なものはそのほとんどを落としている。ここまでくれば、勝利はそう遠くないと言っても過言ではないだろう。
ただし油断はできない。
成都にはまだ三万の兵と一年以上の食料があるという情報だった。それに籠城されては、こちらの体力にも不安が生じる。
(三万の兵はともかく、それを城内の民とともに一年以上食わせるだけの食料とは……劉璋め、一体どんな妖術を使ったのだ)
劉備は驚きを通り越して、半ば呆れてしまった。
「よっぽど食うのが好きなおっさんなんじゃねぇか?」
張飛はそんな軽口を叩いて笑っていたが、現実を思えば洒落にもならない。
その張飛は夜襲に関し、隣りに座る同僚へ同意を求めた。
「なぁ趙雲、お前もそう思うだろ?」
「私は劉備様のご決定に従うまでだ」
趙雲は腕を組み、目を閉じてそう答えるだけだった。
その様子は重厚、と表現するのが最も相応しいだろう。趙雲は真面目すぎるほど真面目な性格で、忠義心と胆力の塊だ。
劉備は張飛に笑いかけて諭した。
「お前の言うことはもっともだが、成功すれば被害は少なくて済む。それも大切なことだ」
「兄貴よ、そりゃまぁ兵の被害はそうだろうが……夜襲で城内へ攻め込むとなると、民の被害は大きいぜ?」
それが張飛の本音だった。女子供や病人など、非戦闘員のことを考えて渋っているのだ。
張飛をただの荒い男だと思っている者も多かったが、劉備からするとこれほど優しい男も他にいなかった。
確かに兵には厳しいが、民には優しい。下手に教養があって礼儀正しい官吏ほど、民の被害を美辞麗句でごまかしてしまうものだ。
中国でいう城は、日本の城とは全く違う。一般的に、街一つをぐるりと高い城壁で囲んだ物が城だ。城内へ攻め込むということは、民の生活する街が戦場になるということだった。
兵が城内に攻め込めば、当たり前のことだが非戦闘員も多く傷つけられることになる。それは視界の悪い夜間であれば特に酷くなるだろうし、略奪や虐殺を行う兵も増えるはずだ。
戦後、益州を治めるつもりである劉備は、当然略奪や虐殺を禁止している。しかし戦の現場において、全ての兵にそれを守らせることなど出来はしない。
そして残念ながら、略奪を期待して戦力になる兵を拒めるほどの余裕も、その方策ない。
どの群雄もそうだろう。食うか食われるかの争いをしているのだ。
諸葛亮のように頭の良い男でも、この張飛の発言には月並みな回答しかできなかった。
「兵たちには無駄に民を傷つけた場合、厳罰に処す旨を改めて通達して下さい。また目的外の行動を取らせないよう、それぞれに具体的な指示を与えて下さい。私も始めに忍び込む五百名は担当を分け、どの場所を狙うか繰り返し指導しました」
張飛もこの点に関してはこれ以上議論しても仕方がないと思ったのだろう。それ以上は何も言わなかった。
代わりに劉備が尋ねた。
「五百も、本当に忍び込めるだろうか?」
「城壁の一区画まるごとがこちらへ呼応してくれることになっておりますので、その約束さえ違えられなければ可能かと。それに五百人入れば城門を攻めるだけでなく、食料庫と要人の居住区画を攻められます」
「食料と要人、か」
劉備は髭を撫でながら思料した。
確かに食料、要人の守りは優先度の高いものだ。少なくとも無視はできないだろう。
諸葛亮は説明を続ける。
「はい。そうすれば敵の対応も混乱して、城門も開けやすくなるかと思われます。それに最悪、城門を開けることに失敗しても、食料を焼くか要人の多くを仕留めることが出来れば降伏が期待できます」
「食料庫、要人の居住区画の場所は確実に掴めているのだな?」
「捕らえた複数の兵から同じ証言が得られているので、まず間違いないかと」
「ふむ……」
劉備はまた目を閉じて三度髭を撫で、それから静かに目を開いた。
「いいだろう、夜襲の実行を命じる。各々、抜かるなよ」




