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158 冷えに附子

「クチュンッ……うぅ、寒い」


 小芳は小さなくしゃみをしてから身を震わせた。


 冬の日の朝だ。水場に顔を洗いに来たのだが、どうしても気が進まない。


 水が痛いほど冷たいのは分かりきっている。なぜ毎朝このような苦行をしなければならないのか。


「相変わらず可愛いくしゃみね」


 小芳の背中へ花琳が声をかけた。ちょうど花琳も起きてきたところだった。


「若い頃には可愛いくしゃみが出せるよう頑張ってましたけど、この齢になるとどうでもいいですね。むしろ大きなくしゃみをする人が気持ち良さそうで羨ましいです」


 しかし、若い時の癖はなかなか抜けないものだ。相変わらず同じようにくしゃみしてしまう。


「去年まではこんなに寒いことはありませんでしたからね」


 小芳、花琳が家族と共に移住してきた益州巴郡(えきしゅうはぐん)は現在の重慶周辺で、日本の緯度で言えば鹿児島と沖縄の中間辺りになる。気候としては、一年を通して東京よりもやや暖かい。


 しかし、小芳たちがここ十年あまり住んでいた交州交趾郡(こうしゅうこうしぐん)はベトナムのハノイ周辺だ。ハノイは亜熱帯気候に属し、最も寒い季節でも東京の秋くらいにしかならない。


 移住前後の寒暖差のせいで、体感的には実際よりもずっと寒く感じられた。


「そうね、交州は本当に暖かかった……クシューッ」


 今度のくしゃみは花琳だ。


 花琳は別に可愛いくしゃみなど心掛けたことはないが、妙に語尾の伸びるくしゃみだった。


 小芳はそれを聞いて笑った。


「お嬢様も相変わらずのくしゃみじゃないですか」


「なんだい、二人とも風邪かい?」


 震える二人の所へ、朱亞(シュア)が笑顔でやってきた。


 朱亞はもと住んでいた成都からほぼ真東へ移動して来た。北西へ移動してきた小芳たちと比べて、冬の寒さには慣れている。


 小芳と花琳は順番に挨拶した。


「おはようございます、朱亞さん」


「まだ風邪というほどではないんですが、どうにも体が冷えて……」


 二人とも朱亞と同じ屋敷で寝起きし始めたのはつい最近のことだが、朱亞が気さくな性格をしているおかげですぐに打ち解けた。


 三十六人もの女たちをまとめ上げる朱亞は、極めて人当たりが良い。その上気配りも出来るので、新しい生活を始める上で何かと助けになった。


 そして今もまた、二人を助けようと気を配ってくれた。


「二人とも、後で台所へおいで。良いものをあげよう」


 花琳と小芳が言われた通り台所へ行くと、朱亞は棚の一番上から壺を下ろした。壺は人の頭ほどの大きさだ。


「よいしょ、と。子どもたちが飲んじゃいけないから高いところに置いてるんだ。まぁ、子供の好きな味じゃないから心配はいらないだろうけどね。ほら」


 朱亞が壺の蓋を開けると、独特な香りが漂ってきた。中は茶色の粉末で満たされている。


 覗き込んだ小芳が尋ねた。


「何ですか、これ?」


「冷えによく効く生薬だよ。附子(ブシ)というんだ」


 花琳はその生薬名に聞き覚えがあった。


「附子、というと確か……」


「そう、トリカブトさ」


 朱亞の言う通り、附子とはトリカブトの根の一部を指す。


 小芳はその名を聞いて驚いた。


「え!?……トリカブトって、毒に使われるあのトリカブトですよね?」


 トリカブトの有毒性は紀元前から知られており、後漢の時代にも鉱物由来のヒ素と並んで代表的な毒物として認識されている。小芳がギョッとするのも当然だろう。


 朱亞は小芳の反応に笑った。期待通りの反応をしてくれたのだ。


「びっくりするだろうけど、冷えにはよく使われる代表的な生薬なんだよ。うちは女ばかりで冷え性が多いから、まとめて沢山もらってるんだ」


 附子は新陳代謝を高める働きがあり、現代においても冷え性によく用いられている。


 冬場になると『ブシ末 何グラム 一日何回 何日分』という処方箋が多くなり、その独特な香りが漂う薬局が増える。


「もちろん生のトリカブトそのままじゃなくて、塩漬けにしたり蒸したりして毒を弱くしてあるから大丈夫だよ。ちゃんと信頼できる医師、薬師からもらっているしね」


 附子の毒は主にアコニチンなどのアルカロイドだ。これらの成分の多くは水と塩類・熱により加水分解を受ける。


 塩漬けや蒸しによる弱毒化は、化学的にも理に適っているのだ。


 附子は古くから経験的に加工された上で用いられてきたが、人類は一千年以上も前からトリカブトの毒を化学的に制してきた。


 しかし、説明されても小芳としては実際に飲むのには勇気が要った。


「うーん……やっぱりトリカブトと聞くと怖いですよね」


「うちの女たちは問題なく飲んでるし、よく効いてもいるから心配いらないよ。ただ、脈が早かったり、のぼせやすかったり、赤ら顔だったりする人間には向かないらしい」


「その辺りは大丈夫ですけど……」


 二の足を踏む小芳とは対照的に、花琳は平然と椀を取り出した。


「一杯いただいてみます。お湯に溶いて飲むんですか?」


 朱亞は小さな匙一杯だけすくって椀に入れてやった。


「それでもいいし、粉を直接口に含んで水で流し込んでもいいよ。念のためだけど、初めはとりあえず少しだけにして体に合うかを確認しよう」


 花琳は言われた通りに粉を口に入れ、水で流し込んだ。


「……香りだけじゃなく、味も独特ですね」


「飲みやすくはないだろう。医師は『体が求めている生薬は味も良く感じる』なんて言ってたけどね。でもその一方で、孔子様も『良薬口に苦し』なんて言っている。実際のところ、どうなんだろうね」


 中医学や漢方では、薬が体に合っていれば飲みやすく感じられるとも言われているが、


「不味い、飲みづらくて仕方ない」


と不満を言う患者でも普通に効いてくれることが多い。あくまで目安の一つだろう。


 花琳が飲んだのを見て、小芳もおそるおそる飲んでみることにした。


「じゃ、じゃあ私も……んくっ、ん……飲めないことはないですね」


 間違っても美味しいと思えるものではなかったが、薬として考えれば続けるのが無理なほどではなかった。


「二人とも、特に問題がなければ明日から量を増やしてみよう。とりあえずこの冬だけでも飲み続けてみるといい」


「お願いします」


「あ、いたいた。花琳さん、おはよう」


 二人が朱亞へ礼を言っているところへ、依依(イーイー)が入ってきた。


 手に竹簡(チクカン)(この時代の紙の代用品)を持っている。


「依依さん、おはようございます。依依さんは冷え性ではないですか?」


 花琳は依依の体調を気遣った。


 依依は朱亞の一家と住み始めてから、随分と性格が柔らかくなったように思えた。


 許靖が『アザミの棘が丸まった』と言っていたが、何となく花琳にもその表現が分かるような気がする。


「こっちは確かに寒いけど、私は体温が高い人だから大丈夫。それより、ついさっき許靖さんへのこれが届いたんだけど……」


 依依は花琳に竹簡を手渡した。


 花琳はそこに記された差出人の名を確認すると、眉をピクリと上げた。そしてすぐに許靖の部屋へと向かう。


 許靖はすでに起きていて、身支度を整えていた。


 今日は新任の太守として重要な行事がある。さすがに寝坊はしていなかった。


「あなた、例の手紙の返事が届きました」


「なに?交州に送ったあの手紙の返事か」


 許靖は受け取った竹簡をすぐに開き、中身に目を通した。


「……やはり、私たちの思っていた通りだ。陳祗(チンシ)を呼んでくれ」


「やはりそうでしたか。でも、もうあまり時間がありませんけどいいですか?」


 許靖は窓から見える太陽から大体の時間を推察した。


「あぁ……そうだな。今日の行事は陳祗も来てもらうし、あの子も今朝は準備で忙しいだろう。終わってから落ち着いて話そう」


 届いた竹簡の中身に関して陳祗に話があったが、少し神経を使うことでもある。出来ればゆっくり話したかった。


「分かりました。……あなた、ちょっと着崩れていますよ」


 花琳は許靖の服をピシリと引き、帯を締め直した。


「今日ぐらいはしっかりした格好で行かないと……どうしたんですか?」


 許靖は服を直されながら、嬉しそうに微笑している。


「いや、新婚当時はよくこうやって服を直されていたなと思ってな」


「今だってよく直してるじゃないですか」


 許靖はズボラというほどではないが、服の乱れなどは花琳がすぐに気付いてくれるのでつい適当になってしまう。確かに今でもよく直されていた。


「そうだが、あの頃はそういった事一つでもなんだか嬉しかったのを思い出してな」


 そう言われて、花琳は頬を少し赤くした。


 そういえば花琳もそうだった。むしろ服を直したくて、許靖の服が乱れていると嬉しかったのを覚えている。


「もう、あれから何十年経ったかな。まさか、ただの馬磨きが太守になるとは思わなかったが」


「そうですか?私は何となくこんな風になるんじゃないかと思ってましたよ。私はあなたの出世なんて望みませんでしたけど」


 それは漠然とした予感でしかなかったが、花琳の心の中にはずっと存在していた。


 だから許靖が巴郡の太守に就任しても、また過去に董卓政権下で重職に就いた時にも、花琳は特に感慨深いということはなかった。


 普通の妻なら夫の栄達を喜ぶものだが、花琳にはあまりそういった様子が見られない。ただただ夫の負担が増えることを気遣うばかりだった。


 許靖はそんな花琳を心底ありがたく思う。そして許靖自身も花琳と同じように、二人で平和に暮らせればそれ以上多くは望まなかった。


「太守になどなってしまうと、花琳にも迷惑をかけることが増えると思う。すまないな」


 妻は返事をする代わりに、夫を強く抱きしめた。


 その力が少し強すぎて、せっかく整えた服がまた乱れてしまった。

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