イチとテイコー
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「はぁ……はぁ……」
ひとりの女性が、赤ん坊を抱きしめながら必死に逃げていた。
ユーラス共和国。
その首都、ユーラス。
普段は魔導具の光に照らされ、文化の最先端をいっているはずの街。そんな首都が――現在、地獄絵図に陥っていた。
建物は無惨に壊され、隠れる場所すらない。わざわざ炎を用いて破壊活動を行ったようで、あちこちで硝煙の臭いが鼻をつく。焼死体も所々で転がっており、女性――アルカナはたまらず子どもの目を覆った。
それらの遺体は、ほとんどが男性のものだ。女性の遺体はほとんど見受けられない。なぜならば――
「…………っ!」
アルカナは思わずぎゅっと瞳を閉じた。
どこからか、女性の泣き喘ぐ声が聞こえるからだ。同じ場所から、男の嫌らしい笑い声も聞こえる。助けにいきたいところだが、一般住民たるアルカナにはなにもできない。あの場でなにが起きているのか、想像したくもない。
――なんて、ひどい。
アルカナは小声で呟いた。
サクセンドリア帝国の人間たちは、この侵攻を《正義の鉄槌》だと言う。二千年もの間、ユーラス共和国が自分たちにやってきたことを思い知らしめるのだと。
正直言って、難しい話はアルカナにはわからない。《テイコー》への嫌悪感なんてみんな抱いているから、自分もそうだっただけだ。
でも。
こんなものが、こんなことが、起きていいはずがない……!
私はただ、普通に生きてきただけなのに……!
アルカナはふと、視線を斜め方向にずらした。
《目的地》まではまだまだ遠いが、帝国人どもはさっき女の声が聞こえた場所に固まっているようだ。このまま、行けるところまで行きたい……!
と。
「う……あ……ッ!」
ふいに、腕のなかの赤ん坊が呻き声を発する。目はしっかり覆っていたはずだが、硝煙の臭いに刺激を受けてしまったか。
――しまった。
そう思ったときにはすでに遅かった。
「あーーーーーーーッ!」
赤ん坊はそのまま大声で泣きじゃくり始めた。周囲への外聞もなにもない、本能に身を任せた泣き声。普段は愛おしく聞こえるが、いまはタイミングが悪すぎた。
「や、やめて……! ね! いい子だから大人しく……!」
「うあーーーーーーッ!!」
「お、お願い……! 静かにして……!」
「なんだァ? うるせェなあ……」
アルカナの願いは、しかし届かなかった。
右方から、怪訝そうな表情で男が姿を現す。心なしか、ややいらついているように思えた。
「お……?」
そんな男と、アルカナの視線がぴたりと合う。
ぞくり――と。
アルカナの背筋に冷たいものが走った。
「なんだよぉ。ここにもいたじゃねえか。上玉がよぉ」
ニヤニヤ笑いを浮かべばがら歩み寄ってくる。
最悪だ。
もう、なにもかもが終わった……
なんとか意地で逃げようとするが、赤ん坊を抱えたアルカナの逃走などたかが知れている。あっという間に回り込まれてしまった。
あまりの恐怖に、アルカナは両膝をついてしまう。
「げひひ……よかったぜぇ……?」
前方に立ちふさがる男が、涎を垂らしながらにじり寄ってくる。
「女どもはみんな《スキル持ち》がかっさらっていったからよぉ……。俺たちが遊べる相手はいなかったんだ。な? 可哀相だろ?」
「…………」
「クク、いい目してるねぇ。帝国人たる俺様が、《イチ》と遊んでやろうってんだ。もっと喜んでもいいんだぞ」
「あ、あなたって人は……!」
アルカナが精一杯男を睨みつけると、赤ん坊がまたしても腕のなかで暴れ出した。
「オギャーーーーー!」
「ちっ、うるせえガキだな。おい、そいつ邪魔だから殺すぞ」
男は不愉快そうに顔を歪めると、赤ん坊に手を伸ばしてくる。
アルカナは咄嗟に身体を逸らした。
「いや! やめて! この子だけは……!」
「駄目だ駄目だ。ガキがいたらうるさくてかなわねぇだろうよ」
なんて、ひどい。
やっぱりテイコーはテイコーに過ぎなかったのだろうか。野蛮で、自分たちのことしか考えていない、クズみたいな人種……
ひどい……
アルカナが瞳を閉じた、その瞬間。
「そこまでにするんだな。クズどもが」
突如、聞き慣れない男の声が聞こえた。
「え……」
慌てて顔を上げる。
またテイコーが現れたようだ。瞳の色が明らかに黒い。
なのに……彼が現れたとき、アルカナは謎の安心感を覚えてしまった。なんというか、彼のまわりに不思議なオーラが漂っているのだ。
「なっ……お、おまえは……ル、ルイス・アルゼイドか……!」
「…………」
「ちっ! 邪魔だ、てめェも死にやがれッ!!」
そうして男が殴りかかった――のだが。
数秒後には、ルイスと呼ばれた男の姿はそこにはなかった。
「な……」
男の拳が空しく宙を通り過ぎ、おおっと言いながら前につんのめる。
「――大丈夫か?」
「え……」
思わず目を見開くアルカナ。
ルイスと呼ばれた男が、片膝をついた姿勢でアルカナの前方にまでやってきたからだ。




