その畑は踏み荒らされるので特に芽吹きはしない
その日開かれた王宮の夜会に、ライラは欠席の連絡を出していた。代役を務めるべきアリアがノーディスにエスコートされるので、ライラを演じている暇がなかったからだ。
ライラには、自分が出向くという選択肢はないらしい。それどころか、「もう商談も下見も終わったから」と帰り支度まで始めている始末だ。
もしノーディスからの熱烈な誘いがなければ、レーヴァティ公爵夫人はアリアを欠席させてでも“ライラ・レーヴァティ”を出席させるつもりだった。
まだライラには決まった相手がいない。だからライラの代わりに、アリアを使って貴公子達の気を引かせるのだ。しかしその計画は、「今度の夜会のエスコートはぜひ私が」と無邪気に願い出たノーディスによって砕かれた。
アリアが参加すると信じて疑わない彼に、どうして出る気がないなど伝えられるだろう。しかもアリアはすでに一度─ライラのせいで─体調不良によってノーディスとの予定を当日に潰している。同じ手は何度も使えない。
口実のことごとくを封じられたことで、母は少なくとも今回の夜会ではアリアをライラの代役に立てることを諦めた。ノーディスはそんな事情など知りもしないだろうが、アリアにとっては救世主に等しい。
そもそも、アリア達がどんなお膳立てをしようとも、ライラはすべてを台無しにするに決まっている。何をしようと時間の無駄でしかない。
(お父様もお母様も、早く諦めてくださらないかしら。ライラに夫など必要ないでしょう? ライラを押しつけられる殿方の身にもなってさしあげてくださいな)
鏡を見つめ、アリアは小さくため息をついた。鏡に映したようにそっくりな片割れは、けれど顔しか似ていない。
ノーディスが迎えに来たとヨランダに呼ばれ、アリアは最後に自分の身なりを確認した。
水色のドレスは、アリアの清廉さと優雅さをよく引き立てている。流行の最先端を行く仕立て屋の作品だ。社交界でも注目されることは間違いないだろう。
婚約者であるノーディスの瞳を模したような赤い宝石の髪飾りは、当然彼からの贈り物だ。ぜひ今日の夜会に身に着けるようせがまれていたので、ノーディスの歓心を買うためにも今日のコーディネートに組み込んでおいた。
「お身体の調子はすっかりよくなられたようですね。先日は申し訳ございませんでした。無理に押し掛けてしまって」
「こちらこそ。連絡の行き違いがあったせいで、大変失礼いたしました。体調はすっかりよくなりましたので、どうかご心配なさらないでくださいな」
ノーディスは何も気にしていないというような顔をしている。だからアリアもそれに合わせ、なんでもない風を装った。
(本当は、わたくしとライラを間違えなかったことのお礼を伝えたいのですけれど……)
ライラの話によれば、少なくともノーディスはライラをライラだと見抜いてくれた。それが嬉しくないと言えば嘘になる。
だが、そもそもライラの話をどこまで信じればいいかわからない。それに、見破ったことも含めてノーディスが口止めを要請していたとしたら、なおのことアリアが話題にするわけにはいかなかった。
「今日の夜会は、ノーディス様の婚約者として初めて参加できる催しですもの。わたくし、とても楽しみにしておりましたのよ」
「それはよかった。これで私も、貴方に好意を持つ男達に対して安心して勝利宣言を出すことができます」
冗談めかして笑うノーディスに、アリアへの二心は感じられない。それでも彼にとっては、アリアと一緒にいるよりもライラと話しているときのほうが楽しいのだろうか。不意に湧き上がるその不安に嫌気がさした。
(よかった。この様子だと、ライラから私の悪評は吹き込まれてないみたいだ)
一方のノーディスはノーディスで、婚約者の姉に悪態をついたことを気にしていた。ライラへの罪悪感からではなく、アリアからの心証が悪くなっていないかが心配だったからだ。
ライラとアリアはあまり仲がよさそうには見えない。だが、ノーディスの態度に腹を立てたライラが何かよからぬ嘘を吹聴し、それをアリアが信じてしまう可能性はなきにしもあらずだった。
(いくらライラでも、やり込められたことを思い出すような真似はしたくなかったんだろうね。さすがにその程度の分別は備わっていたか。話題に上げるのも嫌だと思うぐらい私が嫌われたのかもしれないけど、それで私が困ることは特にないし)
そういうことなら、わざわざ自分からつつくのはやめておこう。終わったことをアリアの前でほじくり返して、下品な男とも思われたくない。
ノーディスもアリアも、擬態がうますぎた。二人の心中はすれ違い、読み合いは外れに外れている。それでもある意味、絶妙に噛み合っていた。
*
夜会が盛り上がりを見せる中、アリアとノーディスはそっと広間を離れてバルコニーに向かった。
「実は王都には、大学の夏期休暇を利用して滞在しているだけなんです。ですから、王都の社交界に顔を出せる機会は限られていて。月末には帰らないといけないんです。そんな短い間にもかかわらず、貴方と巡り合えたのは本当に幸運でした」
「まあ! そうですわよね、立派な学問をなさっていらっしゃるんですもの。お勉強がお忙しいのは当然ですわ。……真面目なノーディス様からすると、王都の社交界は馬鹿馬鹿しいものなのでしょうか?」
震える声で不安を吐露する。ノーディスがもしライラと同じ考え方をしているなら、上流階級の社交すら侮蔑の対象のはずだ。顔を売るより勉強を優先したいと思っていても不思議ではない。妻を見つけるという大きな目的も果たした今、確かにノーディスが王都に残る意味はなかった。
「まさか。いい息抜きになりましたよ。久しぶりに兄にも会えましたし」
だが、ノーディスは晴れ晴れと笑っている。やはりそこに嘘は感じられない。
「本の虫になっているほうが確かに落ち着きますが、それはそれです。多くの方にお会いできる社交期は、見識を広めるいい機会だと思っていますよ。一人で研究室にこもっているだけでは学べないことも多いですからね」
「そう言っていただけて安心いたしました。無理に連れ出してノーディス様を退屈させていないか、心配しておりましたのよ?」
「退屈? めっそうもない。アリア様と一緒にいられる時が、一番刺激的ですよ。貴方の琥珀の瞳はいつでも輝いているでしょう? その目に見つめていただくために、王都の滞在を延ばしたようなものなんです。まさか本当に婚約を受け入れていただけるとは。不慣れなことをしたかいがありました」
ノーディスは照れたように頬をかいた。穏やかな眼差しは、彼の誠実さと愛情深さを感じさせる。ノーディスはまぶしげに目を細めてアリアの手を取った。
「こう見えて私は、貴方の愛を乞いたくて必死なんですよ。みっともないでしょう?」
「けれど、ご自身の愛を免罪符にしてお相手を傷つけるような方よりよほど素敵だと思いますわ。わたくしのことを想ってくださるんですもの」
アリアはノーディスにしなだれかかる。ノーディスはアリアを抱き寄せ、優しいキスをした。
「イクスヴェード大学があるのは、ルクバト領の領都でしたわよね? ノーディス様のお住まいはそちらなのでしょうか」
「ええ。アリア様がレーヴァティ領にお戻りになった際は、呼んでいただければいつでも駆けつけますよ。ルクバト領はレーヴァティ領の隣ですし、飛竜車を使えば一時間半ぐらいで着くでしょうからね」
「でしたら……」
ノーディスの手を握り、アリアはそっと目を伏せる。切なげにまつ毛を震わせて囁いた。
「わたくしも、レーヴァティ領に戻ることができたらいいのに……。エスコートしてくださる方のいない社交界なんて、きっととても退屈ですもの。お休みのたびにノーディス様とゆっくりとお会いできたら、きっと素敵ですわ。……ご迷惑でしょうか?」
その申し出は、いわばただのかまかけだった。
ライラはレーヴァティ領に帰ろうとしている。ノーディスも王都から去ろうとしている。二人はいつでも会える距離だ。王都のアリアの目を盗んで逢瀬を重ねるつもりなら、アリアのわがままはただの束縛癖以上に嫌悪されることだろう。反応の度合いを確かめたら、「言ってみただけ」と言ってなかったことにすればいい。
「よろしいのですか?」
「えっ?」
だが、ノーディスの反応はいい意味で予想を裏切った。ノーディスは嬉しそうに目を輝かせ、アリアを強く抱きしめたのだ。最悪の想定すら視野に入れていたアリアにとって、これは嬉しい誤算だった。
「私も、貴方を一人だけで王都に残してくことにためらいがあったんです。貴方に寂しい思いをさせてしまいますし、諦めの悪い男達に付け入る隙を与えてしまいますから。ですが私のわがままで、貴方から王都の社交期という楽しみを奪ってしまうのも忍びなく、中々言い出せなくて。アリア様がレーヴァティ領に戻ってくださるのは私にとっても願ったり叶ったりです。もちろん、レーヴァティ公爵夫妻のお許しが出るのであれば、ですが」
(いやだわ。わたくしったら、一体何を疑っていたのかしら。彼はこんなにもわたくしを愛してくださっているのに)
伝わる温もりに、心が一気に軽くなる。「両親はわたくしが説得いたしますわ」アリアはすっかり嬉しくなって、ノーディスの腕の中で満面の笑みを咲かせた。
次話からライラ視点の話が二話続きます。




