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もみじの黄泉路  作者: 荒々繁
黎明
9/11

黄泉送りの神

「では、最後に私のことと、これからについて話そうか」


 艮は静かに口を開き、落ち着いた声を響かせた。


「私の名は艮。この大陸は中央を基点に八つの国が連なり、それぞれに守護神が存在する。その北東の地を護るのが私だ。……後ろにいる二人、功曹と大吉は私の神使。まあ、眷属といった方がわかりやすいかな」


 紹介を受けた二人は軽く頭を下げたが、その視線は冷ややかで、椛たちを警戒しているようだった。拒むような空気がひしひしと伝わってくる。


 灯もどうやら彼らを気に入らないらしく、歯をむき出して低く唸っていた。


「守護する神といっても、私は誰かを無条件に救えるわけではないし、世界の理をねじ曲げることもできない。私たちの役目はもっと限定されている」


 「役目?」と椛が問い返す。


「死者の魂を黄泉へ送ること。それが我々の仕事だ」

「黄泉へ送る?」

「そう。黄泉送りと呼ばれる。現世に留まり、迷い彷徨う魂は、放っておけば妖の手に落ち、穢れへと堕ちる。私たちはその魂を護り、迷わぬよう導く……あの世へ帰すためにね」


 艮の金の瞳は、深淵の水鏡のように静謐に澄み渡っていた。

 そこには憐れみでも冷酷さでもなく、ただ揺るぎない使命感だけが宿っていた。

 生と死を分ける境に立つ者だけが持つ、清らかで厳しい光だった。


「あなた達は……妖と戦っているの?」


 無意識に零れた問い。椛自身、何を言っているのか分からなかった。だが、出てしまった言葉はもう消せない。


「全てを悪と見なしているわけではないよ。現に、灯の滞在を許しているし、小物妖怪はこの社に集っている。彼らは格上の妖の餌にもなってしまうからね。人間だけでなく、弱き者を守るのも私の役目だ」


 艮は澱みなく答えた。


「それに、私は他の土地神の中でも若輩で、まだ二百年しか生きていない。何百年も生きて力を得た妖には勝てない。だからこうして結界を張り、せめて弱者を守っているのさ」


 艮は少し恥ずかしそうに笑った。

 その言葉に椛は首を傾げる。紅葉姫が生きていたのは三百年前──紅葉としての記憶はないが、夢の中で見た断片的な記憶の中に、確かに艮の姿があった。いつも影に覆われて顔は見えなかったが、不思議とそれが彼だと確信できた。


 ──あの二人は、恋人だったのではないか。


 胸の奥に浮かんだ想いが、そのまま唇を通して出てしまった。


「艮様……あなたは、紅葉姫の恋人だったんじゃないんですか?」


 瞬間、空気が凍りついた。

 功曹、大吉、灯の気配が一変する。


「……っ!」


 気付いた時には、椛の体は壁に叩き付けられ、目の前で功曹が獲物を狩るような目で首を締め上げていた。


 灯が必死に功曹の腕へ噛みつき、尖った牙が肉を食い破る。血が滴り落ちるが、功曹の手の力は緩まない。


「功曹!やめろ!」

「艮様、お下がりください!」


 大吉は艮を制するように前へ出て、椛を睨み据えた。


「女……余計なことを口にするな。もしお前が本当にあの女の生まれ変わりなら、さっさとこの社から出ていけ」

「ぐっ……く、るし……はな、して……!」


 功曹の指が喉に食い込み、椛の身体は床から持ち上げられ、足が宙を蹴る。息ができない。視界が暗く滲む。必死に功曹の腕を掴むが、力が入らない。


 ──なんで。どうして、私がこんな目に。


 理不尽への苛立ちが込み上げる。帰れるものなら、とっくに帰りたいのに。生まれ変わりだとか姫だとか、知ったことではない。


「こっ……の!離せって言ってんだろ!!」


 椛は最後の力で拳を握り、功曹の顔面へ叩きつけた。


「ぐっ……!」


 功曹は呻き声を上げ、ついに椛を放す。椛は床に崩れ落ち、激しく咳き込みながら空気を貪った。


「げほっ……はぁ、はぁっ……!」

「モミジ姫、ご無事ですか!?このクソ虎め、姫に何をするのです!」


 灯が椛の前に立ちふさがり、低く唸り声を上げて功曹を威嚇する。


「やはり危険なのです……クソ虎とクソ牛がいる場所に姫を留めるわけにはいかないのです!力は弱いですが、我らが命に代えてもお守りするのです!さあ、姫、このような場所は早く出ましょうなのです!」


 灯の小さな背中は、今にも砕けそうなほど震えていた。だがその姿は、椛にとって何よりも勇敢に見えた。


「功曹、大吉。これで彼女に対して非道な行いは二度目だよ」


 艮の落ち着いた声が、しかし底冷えするような響きで広間に満ちた。

 功曹と大吉はビクリと肩を跳ねさせる。振り返らずとも分かる、主の怒りの気配。


「椛、灯。申し訳ない」


 艮は二人の前に立つと、静かに頭を垂れた。


「主様!主様が頭を下げることはありません!」


 大吉が慌てて駆け寄り、顔を上げるように必死で訴える。


「主!この女は危険だ!主に何かあってからでは──」

「何が危険なんだ?」


 艮は頭を上げ、功曹へと鋭い眼差しを向ける。その言葉は容赦なく遮った。


「彼女たちは一度だって私たちに害を為そうとしたか?」


 凍りつく空気に、功曹も大吉も言葉を失う。


「椛に対してお前たちが警戒しているのは分かっている。……彼女が大妖の生まれ変わりだからか? それとも別の理由か?」

「そ……それは……」


 言い淀む二人。


「あるいは、彼女の言葉が原因か」


 艮は椛へ視線を移す。


「椛、君は私と紅葉姫が恋人ではなかったのかと問うたね。……君にだけは伝えておこう。私は一度、生まれ変わっているんだ」


 艮の口から告げられた言葉に、椛は思わず息を呑んだ。


「生まれ変わりといっても人間の輪廻とは違う。私には二百年よりも前の記憶がない。私たち神を束ねる御方、御中主(みなかぬし)がそう仰ったから、私はそうなのだと思っている」


 そう言いながら艮は歩み寄り、椛の首に手を添える。淡い光が宿り、苦しかった痕跡はすうっと消えていった。


「……これまで興味もなかった。だが、前世の縁が理由で二人が椛を害そうとするならば、看過できない」


 艮の声は低く、冷ややかで、それでいて抗いがたい威圧感を放っていた。


「語れ。私たちの過去に何を知っているのか。……それが出来ぬなら、この場を立ち去れ」


 功曹も大吉も口を開こうとしたが、その眼光に射すくめられ、言葉は喉奥で凍りつく。

 結局、二人はうなだれて部屋を後にした。


 静寂が訪れる。


「痛みや違和感はないかい?」


 艮の声音は先程までとは打って変わり、優しい。

 椛はおそるおそる喉元に手をやり、驚いたように瞬きをした。艮の力で痛みは消えていた。


「……大丈夫。でも、その……あの二人のこと、良かったんですか?」


 二人が出ていくときの、気落ちした背中が脳裏に焼きついて離れない。自分のせいで、と小さな罪悪感が胸に広がる。


「語らぬことを選んだのはあの二人だ。頭を冷やす意味でも、今はこれでいい」


 艮は淡々とそう告げたが、その瞳には彼なりの憂慮がちらついていた。


「話の続きをしよう」


 艮が静かに空気を切り替える。


「私は君に、元の世界へ返すことは出来ないと言ったね。けれど……一柱だけ、その方法を知っているかもしれない御方がいる」

「それは、本当っ!?」


 思いも寄らぬ天の言葉に、椛は思わず艮の襟を掴んで引き寄せていた。


「けれど、そう簡単にお会い出来る方ではない。この大陸、そして私たち八つの土地神を束ねる御方……御中主(みなかぬし)だ」

「御中主……」


 その名を口にした瞬間、室内の空気が少しだけ張り詰めた気がした。


「拝謁を賜わるには時間がかかる。それまではこの社に身を置くといい」

「その御中主に会うには時間って、どのくらいかかるの!?」

「……早くてひと月だな」

「そんなに!?」


 人間にとってひと月は途方もなく長い。椛はガクリと項垂れて、掴んでいた艮の襟から力なく手を離した。


「焦る気持ちは分かるよ。でも無駄な時間にはならない。君の身を守り、出来ることは私も協力しよう」


 艮は椛の目を真っ直ぐに見て告げる。その言葉は不思議と胸の奥に温かく響いた。


「まずは──君が初めて来た場所に行ってみるかい?」


 その提案に、項垂れていた椛は顔を上げた。目にはまだ不安があったが、それ以上に確かな光が宿っていた。


「行く!」


 迷いなく、即答でそう答えていた。


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