名付け
「さて、先ずは何から話そうか」
艮は右手を顎に添え、しばし思案するように目を細めた。
「君にも色々と知りたいことがあるだろうが、こちらも君に尋ねねばならぬことが多い。それに、そこの餓鬼の君にもね」
ゆったりと口を開き、向かいに座る椛と少女へ視線を移す。
「まずは椛。君の現状の把握から始めよう。……話せそうかい?」
穏やかに問いかけられ、椛は小さく頷いた。
丸二日眠ったことで心も体も幾分落ち着き、初日のように取り乱さずに話すことができそうだった。
椛は自分の知る限りのことを語った。
自分が「地球」という星にある「日本」という国に住んでいたこと。
そこはこの世界よりもはるかに発展した技術を持ち、人々は神や妖を伝承や物語の中で語るが、実際に身近に存在するものではないこと。
そして、この世界は歴史で学んだどの時代にも当てはまらず、建物や風習も自分の知るものと異なることから、全くの別世界だとしか思えないこと──。
話を終えると、艮は腕を組み、深くうなずいた。
「ふむ……。なるほど、確かに椛の話を聞いていると、私たちにとってはまるで架空の物語のようだ。君の世界には、大気圏を突き抜け、さらにその外にある宇宙という空間へ飛び出せる乗り物があるというのか」
艮は目を細め、感嘆とも驚愕ともつかぬ声を漏らす。
「その宇宙から見た君の地球は球体であり、世界の果ては既に見極められている……か。もしそれが真実であるなら、冥海を知らぬのも無理はない。存在しないものは知りようがないからね。……異界の者と結論付けるのは、理にかなっている」
艮の声音には不思議な重みがあり、椛の語ったことが荒唐無稽でありながらも、同時に真実として受け止められていることを感じさせた。
「私は元の世界に帰りたい!私がこの世界に来た時に居た、あの場所に戻れば……何か手がかりがあるかもしれない!」
椛は身を乗り出すように訴えた。
漫画や物語で読んだ異世界転移の定番──井戸や泉、同じ場所から道が繋がる筋書きを、思わず信じたくなった。
しかし艮は首を横に振る。
「あの場所には何も無いよ。君が眠っている間に功曹と大吉に調べてもらったが、異変は何一つなかった」
「けど、私が行けば……!私が行けば、元の世界へ戻る道が開けたり、何か変化が起こるかもしれない!」
必死の形相で食い下がる椛に、艮はしばし考える素振りを見せた後、あっさりと頷いた。
「……君の言うことにも一理ある。ならば後ほど、君を連れてあの場所へもう一度行ってみよう」
思わぬ承諾に、椛は呆気にとられた。艮の声音には疑いも皮肉もなく、ただ静かな受容があった。
艮は椛から視線を外し、隣に座る少女へと目を向ける。
「さて……次は餓鬼の話を聞こうか」
少女は背筋を正す。艮は真っ直ぐに問いを投げた。
「君は餓鬼の中でも力がある方だね。滞在を許しているとはいえ、この社に居るのは辛いだろう?弱き妖なら出入り自由だが、中級以上の妖は本来入れぬよう結界を張っている。……それでも留まる理由は何だい?」
「それでも、私は……もう二度とモミジ姫の傍を離れたくないのです」
少女は震える指で椛の服の端を握りしめた。
艮は目を細める。
「なるほど。他の妖たちは彼女を“生まれ変わり”と呼び、君らも“姫”と呼んでいる。小物どもは彼女を守るが、外の妖は逆に命を狙っている……。その理由を、君の口から聞かせてもらおう」
少女は迷うように俯き、そして椛を見上げた。
椛も困惑した表情で見返す。視線が交わり、少女は意を決した。
「……紅葉姫は、私たち餓鬼や小鬼にとっての王なのです」
その言葉に、椛は息を呑む。
「紅葉姫は鬼の姫なのです。ご両親は北東の地を束ねる大妖怪で、多くの妖の頂点に立つ御方だったのです。ですが千年前の神妖大戦で、数多の大妖怪や中級の妖が討たれ……紅葉姫のご両親も命を落としたのです。北東の地で大妖の血を継ぐのは紅葉姫ただ一人となり……」
少女の声は震えながらも、真実を伝えようとする強さがあった。
「ですが、その紅葉姫も三百年前、人間に討たれたのです。……それでも姫は最後まで我らを庇い、人間に捕らえられても決して誰一人傷つけなかったのです」
少女は椛の瞳をじっと見据えた。
「モミジ姫……貴女は、その紅葉姫と同じ魂魄を継ぐ者。……姫の生まれ変わりなのです」
椛の脳裏に、幾度も夢で見た断片的な情景がよぎる。
燃え盛る炎。涙を流す男。名も知らぬ女の影。
ーー夢ではなかった。あれは、紅葉姫の記憶だったのだ。
「私は……紅葉姫じゃないよ。助けてくれたことは感謝してる。でも、あなた達が知ってる紅葉姫の記憶は私には無いし、生まれ変わりと言われても困る……。私はただの女子高生で、別世界の秋津椛だから」
目の前の少女や、椛をこの世界に呼んだ誰かは妖である紅葉を求めているのだと悟った。
冗談じゃない。生まれ変わりだと言われて、そうすんなり受け入れられるわけがない。
十七年間、秋津椛として生きてきた。椛としての思い出も、人生もある。大切な人たちだっている。椛の居場所は家族や友達のいるあの世界だけだ。
僅かな否定を滲ませた椛の言葉に、少女は悲しげに顔を俯かせた。
「餓鬼。君に名前はあるのかい?」
気まずい空気を破るように艮が少女へ尋ねた。
矛先を向けられた少女は一瞬驚いたあと、静かに首を振る。
「我々、元は小妖怪には個別の名称はないのです。名を持てるのは大妖怪だけなのです」
「うーん、それは不便だな。それでは君を他の餓鬼との呼び分けが出来ない。どうだろう、椛。君が彼女に名を与えてみないかい?」
その提案に、真っ先に首を振ったのは少女だった。
「そ、そんな……。私のような小物に名など頂けないのです」
「呼称が持てる云々は妖内での掟だろう?私たちには関係ないことだ。呼び名がないと不便だという我々の我意だよ。椛も彼女を呼ぶ時に名がないと困るよね」
艮の言葉に、確かにと頷く。
他と区別するために名称を得るのは、互いにとっても利がある。
「だから、ね。君がつけてあげなさい」
「わ、私が!?」
「彼女が慕っているのは君だ。理由はどうあれ、君を守りたいと思って傍にいるのは事実だよ。それに、我々に名付けられるより椛に名付けてもらった方が彼女も嬉しいだろう」
艮の言葉に、椛は何も言えなくなってしまった。
自分よりも小さな体の少女に助けられたのは事実だ。名前くらいなら……。
「……あか……り。あかりはどうかな?」
少女と艮の視線が椛に集まる。恥ずかしさで思わず語尾を弱めながら、椛は続けた。
「この世界に来て、不安で恐怖に押し潰されそうだったとき……最初に助けてくれたのがこの子だった。正直、あのときは混乱してたけど、心のどこかで安堵もしてたの。暗い気持ちに光を差してくれた……そんな存在だから、『灯』ってつけてみたんだけど……どうかな……」
口にした瞬間、顔が熱くなる。安直すぎるかもしれないと、思わず言葉尻を濁す。
恐る恐る二人を見上げると、艮は嬉しそうに微笑み、少女は目を輝かせていた。
「彼女も気に入ったようだね」
艮の言葉に、灯と名付けられた少女は大きく首を縦に振った。
「モミジ姫から頂いた名……!気に入らないはずがないのです!こんなに嬉しいことはありません!」
その頬を伝う涙に、椛は思わず目を丸くする。
「泣くほど……!?……でも、妖にとって名前って、それほど大切なものなんだね」
椛の世界では、名は生まれたときから当たり前に与えられる。だがその響きに込められた思い、大切な人に呼ばれる喜びは、きっと灯も同じなのだ。
「うん。とても良い名前だね」
艮も静かに頷き、灯と名付けられた少女は、涙の笑みを浮かべて椛に深々と頭を下げた。




