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もみじの黄泉路  作者: 荒々繁
黎明
7/11

一椀の救い

 山頂に、立派な社が姿を現した。

 大きな鳥居から伸びる広い参道。威風堂々とした楼門、壮麗な拝殿。その奥にいくつもの屋根が重なり合う御本殿が続く。どっしりとした木造の佇まいは、長い歳月と神威を感じさせた。


 椛たちを乗せた犬影は、拝殿と本殿の間に静かに降り立った。


「ありがとう、狛犬」

「わうっ」


 艮が頭を撫でると、狼だと思っていたその獣は、ひと鳴きしてポンと音を立て、ふわりと縮んだ。さっきまでの荘厳華麗な姿は消え、もっちりとした子犬のような狛犬になっていた。


 ──か、可愛い。


 その愛らしい姿に、椛は思わず胸を打たれた。


「さあ、中に入ろう」


 艮は椛と少女を促し、本殿の中へと進んだ。一般に本殿は拝殿より小さく、御神体を祀るだけの簡素な作りであることが多い。しかしここは、顕現する神が住まうにふさわしい寝殿造りのような佇まいで、拝殿よりさらに深い落ち着きと温かみがあった。


「今日はもう遅い。色々あっただろうから、よく休むといい。部屋の案内と身の回りの世話は、式にさせよう」


 艮は懐から四枚の紙を取り出すと、息を吹きかけた。紙面にしたためられた「式」の文字がふわりと浮かび上がり、やがて百センチほどの式神が四体、静かに顕れた。


「さあさあ、御客人。お部屋はこちらです」


 式神たちは礼儀正しく椛と少女の手を取り、引っ張るようにして先導した。


「あ、あのっ。私、一刻も早く元の世界に帰りたいんです!帰り方を知っているなら教えてください!」


 椛は式神の手を振り払うようにして艮へ駆け寄り、必死に訴えた。顔に浮かぶのは恐怖と切望。艮はゆっくりと両手を袖に収め、困ったように眉を下げる。


「名は椛と言ったかな?もし本当に君が言う“異世界”から来たのだとしたら、すまないが、私にはその力がない」

「そんな……」


 椛の声が潰れ、絶望の色が滲む。


「私を呼んだのは貴方じゃないの!?いつも夢に出てきたのはあなたでしょ!?……いや、違う」


 言いかけて、彼女はハッとした。夢に出てきた男は確かに目の前の艮と重なる。しかし、椛は別の何かが自分を「呼んだ」のではないかと気づく。


「金……神。艮様、『金神』っていう神様を知らない?私、多分金神に呼ばれてここに来たの!」


 艮は一瞬考える素振りを見せ、やがて小さく首を振った。


「私の知る限り、金神という名の者はいない。少なくとも、私は会ったことがないよ」


 その言葉は、椛の心を再び奈落へと突き落とした。

 元の世界に帰る術も、手がかりすらもない。


 椛の胸の奥から、希望という名の灯火がかき消されていく。力が抜け、ただその場に立ち尽くすしかなかった。


「さあ、行きますよ。御客人」


 式神の一体が静かに手を取ると、椛を廊下へと導いた。畳の匂い、障子越しに揺れる灯り。どれも見慣れないはずなのに、不思議と重苦しく心を沈める。


「こちらのお部屋でお休みくださいませ」


 案内された一室には、既に清潔な布団が敷かれていた。放心状態のまま布団の中央まで連れて行かれると、式神はすっと紙片に戻り、ふわりと床に落ちて動かなくなった。


 ──どれほど時間が過ぎたのか。


 ぼんやりとした意識の中で、椛の脳裏に何度も何度も家族や友達の顔が浮かんでは消えていく。

 友人たちの笑顔。家族の声。手を伸ばしても届かない幻影ばかり。


 ──もう、みんなに会えないの?


 胸の奥が裂けるように痛んだ。気づけば涙が頬を伝い、次々と布団を濡らしていく。


「帰りたい……よ……っ」


 嗚咽を押し殺すように枕へ顔を埋め、声を詰まらせる。孤独と恐怖が心を締めつけ、身体ごと小さく丸めるしかなかった。


 やがて、涙に疲れた椛はそのまま眠りへと沈んでいった。



────


「起きないね」

「まだかな?」

「僕らの姫が還ってきた」

「早く起きないかな?」


 耳元で囁く声に、椛はゆっくりとまぶたを開けた。

 目の前に飛び込んできたのは、手のひらほどの大きさの、奇妙で愛らしい人ならざるモノたち。


「うわぁっ!」


 思わず飛び起きると、小さな妖たちが彼女を取り囲んでいた。

 その時、襖が音を立てて開く。


「やっと起きたか、寝坊助」


 背に朝日を浴びながら立っていたのは功曹だった。


「……貴方は、功曹さん……?」

「安心しろ。その小物どもに人を襲う力は無い。さっさと起きて居間へ来い」


 ぶっきらぼうに告げる功曹の言葉に、妖たちは一斉に反発する。


「我らが姫を襲うわけがなかろう!」

「なんと無礼な神使だ!」


 甲高い声や低い声が入り乱れ、部屋の中は騒がしくなる。


 ──夢じゃ、なかった。


 眠りにつく前、「目を覚ませば元の世界に戻っているのでは」と願った自分を思い出し、胸が締めつけられる。


「姫、どうされたのですか」

「何か悲しいのですか?」


 小さな妖たちが心配そうに覗き込み、肩や裾をちょんちょんと引っ張る。

 もう二度と元の世界に帰れないかもしれない──そう思った瞬間、また涙が溢れて止まらなくなった。


「ちっ……さっさとしろ!」


 苛立ったように功曹が舌打ちし、乱暴に急かす。

 椛は慌てて手の甲で涙を拭い、よろめきながらも立ち上がった。


「着いてこい」


 功曹の背に従い廊下を進むと、居間には艮と大吉の姿があった。


「おはよう。ようやく目を覚ましたね。君は丸二日も眠り続けていたんだよ。無理もない……ずいぶんと疲れていたようだったからね」


 艮の柔らかな声に、椛は驚いた。二日も眠っていたなんて──。


「モミジ姫!漸く起きたのですね!全然目を覚まさないから、心配で心配で……!」


 背後から突然、どんっと衝撃を受けて振り返ると、山中で出会ったあの少女がいた。

 今は小綺麗な着物に前掛け姿で、頬を紅潮させている。


「その子もずっと君を心配していたんだよ。社に置いてほしいと頼み込んできて、君の身体を拭いたり、夜は君の傍で目覚めを待っていたんだ」


 艮の言葉に、椛は胸を突かれる。


「……そう、だったんだ。ありがとう」


 少女へ向き直って礼を言うと、彼女はぶんぶんと首を振り、胸を張って答えた。


「礼など不要なのです!姫をお助けするのは当たり前なのです」


 椛は時折出てくる「姫」という単語に違和感を覚えた。

 この世界に来たばかりの時は自分のことで精一杯で、混乱と不安に押し潰されそうになり、元の世界に戻ることしか頭になかった。


「あの……その姫って言うのは?」

「一先ず、座って話そうか。二日も眠っていて何も食べていないだろう?話すのは一息ついてからがいい」


 艮の言葉に少女がぱっと立ち上がり、居間を飛び出していった。

 程なくして戻ってきた手には盆があり、白い湯気をたなびかせる粥の椀が載せられていた。

 鼻腔をくすぐるやわらかな香りに、ずっと忘れていたはずの空腹が一気に主張を始める。


 ぐぅ……と鳴った腹の音が、静かな室内に響いた。

 恥ずかしさよりも先に、どうしようもない食欲が込み上げてくる。


「いただきます……」


 両手を合わせ、椛は匙を口に運んだ。


 瞬間、熱を帯びた米の甘みが舌に広がり、ほろりと崩れる粒が喉へと滑り落ちていく。

 淡い塩味が空っぽの胃にじんわりと沁み渡り、体の芯まで温かさが満ちていく。


 ──美味しい……!


 止まらなかった。

 次から次へと匙を運び、碗を掻く音だけがやけに大きく響いた。

 ひと口ごとに全身に力が戻っていく感覚に、気づけば頬を伝うものがあった。


 それが涙だと気づいたのは、椛がようやく息をついた時だった。

 絶望に沈んでいた心が、温かなお粥ひとつで救われていく。

 帰れないという現実は消えないのに、ほんの少しだけ、生きていたいと思わせてくれる味だった。

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