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もみじの黄泉路  作者: 荒々繁
黎明
4/11

異界

 鼻腔をつく湿った土の匂いに、椛はゆっくりと瞼を開いた。

 最初に目に入ったのは、赤や黄色に染まった落ち葉の山だった。

 俯せていた身体を起こすと、背中からぱらぱらと乾いた葉が落ちる。

 背面にも降り積もるほど、長い時間気を失っていたのだと気づいた。


「……ここは、どこ?」


 周囲を見渡せば、見渡す限り落葉樹の森。

 枝という枝に紅や金の葉をまとった木々が連なり、夕陽を受けてきらめいている。

 さわさわと葉擦れの音が響き、ひやりとした風が頬を撫でた。

 その冷たさに、思わず椛は身を震わせ、腕を擦って温める。


 何かがおかしい。

 自分がいたのは初夏から夏へ移ろう季節。

 それなのに目の前には、秋そのものの光景が広がっている。


「寒い……。とにかく、この場所を確かめて、森から出なきゃ」


 携帯も、通学鞄も、どこにも見当たらない。

 頼れるものは制服の身ひとつ。

 陽は既に傾き、黄みを帯びた光が森を斜めに照らしていた。

 このまま夜を迎えるのは危険だと直感し、椛は足を進めた。


 どれほど歩いたのか。獣道を辿り、坂を登り、下り、それでも舗装された道は見当たらない。

 夕陽は地平に沈みかけ、森の奥は次第に暗さを増していった。

 不安が胸を満たしかけた時、ふいに視界が開ける。


 次の瞬間、椛は息を呑んだ。


「……どうして……。夢?でも、私は制服を着てるし……足だって、痛い……」


 目の前に広がるのは、夢で幾度も見た光景だった。

 見慣れた街並みではない。

 眼下には一面の田圃が広がり、どこか懐かしい田舎を思わせる。

 だが、その先にそびえる建造物が、現実ではないことを否応なく突きつけてくる。


 遠目には奈良時代の平城京を思わせる荘厳な城郭。

 だがよく見れば、屋根は反り返り、朱と黒の装飾が施され、灯籠のような光が淡く揺れている。

 和と中華が交わり、さらに人外の住処を思わせる異様な気配。

 まるで、現し世と切り離された幽世が、現実に口を開けているかのようだった。


「……日本じゃない」


 その確信は、椛の目が信じがたい力を持っていることによって裏打ちされた。

 数里も先にあるはずの建物が、手を伸ばせば届くほど克明に見える。

 瓦の細工、欄干に刻まれた模様、人の影まで。


 椛はただ呆然と、夢でしかなかった景色に意識を奪われていた。


「チチチチ……」


 背後から甲高い鳥の声がして、現実離れした光景に呆けていた椛ははっと我に返った。

 いつの間にか、太陽はすっかり沈み、森は夜の帳に飲み込まれていた。


「チチチ……」


 再び響く鳴き声。

 振り返っても、暗い森が口を開けているだけで、鳥の姿はどこにもない。

 リスや小動物の影ははっきりと視えるのに、鳴き声の主だけは見えなかった。


「な、に……これ……」


 椛は、自分の目に得体の知れない恐怖を覚えた。

 確かに視力はいい方だが、人並みを少し超える程度にすぎない。

 それなのに、月明かりすら届かない森の闇で、動物の輪郭を捉えられるなど、生まれて一度も経験したことがなかった。


「チチチチ」

「っ──いたっ!」


 耳元で鳴き声が弾けた瞬間、何かが左の目端を掠めた。

 熱い痛みが走り、思わず手を当てると、生ぬるい液体がぬるりと指に絡む。

 鉄の匂い──血。


「うそ……」


 次の瞬間、左目が唐突に闇に閉ざされた。

 夜闇をも見通していたはずの目が、何一つ映さなくなったのだ。


「チチチチ……」

「チチチチ……」


 鳴き声が、背後からいくつも重なる。

 椛は震える手でハンカチを掴み、傷口を押さえながら駆け出した。


「誰か……!誰か助けて!!」


 恐怖に突き動かされるように、ただ走る。

 舗装された道に慣れきった足は、ローファーでは山道に対応できない。

 枯葉に足を取られ、絡みつく枝に転ばされ、そのたびに体が痛みを訴えた。


「なんで、私が……こんな目に……」


 息が荒く、視界が涙で滲む。

 痛み、困惑、焦燥、そして恐怖が積もり重なり、苛立ちに似た感情が胸を突き破った。


「グルルル……」


 耳障りな鳥の声は、いつの間にか止んでいた。

 代わりに響いたのは、獣の唸り声。

 振り返れば、大きな牙を剥いた狼が闇から躍りかかろうとしていた。


「……ははっ」


 笑い声が零れた。

 少年を助けて電車に撥ねられ、妖怪に食われかけ、今度は知らない世界で狼に喰われようとしている。

 まるで死を繰り返す運命に囚われたかのようだ──そう思った瞬間。


「危ない!みんな!モミジ姫を助けるのですぅ!」

「おーっ!!」


 唐突に、複数の幼い声が闇を破った。

 目の前に四、五歳ほどの子供たちが現れ、狼へと立ち向かっていく。


「モミジ姫!みんなが足止めしている間に、早く起き上がるのです!」


 一人の女の子が椛の腕を掴み、ぐいと引き上げた。


「え、あの子たちは……?」

「心配いらないのです。みんな引き時を知っているのです。それよりモミジ姫が狙われているのです!早くなのです!」


 小さな身体に似合わぬ強さで、女の子は椛の手を引いた。


「チチチチ……」


 また、あの音が響く。


「ちっ……追ってきやがったのです。モミジ姫、もっと速く走るのです!」

「ちょ、待って……はぁ、はぁっ……むり……」

「そんな亀のような鈍さでは追いつかれるのです!」

「そ、そんなこと言ったって……も、もう……うわっ!」


 ローファーでは到底走りきれぬ山道。

 椛の足は再び枯葉に取られ、無情にも地面に叩きつけられた──。


 先程の狼が大口を開け、牙を剥き出しにして迫ってくるのがはっきりと見えた。

 女の子が椛を庇うように小さな体を前に躍り出る。


 椛は咄嗟にその背を抱き寄せ、覆いかぶさった。


「モ、モミジ姫!?何を──」


 驚きの声を上げる女の子。


 ──そう、自分でも分かっている。本当に、何をしているのだろう。


 駅のホームで男の子を助けたときも、そうだった。考えるよりも先に体が動いてしまう。

 小さな頭を胸元に強く押し寄せ、椛は必死に目を閉じた。


大吉(だいきち)功曹(こうそう)!」


 鋭い声が闇を裂いた。

 直後、ふわりと頭上を覆う影と、懐かしいような安堵を誘う匂いに包まれる。


「ギャウッ!」

「ギャオオッ!!」


 獣の断末魔が耳を突いた。

 目を細く開ければ、灰色の袖が視界を覆い、その向こうに狼の首が飛び散る光景が僅かに映る。


「──見てはいけないよ。目を瞑っといで」


 低く、優しい声音が頭上から降る。

 その響きは不思議なほど抗い難く、椛は言われるままぎゅっと目を閉じた。


 塞いではいない耳に、外の音がすうっと遠のいていく。

 断末魔も、枝葉を揺らすざわめきも、すべて閉ざされた世界。

 ただ、頭上の男の温もりと声だけが確かに残っていた。


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