異界
鼻腔をつく湿った土の匂いに、椛はゆっくりと瞼を開いた。
最初に目に入ったのは、赤や黄色に染まった落ち葉の山だった。
俯せていた身体を起こすと、背中からぱらぱらと乾いた葉が落ちる。
背面にも降り積もるほど、長い時間気を失っていたのだと気づいた。
「……ここは、どこ?」
周囲を見渡せば、見渡す限り落葉樹の森。
枝という枝に紅や金の葉をまとった木々が連なり、夕陽を受けてきらめいている。
さわさわと葉擦れの音が響き、ひやりとした風が頬を撫でた。
その冷たさに、思わず椛は身を震わせ、腕を擦って温める。
何かがおかしい。
自分がいたのは初夏から夏へ移ろう季節。
それなのに目の前には、秋そのものの光景が広がっている。
「寒い……。とにかく、この場所を確かめて、森から出なきゃ」
携帯も、通学鞄も、どこにも見当たらない。
頼れるものは制服の身ひとつ。
陽は既に傾き、黄みを帯びた光が森を斜めに照らしていた。
このまま夜を迎えるのは危険だと直感し、椛は足を進めた。
どれほど歩いたのか。獣道を辿り、坂を登り、下り、それでも舗装された道は見当たらない。
夕陽は地平に沈みかけ、森の奥は次第に暗さを増していった。
不安が胸を満たしかけた時、ふいに視界が開ける。
次の瞬間、椛は息を呑んだ。
「……どうして……。夢?でも、私は制服を着てるし……足だって、痛い……」
目の前に広がるのは、夢で幾度も見た光景だった。
見慣れた街並みではない。
眼下には一面の田圃が広がり、どこか懐かしい田舎を思わせる。
だが、その先にそびえる建造物が、現実ではないことを否応なく突きつけてくる。
遠目には奈良時代の平城京を思わせる荘厳な城郭。
だがよく見れば、屋根は反り返り、朱と黒の装飾が施され、灯籠のような光が淡く揺れている。
和と中華が交わり、さらに人外の住処を思わせる異様な気配。
まるで、現し世と切り離された幽世が、現実に口を開けているかのようだった。
「……日本じゃない」
その確信は、椛の目が信じがたい力を持っていることによって裏打ちされた。
数里も先にあるはずの建物が、手を伸ばせば届くほど克明に見える。
瓦の細工、欄干に刻まれた模様、人の影まで。
椛はただ呆然と、夢でしかなかった景色に意識を奪われていた。
「チチチチ……」
背後から甲高い鳥の声がして、現実離れした光景に呆けていた椛ははっと我に返った。
いつの間にか、太陽はすっかり沈み、森は夜の帳に飲み込まれていた。
「チチチ……」
再び響く鳴き声。
振り返っても、暗い森が口を開けているだけで、鳥の姿はどこにもない。
リスや小動物の影ははっきりと視えるのに、鳴き声の主だけは見えなかった。
「な、に……これ……」
椛は、自分の目に得体の知れない恐怖を覚えた。
確かに視力はいい方だが、人並みを少し超える程度にすぎない。
それなのに、月明かりすら届かない森の闇で、動物の輪郭を捉えられるなど、生まれて一度も経験したことがなかった。
「チチチチ」
「っ──いたっ!」
耳元で鳴き声が弾けた瞬間、何かが左の目端を掠めた。
熱い痛みが走り、思わず手を当てると、生ぬるい液体がぬるりと指に絡む。
鉄の匂い──血。
「うそ……」
次の瞬間、左目が唐突に闇に閉ざされた。
夜闇をも見通していたはずの目が、何一つ映さなくなったのだ。
「チチチチ……」
「チチチチ……」
鳴き声が、背後からいくつも重なる。
椛は震える手でハンカチを掴み、傷口を押さえながら駆け出した。
「誰か……!誰か助けて!!」
恐怖に突き動かされるように、ただ走る。
舗装された道に慣れきった足は、ローファーでは山道に対応できない。
枯葉に足を取られ、絡みつく枝に転ばされ、そのたびに体が痛みを訴えた。
「なんで、私が……こんな目に……」
息が荒く、視界が涙で滲む。
痛み、困惑、焦燥、そして恐怖が積もり重なり、苛立ちに似た感情が胸を突き破った。
「グルルル……」
耳障りな鳥の声は、いつの間にか止んでいた。
代わりに響いたのは、獣の唸り声。
振り返れば、大きな牙を剥いた狼が闇から躍りかかろうとしていた。
「……ははっ」
笑い声が零れた。
少年を助けて電車に撥ねられ、妖怪に食われかけ、今度は知らない世界で狼に喰われようとしている。
まるで死を繰り返す運命に囚われたかのようだ──そう思った瞬間。
「危ない!みんな!モミジ姫を助けるのですぅ!」
「おーっ!!」
唐突に、複数の幼い声が闇を破った。
目の前に四、五歳ほどの子供たちが現れ、狼へと立ち向かっていく。
「モミジ姫!みんなが足止めしている間に、早く起き上がるのです!」
一人の女の子が椛の腕を掴み、ぐいと引き上げた。
「え、あの子たちは……?」
「心配いらないのです。みんな引き時を知っているのです。それよりモミジ姫が狙われているのです!早くなのです!」
小さな身体に似合わぬ強さで、女の子は椛の手を引いた。
「チチチチ……」
また、あの音が響く。
「ちっ……追ってきやがったのです。モミジ姫、もっと速く走るのです!」
「ちょ、待って……はぁ、はぁっ……むり……」
「そんな亀のような鈍さでは追いつかれるのです!」
「そ、そんなこと言ったって……も、もう……うわっ!」
ローファーでは到底走りきれぬ山道。
椛の足は再び枯葉に取られ、無情にも地面に叩きつけられた──。
先程の狼が大口を開け、牙を剥き出しにして迫ってくるのがはっきりと見えた。
女の子が椛を庇うように小さな体を前に躍り出る。
椛は咄嗟にその背を抱き寄せ、覆いかぶさった。
「モ、モミジ姫!?何を──」
驚きの声を上げる女の子。
──そう、自分でも分かっている。本当に、何をしているのだろう。
駅のホームで男の子を助けたときも、そうだった。考えるよりも先に体が動いてしまう。
小さな頭を胸元に強く押し寄せ、椛は必死に目を閉じた。
「大吉!功曹!」
鋭い声が闇を裂いた。
直後、ふわりと頭上を覆う影と、懐かしいような安堵を誘う匂いに包まれる。
「ギャウッ!」
「ギャオオッ!!」
獣の断末魔が耳を突いた。
目を細く開ければ、灰色の袖が視界を覆い、その向こうに狼の首が飛び散る光景が僅かに映る。
「──見てはいけないよ。目を瞑っといで」
低く、優しい声音が頭上から降る。
その響きは不思議なほど抗い難く、椛は言われるままぎゅっと目を閉じた。
塞いではいない耳に、外の音がすうっと遠のいていく。
断末魔も、枝葉を揺らすざわめきも、すべて閉ざされた世界。
ただ、頭上の男の温もりと声だけが確かに残っていた。




