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もみじの黄泉路  作者: 荒々繁
序章
2/11

こえ

 ジリリリリ──と、耳をつんざく音が鳴り響き、秋津 椛(あきつ もみじ)は夢の中から引き戻された。


「……また、あの夢」


 ぼんやりとした視界のまま、ゆっくり上半身を起こす。深く息を吐き、膝を抱え込んだ。


「あれって……続きなのかな」


 いつもは、男と寄り添う場面を最後に夢は途切れる。

 だが今回は違った。複数の人間に取り囲まれたときの、あの冷たく重い恐怖が、まだ胸の奥で渦巻いている。

 手のひらには冷たい汗。指先まで血の気が引き、体温が奪われていくようだった。


 もう一度、大げさなくらいの溜息を漏らし、膝に顔を埋める。

 目を閉じれば、闇が広がり、耳だけが妙に敏感になる。


 ──今にも、あの声が聞こえてきそうだ。


 耳の奥にまだ残っている、男の低い声。

 どうしてだろう。胸がじんわりと、せつないもので満たされていく。


「……じ、も……じ……もみじッ!」


 ハッと顔を上げた。名前を呼ばれた気がして、慌てて辺りを見渡すが、自分しかいない。

 静まり返った部屋が、現実を突きつけるように冷たい。


 ふと、枕元の時計に目がいった。


「やば……遅刻する!」


 短針は七、長針はすでに半分を越えていた。

 慌てて制服に着替え、髪を整え、部屋を飛び出す。


「椛、朝ごはんはちゃんと食べていきなさい!」

「ごめん、お母さん!明日はちゃんと食べるから!いってきまーす!」


 玄関先で母の声を背に、靴をつっかけ、勢いよく家を出た。

 ──それが、母と交わした最後の言葉になるとは、このときの椛は夢にも思わなかった。


 息を弾ませながら最寄り駅へ急ぐ。


「……間に合った」


 何とか通学電車の時間帯に滑り込み、胸を撫で下ろす。

 駅のホームは通勤・通学客でごった返し、熱気とざわめきに包まれている。

 少しでも人の少ない場所を求め、椛はホームの端まで歩いた。


 先頭には、黄色い線の外に立つ三、四歳ほどの男の子と、その手を片手で繋ぎ、もう片方で携帯を弄る母親がいた。

 男の子はさらに一歩前へ踏み出し、身を乗り出して線路を覗き込む。

 その身体が傾き、母親の手から小さな手がすり抜けた。

 少年の身体が線路へと投げ出され落ちた。


 次に来るのは、通過電車。

 アナウンスはすでに流れ、遠くから唸るような走行音が迫ってきている。車体はもう肉眼で確認できる距離だ。


 ホーム内がざわめき、駅員を呼びに走る者、停止ボタンを押す者──だが間に合わない。

 誰もが「もう駄目だ」と思ったその瞬間。


 椛は迷わず駆け出していた。

 ホームの先頭まで一気に走り抜け、そのまま飛び降りる。

 線路の下に空洞がある。そこへ泣き叫ぶ男の子を放り投げた。

 乱暴な動きで擦り傷を負わせてしまったが、線路からは脱出できた。


 視界の端に、巨大な鉄の塊が迫る。


「あーあ……短い人生だったな」


 目を瞑り、衝撃に備える。

 悲鳴と鉄の咆哮が遠のき、脳裏に過去の記憶が早回しのように流れていく。


 ──これが、走馬灯か。


「……みつけた」


 不意に耳元で、あの男の声がした。

 次の瞬間、強く腕を引かれ、世界がぐにゃりと歪む。


 電車と接触する直前──椛の身体は、跡形もなく消えた。

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