こえ
ジリリリリ──と、耳をつんざく音が鳴り響き、秋津 椛は夢の中から引き戻された。
「……また、あの夢」
ぼんやりとした視界のまま、ゆっくり上半身を起こす。深く息を吐き、膝を抱え込んだ。
「あれって……続きなのかな」
いつもは、男と寄り添う場面を最後に夢は途切れる。
だが今回は違った。複数の人間に取り囲まれたときの、あの冷たく重い恐怖が、まだ胸の奥で渦巻いている。
手のひらには冷たい汗。指先まで血の気が引き、体温が奪われていくようだった。
もう一度、大げさなくらいの溜息を漏らし、膝に顔を埋める。
目を閉じれば、闇が広がり、耳だけが妙に敏感になる。
──今にも、あの声が聞こえてきそうだ。
耳の奥にまだ残っている、男の低い声。
どうしてだろう。胸がじんわりと、せつないもので満たされていく。
「……じ、も……じ……もみじッ!」
ハッと顔を上げた。名前を呼ばれた気がして、慌てて辺りを見渡すが、自分しかいない。
静まり返った部屋が、現実を突きつけるように冷たい。
ふと、枕元の時計に目がいった。
「やば……遅刻する!」
短針は七、長針はすでに半分を越えていた。
慌てて制服に着替え、髪を整え、部屋を飛び出す。
「椛、朝ごはんはちゃんと食べていきなさい!」
「ごめん、お母さん!明日はちゃんと食べるから!いってきまーす!」
玄関先で母の声を背に、靴をつっかけ、勢いよく家を出た。
──それが、母と交わした最後の言葉になるとは、このときの椛は夢にも思わなかった。
息を弾ませながら最寄り駅へ急ぐ。
「……間に合った」
何とか通学電車の時間帯に滑り込み、胸を撫で下ろす。
駅のホームは通勤・通学客でごった返し、熱気とざわめきに包まれている。
少しでも人の少ない場所を求め、椛はホームの端まで歩いた。
先頭には、黄色い線の外に立つ三、四歳ほどの男の子と、その手を片手で繋ぎ、もう片方で携帯を弄る母親がいた。
男の子はさらに一歩前へ踏み出し、身を乗り出して線路を覗き込む。
その身体が傾き、母親の手から小さな手がすり抜けた。
少年の身体が線路へと投げ出され落ちた。
次に来るのは、通過電車。
アナウンスはすでに流れ、遠くから唸るような走行音が迫ってきている。車体はもう肉眼で確認できる距離だ。
ホーム内がざわめき、駅員を呼びに走る者、停止ボタンを押す者──だが間に合わない。
誰もが「もう駄目だ」と思ったその瞬間。
椛は迷わず駆け出していた。
ホームの先頭まで一気に走り抜け、そのまま飛び降りる。
線路の下に空洞がある。そこへ泣き叫ぶ男の子を放り投げた。
乱暴な動きで擦り傷を負わせてしまったが、線路からは脱出できた。
視界の端に、巨大な鉄の塊が迫る。
「あーあ……短い人生だったな」
目を瞑り、衝撃に備える。
悲鳴と鉄の咆哮が遠のき、脳裏に過去の記憶が早回しのように流れていく。
──これが、走馬灯か。
「……みつけた」
不意に耳元で、あの男の声がした。
次の瞬間、強く腕を引かれ、世界がぐにゃりと歪む。
電車と接触する直前──椛の身体は、跡形もなく消えた。




