蝶となった姉
とある山あいの村に暮らす姉弟がいた。
両親は町に出稼ぎに行くと言ったきり帰ってくることは無かった。姉は病弱ながらも年の離れた弟を大切に育て、優しく面倒を見てきた。
弟が十五になる頃、元々病弱だった姉がとうとう倒れ立ち上がることさえ出来なくなってしまった。
雪解け水の滴る屋根から、冷たい雫がぽたりと落ちる。
ほころびだらけの家の中、囲炉裏の火だけが二人を照らしていた。
姉は咳を繰り返し、痩せた肩を小さく震わせる。
「ごほっ、ごほっ……ごめんね、不甲斐ない姉で」
「何を言ってるのさ。僕は姉さんと一緒にいれるだけで幸せだよ」
弟はその手を握り返した。
幼いころから自分を守ってくれた温もりが、いまは弱々しく儚い。
病弱ながらも懸命に育ててくれた。その背に支えられてここまで来られた。
今度は自分が一生、姉を支えていくのだと、少年は強く心に誓った。
――けれど、その誓いは長くは続かなかった。
ある日の午後。
突き上げ窓から細い陽光が一筋、室内へと差し込んでいた。
光を伝うようにして、一匹の蝶がふらりと舞い込み――その羽をかすかに煌めかせた。
ひらひらと舞うその姿を、姉は憧れるように目で追い、小さく微笑んだ。
人差し指を差し出すと、蝶はためらうように一度宙を漂ったあと、指に止まり羽を休めた。
「お前はいいね……自分の力で、好きなところへ自由に羽ばたけて」
身体が日に日に弱っていくのが、自分でもわかっていた。
そして、自分の命がそう長くないことも――。
弟は同世代の子と遊ぶこともなく、自分の薬を買うために働いてくれている。
彼女はそれがとても心苦しかった。
小さい頃から弟に我慢を強い、苦労をかけてきたのだ。
病弱のあまり嫁の貰い手もない姉の面倒を、弟が背負わされている――その姿を思うだけで胸が痛む。
──私がいなければ、あの子ももっと自由だったのに。
「ごほっ、ごほっ……」
むせるように咳き込む姉に、驚いた蝶は羽ばたき、家の中をぐるぐるとさ迷った後、入ってきた突き上げ窓からそっと飛び去った。
その夜。
山あいの村を包む冷たい風が、ひときわ強く吹き抜けたころ、姉の病状は急に悪化した。
囲炉裏の火が小さく揺れる中、姉は弟の手を弱々しく握り、何かを伝えようとするように微笑んだあと――静かに息を引き取った。
──────
椛がこの世界に来てから、すでに数日が経っていた。
その間に少しずつ分かってきたことがある。
――この世界は、八つの国と、その中央にある御中主が治める幽世に分かれていること。
幽世は普通の人間が決して辿り着くことのできない場所であり、入れるのは神々や、強い得を積んだ妖ばかりだということ。
また、妖怪についても知った。
妖怪は、人によって「見える者」と「見えない者」がいる。
さらに妖の側にも違いがあり、己の姿を人間に見せられるのは強き力を持つ妖のみ。多くの妖は夜の闇が深まるほど活性化し、人を惑わせ、喰らうのだという。
特に、顔が見えにくい黄昏時には人々を惑わすことが多く、人間たちはその時刻になると家に籠もり、決して外を歩かないようにしていた。
――ただし、首都に住まう者たちは別である。
高くそびえる城壁に守られた首都は、外の世界とはまるで異なる別天地。
夜でも眠らぬその都は、常に提灯や行燈の明かりがきらめき、人の声が絶えることはない。
加えて、都には複数の陰陽師が仕えており、妖怪が現れようともすぐに祓われてしまうのだそうだ。
「姫、今日はお出かけにならないのです?」
傍らで控えていた灯が、首を傾げて問いかけた。
「んー……今日はね、艮様が都に行ってるから、外に出ちゃ駄目だってさー」
椛は居間の机に突っ伏し、頬を膨らませながら、つまらなそうに答えた。
「全く、文句を言いたいのは僕の方だよ。君のせいで、僕は主様について行けなかったんだからね」
不満げな声が聞こえ、椛は突っ伏したまま、ちらりと声の主に目を向けた。
だが、すぐに興味を失ったように視線を逸らし、頬を机に押しつけた。
「ちょっと!聞いてるのかい!?君が紅葉姫としての記憶を失っているから、仕方なくここに居るのを見逃してるけど、本来なら、人間が本殿に踏み入ること自体、不敬なんだからな!」
「貴方こそ、さっきから姫に対して何という口の利き方ですか!神の下僕に成り下がった牛風情が、うるさいのです!モミジ姫は、我ら妖の頂点に立つ御方なのですよ!」
「牛風情だと!?ただの餓鬼の分際で、神使である僕にそんな口をきいていいと思ってるのか!?」
本殿の留守を任されていた用心棒の大吉は、椛への不満をぶつける。
それを聞いた灯は、すかさず目を吊り上げて噛みついた。
互いの言葉は次第に熱を帯び、キャンキャンと犬猫のように言い争いを始める。
「……二人とも、うるさい」
椛はとうとう両耳を塞ぎ、音を遮った。
やることもなく、元の世界へ帰る術も分からない。
ただ漠然と考えながら、開け放たれた襖の先――庭へ視線をやる。
そのとき。
庭の片隅に、ひっそりと一人の女性が立っていた。
「うわあっ!」
椛は思わず声を上げ、背筋を震わせた。
「ごめんください――」
女性は静かに声を発した。
その柔らかな響きに、椛はびくりと肩を揺らした。
「い、いつからそこに!?」
「玄関からお呼びしたのですが、返事がなかったので……上から中の様子を覗いていたところ、こちらに人影が見えたので、勝手に入らせてもらいました」
女は太腿の前で両手を重ね、丁寧な所作で頭を下げた。
その背にあるものを見て、椛は息を呑む。
人間には決して備わらぬもの――陽光を浴び、虹色のグラデーションを描く美しい蝶の羽が、彼女の背から広がっていた。
「とても……綺麗な羽なのです!」
「ありがとうございます」
それまで大吉とやり合っていた灯が女の存在に気づき、目を輝かせた。
女性は優美な微笑みを浮かべ、灯の言葉に頭を垂れる。
「貴女は……蝶化身だね?」
大吉も庭先に目を向け、低い声で尋ねた。
「はい」
蝶化身は頷いた。
羽をたたみながら一歩進み出るその姿は、神秘的で、どこか物悲しさを帯びている。
「蝶化身がどうしてここにいる?結界を通れたことから害意はないと思うけど」
「わたくしは、天界から遣わされた者です。お盆に現世へと一時的に帰った魂を、再び天界へと呼び戻すのが務めでございます」
蝶化身は己の正体を明かすと、わずかに表情を曇らせ、俯いた。
「……ですが、天界への“帰還ラッシュ”の最中に、戻り遅れてしまった魂が幾つもあり、捜索と回収を行っていたのですが……。わたくしでは手に負えない事情が発生いたしました。そのため、北東の地、黎明国を守護し、黄泉送りの神である艮様にお手伝い頂きたく、ここへ参りました」
「悪いけど、見ての通り主様は外出していて不在だ。どんな内容か知らないけど、主様がいる時に出直してくれるかな」
大吉が即座にそう返すと、蝶化身は「そうですか……」と小さく息を吐いた。
「では、艮様はいつ頃お戻りになられますか?」
「さあ?直ぐに戻るとは言っていたけど、都の用事だからね。国王からの話なら、数日は帰って来ないんじゃないかな」
「そ、そんな……!それは困ります……」
蝶化身は焦った様子で声を上げる。
羽の端が小刻みに震えていた。
「そんな事、僕に言われたって。僕だって本当は、片時も主様の傍を離れたくないんだから」
大吉も眉間に皺を寄せ、肩をすくめた。
室内には一瞬、張り詰めた空気が満ちる。
その時、椛は蝶化身の羽の奥に、かすかな震えと切迫した願いを感じ取った。
陽光を受けてかすかに輝く翅が、今にも砕け散りそうなほど細かく震えている。
「……話を、聞かせてくれる?」
椛はそっと声をかけた。
「お前、勝手に何を――」
大吉が言いかけると、椛は淡々と続ける。
「艮様が帰って来た時にすぐ話が出来るよう、内容を聞いておいた方が手間が省けるでしょ?それに、助けを求めてきた者を追い返した、なんて噂が広まったら……艮様の評判も落ちちゃうかも」
その一言で、大吉の顔がさっと青ざめる。
この社は、弱い妖怪や蝶化身のように害意が無く徳のある妖ならば誰でも入って来られる。
そのため、常に色んな妖怪の気配がそこかしこにあり、噂はどこから漏れるか分からないのだ。
艮を敬愛する大吉にとって、彼の評判を傷つけることなどあってはならなかった。
「……あんたの案に乗ったわけじゃないからね!艮様の評判を落とさない為に話を聞くだけだから!艮様の負担になりそうなら、その時は即座に帰ってもらうからな!」
大吉は慌てて言い訳をするように、声を強めた。
その横で、蝶化身はかすかに安堵の息を吐き、胸に手を当てて小さく頭を下げた。
椛は蝶化身を居間へと上げて大吉、灯と共に話を聞くことにした。
「戻り遅れた魂の一つを見つけたのですが、どうやら人間の男に捕らえられ、還りたくとも還れないようなのです。わたくしたちは人と接触することを禁じられていますし、何より彼等に視えることもありませんので、助ける術がないのです……」
蝶化身は静かな口調ながら、切迫した思いをにじませて語り始めた。
「今回、問題が起きた魂は、蝶に宿った女性の魂です。彼女はアサギマダラに身を寄せ、弟君に会おうと現世へ舞い戻ったのですが……その弟君の手によって捕らえられてしまったのです」
その言葉に椛の胸がかすかにざわめく。蝶化身は続けた。
「このままでは彼女は天界へと還ることが出来ません。それどころか、日に日に衰弱し、陰の気に染められて妖へと堕ち始めているのです」
「妖に……堕ちる?」
椛が思わず問い返すと、横から灯が静かに口を挟んだ。
「魂のまま現世に長く留まれば、穢れを受けて心が歪みます。そうして妖へと変じた者は、理を失い、やがては人を襲い、害意を及ぼすようになるのです」
「そんな……」と、椛は眉を寄せる。
「そうなのです」
蝶化身も頷いた。
「彼女が宿っているアサギマダラは、あくまで仮の器にすぎません。輪廻を終えていない魂が長く現世に留まれば、哀しみや未練に引きずられ――妖への道をたどるしかなくなります」
「妖に堕ちたら……どうなるの?」
問いかけた椛の声にはためらいが混じっていた。
「その魂は、厳しい浄化の修行を経ねばなりません。ですが……もし完全に妖怪と化し、人間に害を及ぼした場合、その魂はもはや天へは昇れません」
静かな室内に、重苦しい言葉が落ちた。
「彼女の魂は既に穢れを受け始めています。妖に堕ちたら……弟君の生命力を吸い取り、やがて命を奪ってしまうでしょう。それは、彼女の最も望まぬ結末。そして、そうなってしまっては天界へ還ることも輪廻の輪に戻ることも出来ません」
――弟にひと目会いたいと願い、お盆の機会に現世へ舞い降りただけなのに。
結果、愛する弟を自らの手で死に追いやってしまうなんて。
椛は胸が締めつけられるのを感じた。自分にも弟がいる。もし逆の立場だったなら、と考えるだけで心が痛んだ。
「穢れを受け始めて妖に堕ちるまで……猶予はどのくらいあるの?」
「意志の強さにもよりますが、彼女の魂は弱りつつあります。持って一日かと」
蝶化身の言葉に、椛は深く思案の色を浮かべる。
「おい、あんた……何を考えている。まさか変なことを――」
目敏く大吉が声を荒らげるが、椛は彼を一瞥しただけで、考えを巡らせるのをやめない。
「その魂は、いまどこにいるの?ここからの距離は?」
「ここから十里ほど離れた場所です」
「十里……人間の足なら、どのくらい?」
「そうですね。人の子の足で四刻ほどでしょう」
「四刻……一刻が二時間だから、八時間か」
椛は顎に手を添えて考え込む。
「要は、その捕らわれた蝶を解き放てばいいんだよね?」
「はい。穢れを受け始めてはいますが、わたくしが天界へと導き還ることが出来れば、まだ十分に間に合います」
「わかった!私が行く。その弟と話をして、捕まえた蝶を放すように説得してみる」
「……本当に?」
蝶化身の目が大きく見開かれる。やがて潤んだ瞳で、両手を合わせるようにして深く頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
そうと決まれば即座に動こうとする椛の前に、大吉が行く手を阻むように立ち塞がった。
「勝手なことしないでくれる?僕は君のお守りを主様から言いつかってるんだから、勝手をされると困るんだよね」
「なら、貴方も一緒に来ればいいじゃない」
「は?――」
椛は何でもないことのように答えた。
「君には関係ないことだよね?どうして会ったこともない人のために動こうとするの?」
大吉の問いに、椛は小さく首を傾げる。
「目の前で困ってる人を助けるのに、理由なんて必要?」
人と呼んでいい存在かは疑わしい。けれど話を聞いてしまった以上、放ってはおけなかった。艮がいつ戻るか分からない今、このままでは助けられる魂すら見捨てることになる。
捕らえられた蝶を人の手から解き放つ――それなら自分にも出来るはずだと、椛は思った。
「理由が必要だっていうなら、その姉弟を救いたいと思ったから。妖退治や艮様の代わりに黄泉送りなんて無理だけど……蝶を人の手から救い出すくらいなら、私にも出来るでしょ」
言い切った椛の瞳に迷いはなく、大吉は思わず息を呑んだ。
そして、肩をすくめて大げさに息を吐く。
「はぁ~……君は本当に変わらないな」
「そこが姫の良いところなのです」
すかさず誇らしげに返す灯。その声音は大吉への当てつけのようでもあり、椛を褒める素直な気持ちのようでもあった。
椛は二人のやり取りに思うところがあり、口を挟みたくなったが、ぐっとこらえて唇を噛む。
「式を飛ばすより、僕が直接艮様に報告に行った方が早い。……すぐに後を追うから、くれぐれも無理はするなよ」
大吉の言葉に、椛はこくりと頷いた。
「それと、人間の足じゃ時間がかかりすぎる。狛犬――」
「わうっ!」
呼ばれるや否や、低い唸り声のような鳴き声と共に狛犬が庭先に現れる。陽光をまとって立つその姿は、頼もしくもどこか神々しかった。
「狛犬を使うといい」
「……ありがとう」
椛は自然と礼を口にしていた。大吉には嫌われていると思っていた。だからこそ、不器用ながらも気遣ってくれる言葉が意外で、胸の奥がじんわり温かくなる。
「狛犬さん、よろしくね」
椛がそっと手を伸ばすと、狛犬は嬉しげに頭を下げて撫でやすい高さを作る。撫でられた頭はぬくもりを返し、続けざまに椛の頬をひと舐めした。
柔らかな感触に思わず笑みがこぼれる。
その間に、大吉は丑の姿へと変化し、空を蹴って艮のいる首都へと飛び立っていった。
一方、椛と灯は狛犬の背に跨がり、蝶化身の導きに従って――魂を捕らえた男の住む、山間の集落へと向かっていった。
─────
道信は、姉がこの世を去った後、山の中に小さな墓を作った。
墓といっても、平たい石をいくつか積み重ねただけの簡素なもの。けれど彼にとっては、姉の魂を繋ぎとめる唯一の拠り所だった。
それからというもの、道信は毎日のようにその場所へ足を運んだ。
花を手向け、水を替え、独り言のように近況を語る。
そこに姉が眠っているのだと信じなければ、とても耐えられなかったのだ。
そして、姉を失って初めて迎えるお盆の夕暮れ――。
茜色の空の下、供え物を並べて手を合わせていると、一匹の蝶がひらひらと舞い降りてきた。
道信は、はっと息を呑む。
それは、姉が特に好きだと語っていたアサギマダラだったからだ。
渡り鳥のように何千里も旅をするその蝶を、姉は「自由に空を行けるのが羨ましい」と憧れを込めて話していた。
蝶はひどく人懐っこく、道信の周りをくるくると飛び回る。
やがて、羽を休めるようにそっと彼の肩に降り立ち――頬に触れるように身を寄せた。
その瞬間、道信の胸に直感が走る。
「……姉さん?」
小さく呼びかけると、蝶は羽を細かく震わせた。
それは、まるで返事をするかのように。
もう二度と会えないと思っていた姉が、自分に会いに来てくれたのだ――。
込み上げる感情に、道信の目が潤む。
「姉さん……僕に会いに来てくれたんだね」
声は自然と震えていた。
その感激のままに、彼は蝶を手の中に包み込む。
「一緒に……帰ろう」
そっと囁きながら、道信はその小さな命を胸に抱えて家へと連れ帰った。
だが、屋内に放された蝶は逃げ惑うように飛び回り、戸口へと向かおうとする。
しかし外へ通じる道はすべて閉ざされ、蝶には逃げ場がない。
道信は竹を削り、夜を徹して虫籠を編んだ。
逃さぬよう、失わぬよう、必死に手を動かす。
そして、出来上がった籠に蝶を収めると、安堵のように微笑んだ。
「姉さん……もう大丈夫だ。これで、また一緒に暮らせる」
その声は、どこか幼子が母を呼ぶようにか細く、切実だった。
愛おしさと執着がないまぜになったその言葉を、籠の中の蝶はただ静かに羽ばたいて受け止めていた。
しかし蝶は日に日に弱っていく。
「姉さん……どうして、こんなに弱ってしまったの?」
籠の中で羽を震わせる蝶は、窓の外――遠い空の方をじっと見つめているようだった。
自由に飛びたかった。遠くへ行きたかった。
生前、姉が叶えられなかったささやかな夢を胸に、姉の魂は蝶となり、アサギマダラという仮の宿を得た。現世へ戻ったら、一目だけでも弟に会い、それから生前見られなかった景色を追いかけるつもりだった──。
だが、弟の優しさは、やがて姉を苦しめる檻となった。道信は姉を失う恐怖から、蝶を外に逃がすことができなかったのだ。
お盆が過ぎても、姉の魂は現世に留まり続けた。秋風が山里を冷やす頃には、魂がここにとどまっていられる期間も尽きていた。姉の魂は次第に衰弱し、穢れに蝕まれてゆく。後悔と哀しみに満ちた魂は、いつしか濃い陰気を放ち始めた。陰気は、妖を呼ぶ。
「どうした、悲しいのかい?」
「哀しくないように、私がお前の魂を喰らってやろう」
籠の外から毎晩聞こえてくる、不気味で低い囁き。道信には、もちろんその声の正体は見えないし聞こえない。だが籠の中の蝶は、それを感じ取っている。
「お前を喰らって力を得たら、あの人間も貪ってやる」──そんな約束のような言葉が、夜ごとに重なる。
姉は悟る。もし今籠を抜け出せば、瞬く間に妖の餌食になるだろう。そうなれば、自分が求めていたものとは真逆の結果、弟までをも不幸にしてしまう。籠に閉じ込められたまま、永遠に羽ばたけないのだと。
恐怖と嘆きが、さらに姉の力を奪っていく。羽は細く震え、光は失われていった。やがて籠の底にちらりと、濃い影が垂れこめるように――。
椛たちは人気がない場所に降り立つと、役目を終えた狛犬は社へと帰って行った。
「ごめんください」
椛は目的の家に着き、屋内に向かって声をかけるが返事はなかった。どうやら家主は不在のようだ。
「不味いですね。思ったよりも穢れの侵食が進んでいます」
「姫、ここに留まるのは危険です。妖たちが集まって来ているのです」
「みたいだね……まだ昼間だというのに、小物とはいえ妖怪たちがこんなに集まってるなんて……」
灯の言葉に椛は頷いた。
家の周りには小妖怪たちが群れ、その存在は屋内にまで影を落としていた。
「タイミング良く家主も不在みたい。目的の蝶を救出して、すぐにこの場を離れよう」
山間の人里で人の出入りも少ないせいか、防犯はずさんだった。幸運にも引戸は開け放たれたままだった。
椛は人の気配のない屋内に視線を走らせ、目当ての籠を探す。
「姫!見つけたのです!これですぅ!」
灯が小走りに室内へ入り、竹で編まれた籠を抱え上げる。
「おい、人の家で何をしている」
突然背後から声がかかり、椛はびくりと肩を震わせて振り返った。
そこには椛とそう変わらない年頃の男が、背に薪を担いで立っていた。訝しげな視線が彼女を射抜く。
男には、籠を抱える灯の姿も、椛の傍らに寄り添う蝶化身の存在も見えていない。
ただ、知らぬ女が勝手に自分の家の戸口から中を覗き込んでいる――それだけで十分に不審だった。
「私は旅の者でして。誰か食べ物を恵んでくれないかなーって思って、人を探していたの」
椛は用意していた弁明を口にしたが、男は眉をひそめるばかりだった。
「おなごが一人で旅を?それも、旅道具も持たずに?」
椛はしまった、と内心で顔をしかめる。
確かに今の自分は旅人にしては身軽すぎる姿だ。少しでも弁解を誤れば、ますます怪しまれてしまう――。
ところが、男はふいに口調を和らげた。
「まあいい、腹が減っているのだろう?今日は鮎がよく釣れた。分けてやるから、食べて行くといい」
そう言って背の薪を下ろし、足元に置いた魚篭を手に取る。中には川で獲れたばかりの鮎が何匹も跳ねていた。
思いのほかあっさりと家主に受け入れられ、椛は一瞬呆気にとられた。
「あ、ありがとう……」
「僕は道信。君、名は?」
「私は……椛っていうの」
「椛か。いい名だ。この季節にちょうど似合っているな」
道信は笑みを浮かべる。その素朴な笑顔は、警戒心よりも歓迎の色が濃く、椛は逆に居心地の悪さを覚えた。
「ここは山間の小さな集落だから、人が立ち寄ることも滅多にない。まして他所の人と話すなんて、本当に久しぶりだ。良かったら……旅の話を聞かせてくれないか?」
期待を込めた道信の眼差しに、椛は一瞬、胸の奥が痛んだ。
本当の目的を告げられるはずもなく、かといって適当な作り話をするのも気が引ける。どう答えるべきか……椛は逡巡した。
「さあ。狭い家だけど、遠慮せず上がって」
道信はそう言って家の中へ入っていく。
椛もためらいながらその後に続いた。
その間に、灯は道信が帰って来たことで慌てて籠を元の場所へ戻していた。蓋をこじ開けようとしていたようだが、どうやら作りが複雑で、知恵のない妖では容易に開けられないらしい。幸か不幸か、そのおかげで蝶は集まった妖怪に食われずに生き延びていた。
「ただいま。……姉さん、今日は綺麗な花を見つけたんだ。ほら、これをご飯にしよう」
道信は真っ先に虫籠へと歩み寄り、そっと蓋を少し開けて野に咲いた花を差し入れた。
この世界に来て以来、獣並みに視力が鋭くなった椛の目には、ほんの一瞬だけ開いた籠の中が見えた。
そこには、力なく羽を垂らした蝶が閉じ込められていた。羽ばたく力も残っていないほど弱り果て、今にも息絶えそうに虚脱している。
椛は思わず息をのむ。
「なんて……惨い……」
同様に、その姿を目にした蝶化身も両手で口元を覆い、震える声を漏らした。
《……どうして……還りたい……自由になりたい……》
か細い声が、椛の耳に響いた。
声の主を探して室内を見渡すが、そこに人影はない。
「その声は……籠の中の彼女の魂の思念です」
蝶化身が囁いた。
「この思念は、妖でも聴き取れる者が限られます。……どうやら貴方様には、彼女の声が届いているのですね」
声は震え、怯え、嘆いていた。その悲痛さが椛の胸を締め付ける。
「あの……その籠は?」
椛は道信に怪しまれぬよう、できるだけ自然に尋ねた。
「ああ、この籠には僕の……家族がいるんだ」
「家族?」
「そうさ。……昨年、姉さんが亡くなったんだ。けれどお盆の日、蝶の姿になって会いに来てくれた。これは――姉さんなんだ」
道信は嬉しそうに目を細め、籠を大切そうに撫でる。
「でも……」
椛は言葉を選びながら口を開いた。
「さっき少し見えたけど……その蝶、とても弱ってるように見えた。外に出たいんじゃないかな……?」
静かに助言すると、道信の表情が一変した。
「――他人が口出しするな!!」
鋭い声と共に、椛を射抜くような視線が突き刺さる。
その眼差しは怒りに燃え、同時に必死に何かを守ろうとするようでもあった。
「姉さんは……僕といるのが幸せなんだ!姉さんは僕に会うために、わざわざあの世から戻って来てくれたんだ。だから……僕と一緒にいるのが一番なんだ!」
言葉の端々に滲むのは、強い執着と孤独。
その歪んだ愛情に、椛はぞくりと背筋を震わせた。
「これからご飯の用意をするから、その辺に座っててよ」
道信は、何事もなかったかのように柔らかい声で言い残すと、囲炉裏に火をくべ、夕餉の支度を始めた。
手際は驚くほど良く、山菜を煮込む鍋からは香ばしい匂いが立ち上り、川魚の鮎が炭火の上でじりじりと焼けていく。鼻をくすぐる匂いに、椛の腹は思わず鳴りそうになる。
やがて、山菜の入った熱々のお椀と、程よく焼けた鮎が目の前に差し出された。
「ありがとう」
礼を述べると、道信は静かに微笑んだ。言葉はなくとも、その微笑みの奥には、姉と椛を重ねているような影が見えて、椛はどこか落ち着かない気持ちになる。
食卓に一息つくと、道信は蝶の入った籠を胸に抱きかかえ、宝物を撫でるようにそっと手を添えてから囲炉裏の前に腰を下ろした。
「さあ、食べようか。食べながらでも構わない。椛の旅の話を聞かせてよ。姉さんも、生きていた頃は旅を夢見ていたから……椛の話を聞かせたら、きっと喜ぶと思うんだ」
その言葉を口にする彼の顔は恍惚としていて、籠をなぞる指先にすがりつくような熱がこもっていた。
椛は胸の奥にざらつく違和感を覚えながらも、正体を隠すため、そして道信を刺激しないために、自分が異世界の人間であることは伏せ、これまで見てきた景色や出会った人々のことを語った。
道信は目を輝かせて聞き入り、一度も山間の村を出たことのない彼にとって、その語りは未知の世界を覗き込む窓のようだった。
「はあ~……外には、僕が知らない生き物や食べ物、景色が、本当にたくさんあるんだなあ」
感心したように洩らす道信に、椛は言葉を選びながら提案した。
「道信も……一度は村を出て、外の世界に触れてみるのも、いいんじゃないかな」
その言葉に、道信は一瞬だけ遠い眼差しをしたが、すぐに首を横に振った。
「僕は……姉さんがいるこの地を離れる気はない。姉さんを置いて行くなんて、できないから」
籠を抱く道信の手が、わずかに強く締められる。
その仕草に、椛は言葉を失い、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じた。
籠の中から、かすかに啜り泣く声が響く。
《……どうか、自由に……》
それは、助けを求める声ではなかった。
弟を思いながらも、すでに叶わぬ願いを、誰かに託すような――そんな儚い祈りの声だった。
「お姉さんは……そんなこと、望んでないと思う」
椛は思わず口を開いていた。
弟を想う姉の気持ちは、少しだけわかる。
自分にも弟がいる。
もし、自分が死んだ後も弟が悲しみ続けていたら――自由に生きてほしい、そう願うに違いない。
「どういう意味……?」
道信の瞳が、ゆらりと揺れた。
優しさの裏に潜んでいた何かが、表情の奥から覗く。
その瞬間、家全体が――ぐらりと大きく揺れた。
まるで突風が屋根を吹き飛ばそうとしているかのような振動。
古びた柱が悲鳴を上げ、戸がガタガタと震えた。
「またか……最近は山の風がひどいんだ」
道信はそう言って、揺れる天井を不安げに見上げた。
気づけば、外はすでに暗くなっていた。
薄闇の中、風が吹き荒れるたびに紙障子が鳴る。
「姫、ここは危険です!」
灯が焦った声を上げ、椛の袖を引く。
どういうことかと視線を向けた瞬間――椛の目に、ぞっとする光景が映った。
突き上げ窓の外。
そこに、巨大な目玉がひとつ、じっと家の中を覗き込んでいた。
「おわあああっ!」
椛は思わず叫び、肩を震わせた。
妖が見えるようになってから幾度か遭遇したとはいえ、
それは異形そのものだった。
暗闇に光る瞳孔。見つめられた瞬間、血の気が引く。
「どうした?急に大きな声を出して」
「い、いや……あの窓のところに、変な……ものが」
道信は眉をひそめ、突き上げ窓の方を見た。
だが、当然、彼の目には何も映らない。
それどころか、心配そうに窓際へと歩き出そうとした。
「行っちゃダメ!!!」
椛は咄嗟に立ち上がり、道信の腕を掴んだ。
道信は驚いて振り返る。
「あ、いや……その、ごめん。私の見間違いだったみたい」
笑って誤魔化そうとした次の瞬間――
突き上げ窓の外から、ずるりと黒い鼻面が差し込まれ、家の中の匂いを嗅ぎ回る音がした。
「やっぱりだ……懐かしい匂いがする」
ドスの利いた、底冷えするような声。
その声音には、明確な愉悦が滲んでいた。
「中にいるんだろう、紅葉姫ぇぇ……また弱者を守りに来たのかぁ?えぇ?」
妖の呼び声に、椛の心臓が跳ねた。
──紅葉姫。
それは、前世の椛の名だった。
「その蝶は、俺が先に目をつけてたんだよぉぉ……横取りなんざ許さねぇぇ。その蝶も、お前も……そこの人間も、みーんなまとめて喰ってやるぅぅぅ!!!」
屋根が悲鳴を上げた。
外の妖が両腕――いや、獣のような爪で屋根を押し潰そうとしている。
軋みが、呻きに変わる。
「今日は……凄いな。家が壊れないか心配だ」
まだ妖の存在を知らない道信は、戸惑いながら天井を見上げた。
このままでは、家も道信も潰されてしまう。
そう判断した椛は、迷わず戸口を開いて外へ飛び出した。
「椛?急にどうしたんだ、こんな時間に外へ出るのは危ないぞ!」
驚く道信の声を背に、椛は振り返らず駆けだす。
風が地を裂くように唸り、空気が重く震えた。
家の屋根を覆う巨大な影に向かって、椛は叫ぶ。
「化け物!私はこっちよ!さあ、早くその家から離れなさい!」
声が夜気を裂いた。
しかし、道信には何も見えず、ただ空を見上げて困惑していた。
次の瞬間、空気が裂け、轟音とともに突風が吹き荒れる。
大地が悲鳴を上げるように震え、椛の後を追うように風が吹き抜けた。
「どうされるのですか?あの妖ものは恐らく、多くの魂を喰らっています。自然を歪めるほどの力を持つようですね」
背後から蝶化身が声をかけた。
その声に重なるように、屋根の上から濁った笑い声が響く。
「逃げてどうする?どこへ行こうってんだ、紅葉姫ぇぇぇ――」
妖は嘲笑いながら、椛の動きを追う。
振り返ると、漆黒の腕のような瘴気が地を這い、闇の中からぬらりと這い出してくる。
「私があいつから逃げきれたとしても、道信たちはきっとまた狙われるよね?」
椛は息を切らしながら問う。
灯が後方を警戒しながら答えた。
「あの手の妖は執拗なのです。そこそこ力を得ているようですし、穢れを喰えば喰うほど欲が増し、いずれは生者を狙うようになるのです!」
このまま逃げても、奴をどうにかしなければ必ずまた犠牲が出る。
椛は唇を噛みしめた。
そのとき、後方から声が響く。
「おーい、椛!こんな時間にどこへ行くつもりだ!山は危険だ、戻ってこい!」
振り返ると、道信が籠を抱えたまま必死に追って来ていた。
山で鍛えた脚力は速く、あっという間に距離を詰めてくる。
「えぇぇ!?なんで着いてきちゃうのよ!」
自分を囮にした意味がない――椛は焦りを募らせた。
そんな彼女を見て、妖は嗤う。月明かりの下で、裂けた口がだらしなく吊り上がった。血のように赤い舌が、ぬらりと光る。
「出たなぁ……ようやく出てきたなぁ、人間めぇ。あの蝶の穢れも、お前の命も、まとめて喰ってやるぅぅぅ!!」
空気が一気に変わった。
圧が押し寄せ、風が凶器のように鋭くなる。
木々が根こそぎ倒れ、砂が目を灼くように飛んだ。
「だめ!道信、逃げてぇぇぇ!」
椛の叫びは暴風にかき消された。
道信には妖の姿も気配も感じられない。
ただ突然、爆風に体を押され、視界が白く弾ける。
「うわっ──!」
突風が過ぎた後、道信はふらつきながら目を開けた。
手に握っていたはずの籠が、消えていた。
「姉さん!?」
道信の叫びと同時に、空の上から竹の破片が雨のように降り注ぐ。
籠は砕かれ、中から一匹の蝶が舞い上がった。
月光に照らされ、淡く輝くその羽――。
だが、その美しさは一瞬だった。
黒い瘴気が、夜の闇のように蝶を包み込み、跡形もなく呑み込む。
椛はその一部始終を見ていた。
妖が風の力で籠を奪い、破壊し、中の蝶を――魂ごと喰らったのだ。
「姉さん……?どこ行ったんだよ!姉さんッッ!」
道信が必死に辺りを見渡し、闇に向かって叫ぶ。
しかし答える声も、蝶の影も、もうどこにもない。
夜の静寂が、残酷なほど鮮明に響いていた。
「……なんてこと……」
助けようとした魂が、闇の中で完全に消えた。
椛の喉がひとりでに震える。
その耳に、妖の嘲りが響いた。
「美味ぇぇな……姉の情、弟の涙、紅葉姫の絶望……最高の餌だぜぇぇぇ!」
月明かりが掻き消えるように陰り、夜の風が悲鳴を上げた。
椛は拳を強く握りしめた。
胸の奥で何かが弾ける――怒りか、悲しみか、それとも後悔か。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
このままでは終われない。
椛は地を蹴って、道信のもとへ駆け寄った。
「道信!しっかりして!」
その声に、道信が顔を上げる。目は赤く、焦点が定まっていない。
「椛……姉さんが……姉さんがいなくなったんだ!さっきの風のせいで……っ!一緒に探してくれ!なぁ、頼む!」
彼は椛の肩を掴み、狂乱したように揺さぶった。
その手は震えていた――寒さではない、喪失に縋るような震えだった。
「あなたのお姉さんはどうにかするから!だから道信は家に戻って!」
「姉さんがいないのに帰れるわけないだろッ!」
怒声と共に道信が振り払う。その背後に、空気を割くような低い唸りが響いた。
「安心しろ……お前も姉と同じ、俺の血肉にしてやるよォ……」
椛の視線の先――
そこには、夜闇の中から這い出した巨大な妖がいた。
獣とも人ともつかぬ姿。
四肢を地につけ、体表を黒煙のような陰気が蠢いている。
その顔は崩れかけた仮面のようで、両目は血のように赤く光っていた。
「……っ」
椛は思わず息を呑む。皮膚が粟立ち、足がわずかに震えた。
「お……おい……あれは……なんだ……?」
道信が震える指で妖を指さす。
彼の目には、黒い靄が渦巻くように見えていた。
「見えるの?」
椛が驚いて問い返す。
「見えるっていうか……黒い影みたいな……!そうか、あいつだな!姉さんを奪ったのはあいつなんだなッ!」
血走った目で道信は叫び、妖へと駆け出した。
「やめて!道信!!」
「人間風情が俺に立ち向かうというのか……生意気なァ!!」
妖が腕を振り下ろす。黒い霧が刃のように裂け、道信の頭上へ――。
しかし次の瞬間、空気が鳴った。
椛が道信の着物を掴み、力任せに引き倒す。妖の攻撃は空を切り、彼の髪先をかすめて地面に深い裂け目を刻んだ。
「危ないっ!次はないよ!」
椛が息を荒げて叫ぶ。
夜の空気は冷たいのに、額から汗が流れていた。
妖の赤い眼がギラリと動き、次の獲物を定めるように椛を見据えた。
「かはっ……!」
黒い腕が唸りを上げて伸び、椛の身体を鷲掴みにした。
「捕まえたぞ――紅葉姫ぇぇぇ!」
嗤いとともに、妖の掌がきしむ。
「姫!!」
「椛様ッ!」
「椛!?」
三方向から声が上がった。
灯と蝶化身、そして道信。
椛の身体が妖の手の中で持ち上がり、夜空へと浮かんでいく。
灯が歯を食いしばり、地を蹴った。
「姫を離すのですッ!」
だが、椛は首を横に振った。
「灯!道信を守って!!」
「しかし──!」
灯が叫び返すその瞬間、妖がニタリと笑う。
「安心しろ。その人間も、ちゃぁんと喰ってやる」
妖の逆の手が、道信へと伸びた。
「姫様の言いつけを早々に破る訳にはいけないのです!」
灯が印を結び、掌から閃光のような霊気を放った。
その光に一瞬、妖の目が眩む。
「チッ……餓鬼か。しかも、そこそこ力を持ってやがる」
妖は椛を握ったまま、嘲笑を浮かべて続けた。
「餓鬼は雑魚の癖に数だけは多い。……まあいい、紅葉姫を喰らえば人間などいくらでも喰える」
そして、巨大な翼を広げるように瘴気が渦を巻き、妖の身体が宙へと浮かび上がった。
そのまま椛を掴んだまま、山の闇へと飛び去っていく。
「みんな!姫を探してお助けするのです!!」
灯の号令に応じて、木々の陰から無数の餓鬼たちが現れた。
闇の中を駆け抜けるようにして、椛を連れ去った妖の後を追う。
――その頃。
「ふははははは!今日の俺はツイている!前から目を付けていた魂を喰らえたうえに、紅葉姫までも手中とはな!」
妖の嘲笑が山に響く。
風圧で目を開けるのもやっとな椛は、唇を噛みしめた。
――視界の端。
月を背に、光の筋のような影が滑る。
妖の背後から、気づかれぬ距離で蝶化身が飛んでいた。
しかし、妖もその気配に気づいたのか、ぎぎ、と嫌な音を立てて振り返る。
「俺の後をつけてきていたのは……貴様か!」
血のような瞳が、夜空の蝶を捉えた。
「蝶化身!艮様を……早く!!」
椛の叫びに、蝶化身は苦悩の表情を浮かべながらも一度だけ深く頷いた。
彼女には戦う力がない。それでも、椛の決意を信じて翼を翻し、首都の方角へ飛び去る。
「させるかァァ!!」
妖が咆哮し、黒い瘴気を放ちながら追おうとしたその瞬間――
椛は大きく息を吸い込み、腹の底から声を張り上げた。
「私は紅葉姫の生まれ変わりよッ!あんたが独り占めして喰おうっての?私の魄は特別なんでしょ?そんな特別な私を、あんたみたいな下っ端が食べるなんて――ごめんだわ!」
挑発するような声が、山々に木霊する。
その叫びに呼応するように、周囲の闇がざわめいた。
「紅葉姫だと?」
「あの鬼門の山にいた紅葉姫の転生か……?」
「確かに、あの匂い――あれはただの人間ではない」
「前巨魁の忘れ形見、か」
低く、湿った囁きが四方から響く。
無数の妖が木々の影に潜み、彼女を狙っている。
足が震える。喉の奥が乾く。
それでも、椛は歯を食いしばった。泣いたところで誰も助けてくれない。
「チッ……他のヤツに獲物を横取りされてたまるかッ!」
妖は舌打ちし、蝶化身を追うのをやめて更に山奥へと進んだ。
やがて辿り着いたのは、湿気を帯びた洞窟。
苔むした岩壁から滴る水音が響き、薄闇の中で妖の姿だけが異様に浮かび上がる。
「ここまで来れば、もう邪魔は入るまい」
妖は椛を掴んだまま地面に降り立ち、にやりと口角を上げた。
「さあ……どこから頂こうか。腕か?足か?それとも腹か……?」
その声は低く、まるで血肉を味わう前の愉悦に酔っているかのようだった。
椛の喉が強張り、呼吸が浅くなる。声を出そうとしても震えて出ない。
「ああ、先ずは少し痛めつけてからだ。恐怖に歪む顔を見ながら、ゆっくりと喰らうのも悪くねぇ」
椛を掴む手が、徐々に締まっていく。骨が軋む音が耳の奥に響いた。
「うっ……ぐぅっ……!」
必死にもがくが、びくともしない。
妖は笑い声を上げた。
「ははははっ!あの紅葉姫ともあろう者が、この様か!かつて多くの妖を葬った貴様を、今こうして手の中に握っているとは……!同胞を滅ぼした恨み、千年分の怨嗟――存分に味わわせてやる!」
椛の耳に、血のように濃い怨念が流れ込む。
その瞬間、心臓がぎゅっと握られたように痛んだ。
それでも、椛は唇を噛み、心の奥で必死に祈る。
──誰か……たすけて……!
妖の掌が、さらに強く締め上げていく。
肺が押し潰され、呼吸が奪われ、視界が白く霞む。
内臓がねじ切られるような痛み。
その時――
ボキッ!
鈍い音が洞窟に響いた。
「ああああああああぁぁぁぁッ!!!」
椛の絶叫が岩壁を震わせ、反響した。
妖の指が椛の左腕に食い込み、骨が無惨に折れたのだ。
皮膚の下で骨がずれ、焼けるような痛みが全身を走る。
「ひっ、く……う、あ……っ」
椛は耐えきれずに嘔吐し、涙と涎で顔を濡らす。
痛み、恐怖、屈辱――すべてが入り混じった悲鳴が喉の奥で溶けた。
「いいぞ……その苦悶、その絶望……あぁ、最高だ」
妖は舌なめずりをし、恍惚とした表情で笑う。
「そろそろだな。ひと思いに、喰ってやろう」
大口を開け、鋭い牙が月光を反射して光る。
椛の涙が頬を伝い、地面に一粒落ちた。
その瞬間――妖の掌がふっと軽くなる。
視界が、一瞬にして闇から光に変わった。
「――遅くなって、すまない」
低く落ち着いた声が響く。
次の瞬間、椛の身体は妖の手から解き放たれ、温もりのある腕に抱き上げられていた。
黒衣の裾が揺れる。
月明かりを背に、柔らかな髪が風に流れた。
そこにいたのは、虎の背に乗った艮の姿だった。
彼の手には、いつの間にか妖の片腕が掴まれていた。
切断された腕の断面から、黒い瘴気がぶわりと噴き出している。
「貴様……艮……!」
妖の声が震える。
艮は冷ややかに目を細め、虎の背から降りて椛をそっと地面に下ろすと、ゆっくりと立ち上がった。
「人間に手を出して、覚悟は出来ているんだろうな」
その声音はいつもと同じ落ち着きを保っているはずなのに、何処か重く、鋭い刃のような威圧感を纏っていた。
「艮……様……待っ、て……蝶が……」
椛は飛びそうになる意識を懸命に繋ぎ止め、艮の裾を掴んだ。
「大丈夫。話は大吉と蝶化身から大体聞いているよ――」
艮は柔らかな物言いで、優しく椛の頭を撫でる。
安心した椛は、裾から手を離した。
「大吉、椛を安全な場所へ頼むよ」
「はい!」
いつの間にか大吉が椛の傍に来ていて、そのまま彼女を抱き上げる。
艮は再び虎に跨った。
「功曹、行くよ」
「おう!」
功曹と呼ばれた虎が低く咆哮し、妖へと駆ける。
その背に艮が構え、洞窟に重苦しい殺気が広がった。
「全く……無理はするなと言っただろ」
大吉は椛を抱えたまま洞窟から脱し、呆れたように吐き捨てた。
こんなことになるなんて思ってもいなかった――なんていうのは、言い訳だ。
椛は何も言い返せず、ただ小さく首をすくめた。
「けど……無事で良かったよ。か、勘違いするなよ!君に何かあったら主様が悲しむからな!」
慌てて言い繕う大吉に、椛は小さく笑った。
「大吉も、蝶化身も……ありがとう」
ひっそりと着いてきていた蝶化身に顔を向けて礼を言うと、蝶化身は泣きそうな表情を浮かべた。
「わたくしが椛様を巻き込んでしまったというのに、お礼なんてッ……」
「違うよ。私が自分から首を突っ込んじゃったんだから、蝶化身に責任はないよ。それに、間一髪のところで艮様を連れて来てくれたじゃない。ありがとうね」
椛の言葉に、蝶化身はとうとう涙をこぼした。
その涙は月光に照らされ、まるで露のようにきらめいた。
少しして、洞窟の奥から艮と功曹が姿を現した。
二人の後ろには、いくつもの人魂がふわりと浮かんでいる。
だがそれらは青白い光ではなく、どこか黒く鈍い輝きを放っていた。
その中に、一匹の蝶がいた。
蝶は自力で羽ばたけるほどに力を取り戻しており、淡く透ける羽が夜風を掠めて光る。
その姿を見た瞬間、椛の胸の奥に張り詰めていたものがふっと緩んだ。
「蝶も……無事で良かった」
蝶はひらひらと優雅に椛のもとへ寄り、その羽先を彼女の頬に触れさせる。
《どうも、ありがとう……》
思念が優しく流れ込み、声なき声が心に響いた。
その蝶の周囲には、もはや黒い瘴気は一つもない。
「完全に吸収される前に救い出せて、本当に良かったです」
蝶化身は胸に手を当て、安堵の息をついた。
彼女の説明によれば、妖に取り込まれた魂は穢れによって黒く染まり、そのままでは天界へ戻ることが出来ないという。
長い時をかけ、穢れを禊ぎ落とした後にようやく、輪廻転生の輪へと還れるのだ。
艮が静かに近寄り、椛の様子を見つめる。
「話は後だ。先ずは、怪我の部位を見せてごらん」
言われるままに椛は力なく頷く。
艮が手を翳すと、淡い金の光が椛の身体を包み込んだ。
折れた骨が正しい位置に戻っていくような感覚――温かく、それでいて涙が出るほど安堵する。
痛みが薄れていく中、艮の低い声が耳元で響いた。
「無茶をするなと、前にも言っただろう」
「うぅ……」
椛は痛みよりも、その声音に居たたまれなくなる。
治療が終わる頃には、身体は完全に癒えていたが、
艮の説教で精神的なダメージだけが深く残った。
「まだまだ言い足りないけど――続きは帰ってからにするよ」
艮が淡く笑みを浮かべる。
椛は両手で耳を塞ぎ、聞こえないふりをして小さく呟いた。
「……聞こえません、聞こえません……」
その様子に、大吉が思わず吹き出し、蝶化身はくすりと笑った。
場の空気が少しだけ緩んだところで、椛は話題を変えようと、大吉の腕からそっと降りて蝶化身に尋ねた。
「蝶化身はこの後どうするの?」
「わたくしは、この者たちを正しき道へ導きます」
蝶化身の周囲には、妖に取り込まれていた複数の人魂がふわりと浮かび、淡い光の帯となって彼女の後ろに連なっていた。
その中の一匹。蝶が、かすかな声で懇願した。
《蝶化身様、どうか……最後に一目だけ、弟に会わせてはくださいませんか》
羽先が震えるような、切実な願いだった。
「なりません。本来、わたくしたちは生者に関わることを禁じられています。そのうえ、あなたは地上に滞在できる期限を大幅に超過しているのです」
蝶化身の言葉は厳しくも真っ当だった。
その声に、蝶は寂しげに羽を垂らし、光の中で小さく漂った。
「あ、あの……」
椛は思わず口を開いた。
自分が口を挟むべきではないことは分かっている。それでも胸の奥がじりじりと痛んだ。
「こんなこと、私が言うのはおかしいのかもしれないけど……一目だけ、会わせてあげることは出来ないかな?道信もこの子も、このままお別れしたらきっと未練が残ると思うの。最後に少しだけでもいい、その数秒が二人を少しでも幸せな方向へ向かわせることが出来るなら、そっちの方がいいと思うんだ」
椛は自分の家族を思い出していた。
人はいつ永遠の別れが来るか分からない。
朝ごはんをちゃんと食べれば良かった。お母さんの顔を見て「行ってきます」と言えば良かった。――たったそれだけのことでも、ずっと胸のしこりとして重く残る。
だからこそ、せめて最後の一瞬くらいは、と思ったのだ。
その小さな時間が、きっと二人の心を軽くするはずだと、椛は願わずにいられなかった。
蝶化身はしばし沈黙した後、瞼を閉じて深く息を吐いた。
「……椛様の頼みです。今回だけ、特例として認めましょう」
その声は、夜の帳を溶かすように静かで柔らかかった。
道信の家からどれほど離れた場所にいるのか、椛にはわからなかった。
だが途中、灯が放った餓鬼の導きにより、無事に戻ることができたのだ。
道信は蝶を失った衝撃から、現実を受け入れられずに彷徨っていた。
彼には灯の姿は見えない。けれど、闇に潜む妖から守るように、灯は静かにその背を追っていた。
「道信!」
椛が声を張る。
道信ははっとして、声のする方を振り返った。
「……椛?」
その目はどこか虚ろで、生気が抜け落ちていた。
しかし、椛の隣で優美に羽ばたく蝶の姿を認めた瞬間、道信の瞳に光が戻る。
「姉さん……!ああ、やっぱり姉さんだ!僕のもとに戻ってきてくれたんだね!」
道信は泣き笑いのような表情で両手を広げ、蝶に向かって駆けだした。
蝶もゆらりと羽ばたき、まっすぐに彼のもとへと飛んでいく。
――その瞬間、蝶はふわりと道信の額へ突進した。
「っ!?」
軽い衝撃。綿のように柔らかいはずなのに、確かな痛みを感じる。
道信が驚いて目を瞬かせる間、蝶は数度、羽を開閉して彼の前で漂った。
蝶の羽に映った月光が、一瞬、姉の微笑みに見えた。
次の瞬間――蝶は静かに上空へ舞い上がり、待っていた蝶化身のもとへと飛んでいった。
「ね、姉さん!」
道信が手を伸ばす。だが、その指の隙間を風のようにすり抜け、蝶は夜空の闇に溶けていった。
「もう、良いのですか?」
蝶化身が優しく問いかける。
《はい。ありがとうございました……》
蝶の思念が、月の光に溶けて響いた。
「では、行きましょう。椛様、艮様……此の度は、誠にありがとうございました」
蝶化身は深く腰を折り、一匹の蝶と無数の人魂を連れて、夜空へと昇っていった。
淡い光の尾を引きながら、やがて彼女たちは星の海に溶けるように姿を消した。
「はっ……ははは……」
硬直していた道信が、ふいに笑い声を上げた。
その笑いは震え、涙と一緒にこぼれ落ちるような音だった。
「やっぱり……あの蝶は姉さんだったんだな。ははっ、人間だった頃の姉さんはもういないのに……額を弾いて叱られるなんて思ってもみなかったよ」
道信は頬を濡らしながらも、どこか晴れやかな表情をしていた。
「そっか……姉さん、僕に怒っていたんだな」
彼は顔を上げ、夜空を見上げる。星々が凍てついた光で瞬き、空はどこまでも広がっている。
「道信?」
椛が心配そうに声をかけると、道信は袖で涙を拭って振り返り、彼女に向かって真っ直ぐに顔を向けた。
「椛。最後に姉さんに会わせてくれてありがとう。そして――僕はこの村を出るよ」
「えっ……!?」
唐突な宣言に椛は理解が追いつかず、目を白黒させた。
「思い出したんだ……」
道信は再び夜空を見上げながら、姉の声を思い出していた。
「姉さんは死ぬ直前、僕に言ったんだ。――これからは、自分が歩む道を信じて、自由に生きなさいって」
彼は薄く、けれど確かに笑った。
「どうして忘れてたんだろうな……。僕は、自分の意思で世界を見て回りたい。姉さんの分まで、色んな世界を見て、知って、姉さんの元へ行く時には……一日では足りないくらいの話を持っていくんだ」
その言葉には、孤独と悲しみの奥に、確かな決意と、未来へ踏み出す光が宿っていた。
「それは……とっても素敵だね」
椛は優しく微笑んだ。
彼がようやく“過去”ではなく“明日”を見ていることが、何よりも嬉しかった。
そして、厳しい冬が過ぎ、山肌に花が咲き始めた春のある日。
一人の少年が、山間の小さな村を後にした。
お盆の季節が来るたび、彼は空を見上げる。
群れをなして旅する蝶の中に、ひときわ懐っこく舞う一匹を探しながら――。
その胸の奥では、今も「姉が自由に空を飛んでいる」という温かな記憶が生き続けていた。
─────
夜明け。
白み始めた空の下、椛は牛の姿に変化した大吉の背に揺られていた。
背後からは艮が彼女の身体を支え、夜風が頬を撫でていく。
長い夜を越え、椛の疲労は限界に達していた。
うつらうつらと瞼が開閉を繰り返し、やがて完全に閉じた瞬間――身体が傾ぐ。
「おっと……」
艮が腕を伸ばし、落ちかけた椛の体をしっかりと受け止める。
そのまま、自分の胸に彼女の体を預けた。
安らかな寝顔だった。
異界から迷い込んできた少女――出会った当初は泣きながら元の世界に帰りたいと願っていた少女。
今もその願いを諦めたわけではない。
だが、彼女を取り巻くこの世界は、まるで意思を持つかのように椛を巻き込み、引き寄せている。
──いや、今回は自分から巻き込まれに行ったらしいが。
艮は小さく息を吐き、目を細めた。
まだ十数年しか生きていない少女にしては、あまりにも大きな責を背負いすぎている。
それでも彼女は、人のために動く。見返りも求めず、ただ困っている誰かを放っておけない。
記憶を失ってから二百年――。
艮にとって、椛は初めて出会う“人間”だった。
人とは利己的で、愛を注ぐのは身内か限られた相手だけだと思っていた。
だが、椛は違った。
彼女は、自分の損得など顧みず、誰かの涙に心を動かし、命を賭してでも手を差し伸べようとする。
――愚かしいほどに、眩しい存在だ。
艮は彼女の寝顔を見つめながら、静かに呟いた。
「……やれやれ。本当に、君という人は……」
白む空に、牛の足音が小さく響く。
夜明けの風が秋の名残を運び、乾いた葉をさらりと揺らした。




