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もみじの黄泉路  作者: 荒々繁
正編
10/11

迷い川の子守唄

 椛、艮、灯の三人は狛犬の背に乗り、椛が最初に降り立った山へと戻って来ていた。

 椛と艮が初めて出会った場所で降り立ち、そこから歩を進めている。


 夜遅くまで山中を彷徨っていたことに加え、同じような景色が続くせいで正確な位置を掴めずにいたが、記憶を頼りに少しずつ元の道筋を探っていた。


「多分、この辺りから来たはず……」


 村を一望できる場所は半刻前に見つけた。

 だがそこから先は似たような道が続き、何度も同じ場所を回っている気がしてならない。


 それでも文句ひとつ言わず、艮と灯は椛の後を歩き続ける。狛犬も中型犬ほどの大きさに姿を変え、鼻をひくつかせながら懸命に匂いを探していた。


「一日くらいなら痕跡を辿れたかもしれないけど……二日も経ってしまっては流石に匂いは残ってないようだね」


 狛犬はくーんと鳴いて、諦めたように尻尾を垂らした。


「モミジ姫、この先に川があるのです!お疲れでしょうから、一度休んでからまた探しましょうなのです」


 灯が椛の裾をちょんと引っ張り、指を川の方へ向ける。


「……そうだね、少し休もうかな」


 椛は足の疲労を感じていた。提案に乗り、狛犬に背を借りて川へ向かう。

 やがて澄んだせせらぎの音が耳に届き、河原に出ると、底が透けて見えるほど清らかな川が広がっていた。水面は陽光を受けてきらきらと輝き、まるで神域の泉のように思えた。


「ぷはぁ……生き返る」


 椛は両手に水を掬い、渇いた喉を潤した。ごくごくと飲み干すと、冷たい水が身体の隅々に沁み渡り、ようやく緊張が和らぐ。


 そのときだった。


 下流の方からパシャパシャと水音が響き、子供の笑い声が混じった。


「あははは!」

「きゃっきゃっ!」


 椛は思わず顔を上げ、音の方へ足を向けた。


「子供……?近くの村の子たちかな?ふふ、可愛い……」


 川辺では、まだ小学生くらいの年頃に見える子供たちが数人、無邪気に水をかけ合ってはしゃいでいた。

 どの世界でも子供は風の子──そんな言葉を思い出し、椛は目を細める。


「もう秋なのに……寒くないのかな」


 羽織を借りてさえ肌寒い空気の中、子供たちは笑顔で水を浴び続けている。


「いや……あれは……」


 艮が険しい声を洩らした。次の瞬間──


「ぐははは!また馬鹿な子供が迷い込んでおるわ!」

「大漁大漁……こやつらを喰えば、ワシも中級に昇れるぞ!」

「小豆洗おか、人取って喰おか……♪」


 川辺に、ぞっとする気配が溢れ出す。

 巨大な頭部だけの妖が水面からぬっと浮かび上がり、蛇のように長い胴を持つ妖が岩陰からとぐろを巻き、さらには小豆をすり潰すような音を立てながら小豆洗いが現れた。


「きゃーーっ!」

「お母ちゃーん!」


 子供たちは突如現れた妖に悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。


「椛!」

「モミジ姫!」


 椛は思わず子供たちの方へ駆け出していた。

 その後を艮と灯が追う。


「うわっ!」


 一人の少年が転んだ。


「ぐははは、観念せい~!」

「ひっ……お母さん、お母さんっっ!」


 巨大な頭の妖が大口を開き、少年へ食らいつこうと迫る。

 少年は恐怖に体が竦み、泣き叫ぶことしか出来なかった。


「危ないっ!」


 妖の牙が振り下ろされる瞬間、椛は少年に飛びつき、頭を抱えて地面を転がった。


「狛犬!」

「わうっ!」


 艮の声に応じ、狛犬は瞬く間に巨大な狼の姿へと変化。低く唸り声を響かせ、川辺で追われている他の子供たちのもとへ駆け出した。


「大丈夫か、椛!」

「姫、なんという無茶をするのです!」


 駆け寄る艮と灯が声を上げた。


「──つっ!」


 椛の左腕から鮮やかな赤が滴り落ちる。


「あ、ありがとう……!……お姉ちゃん!血が!」


 助けられた少年が礼を言った直後、椛の腕の血に気づき、青ざめた声を上げる。

 避けたはずだったが、妖の牙が掠めていたのだ。


「私は平気。それより、君は怪我してない?」


 椛は必死に笑顔を作り、少年を安心させるように頭を撫でた。

 少年は半泣きのまま、小さく頷く。


「ここは危ない。早く逃げて!」


 椛は少年の背を押す。


「で、でもお姉ちゃんは……」

「早く逃げなさいっ!」


 怒鳴り声に、少年はビクリと肩を震わせ、名残惜しそうに振り返りながら川から駆け去った。


 その時、巨大な頭の妖がズズズ……と岩を擦るような音を響かせ、椛へと顔を向ける。


「オデの食事を邪魔したなァ?」


 見上げるほどの巨体。椛の頭上遥か高みにある目玉がギョロリと動き、彼女を射抜く。

 全身が凍りつく。恐怖に足が竦む──だが、それが自分の性分なのだと、椛は唇を噛んだ。


 妖は歯にこびりついた椛の血を、べろりと舐め取る。

 次の瞬間、その身体が痙攣したように大きく跳ね、動きを止めた。


「まったく……無茶をする子だ!」


 追いついた艮が小言を漏らしつつ椛の腕を取る。

 手を添えると、傷口はみるみる塞がっていった。


「まずいのです!」


 その時、灯が叫んだ。


「おおおぉぉ……!」


 腹の底から絞り出すような声が川辺に響き渡る。

 声の主は、動きを止めていた妖だった。


「な、なんだこれは!力が……漲る……!」


 巨大な目を天に仰ぎ、妖は恍惚と呟く。だが次の瞬間、ギロリと椛へと視線を落とした。


「お前か……!その血だ!もっと寄越せぇぇぇっ!」


 狂気に満ちた眼孔を見開き、椛へと襲いかかる。


 艮は椛を抱き寄せ、片手で素早く印を結んで顔前に掲げた。


「お前ごときが口にしていい血ではないのです!」


 轟音のような声と共に、這いずる巨妖の動きがピタリと止まった。

 灯だ。小さな身体ひとつで、その巨躯を押しとどめている。


「なっ……貴様……餓鬼のくせに何という力……!」

「ふん、私を他の餓鬼と一緒にしないで欲しいのです」


 灯は嘲笑を浮かべ、鋭く言い放つ。


「私は姫より“灯”という名を賜った──姫の守り鬼なのですよ!」


 その言葉と同時に、灯の力が爆発する。

 巨大な頭部は地面から浮き上がり、徐々に押し戻されていく。


「チビの分際で……!お前から喰ってやる!」

「姫の血で少し強くなっただけの小物が、調子に乗るななのです!」


 灯は踏ん張り、両手に力を込める。

 やがて妖の巨体を持ち上げ、そのまま反対の川岸へと叩きつけるように投げ飛ばした。


 崖に激突した妖は、白目を剥いて気絶した。


「一昨日来やがれなのです」


 何事もなげにパンパンと両手を払う灯。

 中級妖怪と艮が評したのも頷ける。可憐な姿とは裏腹の力に、椛は唖然とするしかなかった。


「ひぃぃ!お助けを~!」


 仲間の惨状を目にした他の二匹の妖が、命乞いを始める。

 その背後では、狛犬が牙を剥き出しにして低く唸っていた。


「姫、どうなさいますか?」


 灯が椛を見上げ、指示を仰ぐ。


「もう、人を襲わないって、約束して」

「ひ、ひと……?」


 二匹は一瞬顔を見合わせ、ニヤリと笑った。


「襲いませんとも!」

「人は、襲いません!」


 掌を擦り合わせ、慌てて首を縦に振る妖たち。

 椛はそれなら、と安堵しかけ──口を開きかけた瞬間。


「椛」


 艮がそっと肩に手を置き、低く告げた。


「……あの子供たちは、人ではないよ」

「……え?」


 椛の目が大きく見開かれる。


「あの子供たちは生きている人間ではないよ」


 艮が、改めて説明した。


「どういうこと……」

「あの子たちは既に死んでいる。現世に留まってしまった、彷徨える魂なんだよ」


 艮は穏やかな声で諭すように言った。


「そんな……」


 信じられない。幽霊なんて見たことがないし、自分には霊感もない。

 だが、さっき触れ合い、言葉を交わした“あの少年”が死者の魂だというのだ。

 混乱する椛を見て、妖たちは今のうちだとばかりにゆっくりと立ち上がり、逃げ出そうとした。


「がうっ!」

「どこに行くのです!」


 狛犬と灯に咎められ、妖たちの逃走はあっけなく頓挫した。

 この世界に妖がいるのだから、幽霊がいても不思議ではない。艮から黄泉送りの話を聞いていたせいか、椛の中で魂という概念は次第に現実味を帯びていった。


「……あなた達は、今後死者の魂を食べないと約束して。勿論、生きている人間も、絶対にだめ。条件を呑めるなら、見逃してあげる」


 きっぱりとした声で言い放つ。


「そ、それは……我らに“食うな”と申すのですか! ご飯を食べるなということですか!」


 妖の抗弁に、椛の動きが止まった。


 人間だって動物を殺し、血肉を食べて生きている。

 妖にとって魂が糧なのだとしたら、それを禁じるのは「生きるな」と同じではないか──そんな思考の沼に足を取られそうになる。


「姫」


 灯の声が静かに差し込んだ。


「妖は人を食わずとも、魂を喰らわずとも生きていけるのです。力を得るには必要かもしれませんが、“生きる”だけなら問題ないのです」


 灯の言葉が、現実的な視点を与える。椛は怒りで眉を寄せ、二匹の妖を見下ろした。


「今後一切、絶対に禁止!!」

「は、はいぃぃ!」

「す、すみませんでしたぁぁぁ!」


 椛の剣幕に、二匹は慌てて謝りつつ、気絶した仲間を引き連れて逃げていった。


「油断も隙もないったらありゃしない」


 椛は両腕を組み、文句めいた溜息をつく。灯はあっさりとした顔で応える。


「妖ですから、詐術や騙しは日常なのです」


 灯の一言に、椛ははっとして、そういえばこの子も妖だったと改めて思い直した。


「そういえば、妖って何を食べて生きてるの?」

「そうですね、妖もそれぞれなので一概には言えないのですけど……小妖怪は主に生き物や植物から僅かに流れ出る生命活動を司る陰の気“魄”を取り込んでいるのです。送り雀のような中級となると、人を驚かせて陰の気を増やしたり、人を転ばせて少量の血を得ることもあるのです」

「そうなんだ」


 灯の説明に、椛は素直に「へぇ」と感嘆した。


「中には力を得ようとして、必要以上の魄を欲する妖もいるのです。神妖大戦で大半の大妖怪はいなくなってしまいましたが、この千年の間で中級から大妖怪になった者もいます。そうした者は人間を食べている可能性が高いので、くれぐれも気を付けて欲しいのです」


 灯の忠告に、椛は喉を鳴らして深く頷いた。

 先ほどの小妖でも足が竦むほど怖かったのに、大妖怪など想像しただけで身が凍る。絶対に出会いたくない、と本気で思った。


「ところで君は、自殺願望でもあるのかい?」


 優しい声音だが、どこか針のような棘が混じる。

 声のする方を振り返ると、艮が両袖に手を入れ、にっこりと微笑みながら佇んでいた。椛はその問いかけに、胸がぎゅっと縮まるのを感じた。


 艮は呆れたように、ふうと息を吐いた。


「出会った時も、君は灯を守ろうと庇っていたね」


 穏やかな口調でそう言いながら、椛に歩み寄る。袖から伸びてきた大きな手に、椛は怒られるのかと身を強ばらせ、思わず目をぎゅっと瞑った。


「椛。誰かを助けようとする心根は素晴らしい。けれど、人間はか弱いんだ。ほんの小さなことで、すぐに命を落としてしまう。だから……君はもっと自分を大切にしなきゃいけないよ」


 ポン、と頭に温かな手が置かれた。大きな掌が優しく髪を撫でる。

 その温もりは、夢の中で感じたものと同じだった。

 椛の胸に、懐かしい記憶がじんわりと広がっていく。


 その時、ガサガサと草むらが揺れた。


「……お姉ちゃん?」


 顔を覗かせたのは、逃げたはずの少年だった。

 彼に続いて、他の子供たちも不安そうに顔を覗かせる。


「君、逃げたはずじゃ……」

「お姉ちゃんが心配で。それに、音も止んだから大丈夫かなって……」


 驚く椛に、少年がしっかりとした声で言った。


「そっか。心配してくれてありがとう」


 その健気さに、椛はふわりと微笑む。


「こわ……かった」

「うえーん、お家帰りたいよぉ」

「お姉ちゃん、ここどこぉ?」

「なんで僕たち、こんなところにいるのぉ」


 安心がほどけた途端、一人が泣き出し、あっという間に泣き声の輪が広がっていく。

 椛はどうしたらいいか分からず困り果て、ちらりと艮を仰いだ。


 艮は苦笑を浮かべ、軽く椛の肩を叩いた。


「ここからは、私に任せて」


 そう言うと、子供たちの前に一歩進み出た。


「君たちは、もう死んでいるんだよ。恐らくさっきの妖怪たちに惑わされて、この川まで来てしまったのだろう。安心しなさい。私が君たちを黄泉の国まで送ってあげよう」

「だぁれ?このおじさん」

「やだぁ!おっかあのところに帰るぅ!」

「このおじさんやだぁ!」


 艮の言葉は、子供たちにはまだ届かなかった。言葉の意味が理解できず、声はさらに阿鼻叫喚へと変わる。

 子供たちの拒絶に、艮は一瞬たじろいだ。

 おじさん呼ばわりに、どこかショックを受けたような表情を浮かべる艮に、椛は思わず小さく吹き出してしまう。


「そんな上から目線じゃダメだよ。子供は心で動くんだから」


 そう言って、椛は自然と子供たちの前に出る。膝を折り、彼らと同じ目線になると、泣きじゃくる少女の頭を優しく撫でた。


「ねえ、君はどこから来たの? ここに来る前のこと、覚えてる?」


 落ち着いた声音で背中に手を回し、ぽんぽんと優しく揺らす。安心感を込めたその仕草に、少女はゆっくりと嗚咽を止めた。


「わたし……お母さんと山に山菜取りに行ってたの。遠くへ行っちゃだめって言われたのに、夢中で……」


 言葉が詰まり、少女はそこで一度言葉を切る。何かを思い出すように目を見開き、息を呑んだ。


「そうだ。崖があるって知らなくて、足を滑らせて……そっかぁ。私、死んじゃったんだ」


 少女が自分の死を受け入れた瞬間、身体がふっと軽くなり、黒い影が白い光へと変わる。少女の輪郭は薄れ、人魂のような淡い光の塊へと姿を変えていった。


 椛はその変化を見つめながら、胸の奥がひりつくような感覚を覚えた。悲しみと安堵が入り混じる、不可思議な静けさ。


 同じように、ほかの子供たちにも一人ずつ穏やかに問いかけていくと、記憶を取り戻し自分の死を受け入れた者たちは次々と人魂へと変わった。

 泣き声はいつの間にか止み、川辺に漂うのは小さな灯りと、軽やかな風だけになった。


「最後になっちゃったね。君も何か思い出したかな?」


 椛は、最後に残ったあの少年。自分が妖から救った少年に優しく尋ねた。

 少年は小さく頷いたが、他の子たちのように人魂へと変化する気配はなかった。


「君は、この世に強い未練を残しているね」


 どうしてか分からずに首を傾げる椛の背後で、艮が静かに一歩踏み出し、少年に視線を落とす。艮の言葉に、少年は顔を伏せ、声を殺した。


「俺は……まだ、あの世に行けないんだ」


 震える声。必死の訴え。だが、艮の視線は変わらない。穏やかさの内側に、揺るがぬ厳しさがある。


「このままこの世に残ったところで何になる? 普通の人間には君の姿は見えない。ここにいても、誰の役にも立てない上に、さっきみたいに妖に喰われる危険がある」


 艮は冷静に告げる。声に含まれるのは慈悲ではなく現実だ。


「もし穢れを受けて妖に堕ちてしまえば、二度と無垢な魂に戻れない。だから、強引でも君をあの世へ送る」


 艮の言葉が静かに、しかし確かに場を支配する。少年は必死に手を伸ばし、揺れ動く瞳で艮を見上げる。


「お願い、待って!もうちょっとだけ時間を──」


 必死の懇願が胸を締めつける。だが、艮は首を振る。


「駄目だ」


 短い一言に、少年の胸から光がしぼむように引いていく。


「俺……どうしても、家に帰らなくちゃいけないんだ……!」


 少年の声が震え、肩が小さく揺れる。


「どうして?」


 椛は膝を曲げて少年と同じ目線になり、優しく問いかける。


「お母さん……病気でずっと寝てるんだ。でも、元気な時みたいに笑わせてあげたくて……」


 少年の目に涙が溢れる。


「お母さんに何が食べたい?って聞いたら、『栗ごはんが食べたいな』って、ぽつりと言ったんだ。俺は、栗を取って来てお母さんに食べさせてあげようって思って……でも……山で……滑って……」


 少年は言葉を詰まらせ、地面に目を伏せた。


「それに、弟や妹たちもまだ小さい……俺がいなくちゃ……俺がしっかりしなきゃいけなかったのに……長男の俺が、皆を守らなきゃいけないのに……っ」


 泣き崩れる少年の体は小さく震えていた。

 椛はそっと少年の背中に手を回し、頭を撫でる。


「分かった!行こう!」


 椛の言葉に、少年は顔を上げた。

 見守っていた艮と灯も驚いた表情で椛を見つめる。


「灯、この辺りでまだ栗が取れる場所はある?」

「ありますが……どうするのです?」


 椛は微笑みながら答える。


「栗ご飯を作るんだよ!そして、この子のお母さんのところに届けるの!」

「それなら、皆にも協力してもらった方がいいのです!みんな!栗を集めて姫の元に持ってくるのですぅ!」

「はーい!」


 灯が声を張り上げると、どこからともなく少年少女の姿をした餓鬼たちが現れ、山の中に散っていった。


「艮様、調理器具と社の台所を使わせてもらえませんか?」

「それは……構わないが……」


 艮は椛の行動に呆れたように目を丸くする。

 数刻もしないうちに、餓鬼たちは大漁の栗を運んできた。


「わあ!こんなにたくさんあったら、おなかいっぱい作れちゃうね」


 そう笑う椛に、少年が尋ねた。


「どうして、よく知りもしない俺のためにここまでしてくれるの?」


 椛は優しく微笑む。


「え?だって、お母さんと弟妹たちが心配でしょ? 一目会って安心して逝けるなら、その方がいいじゃん」


 その言葉に、少年は泣きながらも笑った。


「ありがとう、お姉ちゃん」

「ほら、早くしないと暗くなっちゃうよ!」


 椛は布袋いっぱいの栗を担ぎ、狛犬の背に股がった。


「良かったのかい?君は元の世界に戻る方法を探しにこの山に来たんだろう?」


 後ろに乗る艮が、椛にだけ届く声で尋ねた。


「目の前で泣いている子供を放っておけないよ。それに、この子には時間がないけど、私のことはまた明日でもやれるもの」


 狛犬の背に乗って飛び、空から見下ろす景色に夢中になっている少年に、椛は優しく目を向けた。


「君は……」


 ボソリと漏れた言葉を、艮は途中で飲み込む。

 ただ、少年へ向ける椛の優しい瞳に、艮は胸の奥が温かくなるのを感じ、思わず目を細めた。


 社へと辿り着くと、すぐに台所へ向かう。

 綺麗に整えられた台所は、手入れが行き届いていた。


「私、あまり料理ってしたことないから、君が指示してくれる?その通りに私が作るから」


 椛の言葉に、少年は頷いて分かったと答えた。

 それから、少年があれこれ指示を出し、椛は言われた通りに動く。

 灯も椛を手伝い、栗を取り出していった。


「私も何か手伝うことあるかい?」

「艮様は、出来上がるのを待ってて!」


 まるで戦場のような緊張感。

 手馴れていない椛にとって、時刻が夕方であることもあり、失敗は許されない一度きりの挑戦だった。

 少年の指示を聞き逃さないよう集中するあまり、他のことにかかずらう暇はなかった。


 艮は少し寂しそうに、でも邪魔をしないように台所を後にした。


「で……きたぁ!」


 湯気に乗った香りが鼻腔をくすぐる。

 椛たちの前には、ホカホカの栗ご飯が炊き上がっていた。


「かまどご飯なんて初めてだし、火の調節も難しかったけど、何とか出来たァ!」


 椛は達成感に両手を上げ、嬉しさで顔を輝かせた。


「けど、見た目は上出来だけど、あとは味……だよね」


 灯に味見を頼もうとしたが、餓鬼は人間のご飯は食べないのだと断られた。

 自分で味見しようかとも思ったが、やはり誰かに食べてもらい安心したかった。

 そこで、椛は艮の存在を思い出し、呼びに行った。


「凄いね。これ、本当に初めて作ったのかい?」

「うん!ご飯なんて炊飯器でピッだし、かまどご飯は本当に初めてだよ~。ねえ、味見してみてよ」


 そう言って、椛はお椀にご飯をよそい、艮に差し出した。

 緊張でごくりと喉が鳴る。

 艮は箸で栗ご飯を掴み、口に運んだ。


 僅かに目を見開いたあと、艮は微笑みながら頷いた。


「うん。とっても美味しいよ」

「やったー!よかった!」


 椛は胸を撫で下ろし、ほっと笑った。


「これで、君の家族に届けられるね!」


 ご飯を握り飯にして、灯や餓鬼たちが持ってきてくれた竹の包みを整えていく。

 空はすっかり暗くなり、無数の星が夜空に瞬いていた。

 椛は再び狛犬の背にまたがり、少年の手をしっかりと握った。


「さあ、行こう。お母さんたちに会いに」


 山道を駆ける風はひんやりとしていたが、胸の奥には温かい気持ちが広がる。

 少年の肩越しに見える山並みや星空は、少し寂しさを含みつつも、どこか守られているように感じられた。


「そういえば、君の名前を聞いてなかったね。教えてくれる?」

「俺は、直秀(なおひで)って言うんだ」

「真っ直ぐで優れた君にぴったりの名前だね」


 椛の言葉に直秀は恥ずかしそうに鼻を掻いた後、誇らしげに笑った。


「あ、あそこだよ!俺の家!」


 直秀が指さす先には、茅葺きの小屋がぽつんと佇んでいた。

 壁は年月で色あせ、軒下の木材はところどころひび割れている。庭の草も伸び放題で、長く手入れがされていないことが見て取れる。

 その家の前には、数人の人々が集まっていた。


「あ、お母さんだ。起き上がって大丈夫なのかな?」


 戸の前に立つやせ細った女性を、別の女性が必死に支えている。

 開け放たれた玄関からは、泣き声を上げる兄妹の声が漏れ聞こえてきた。


 その光景に直秀の顔が暗くなる。

 狛犬は人に見つからない場所に降り立ち、椛と艮はそっと歩を進めた。


「あの……」


 椛が優しく声をかけると、円になっていた人々が一斉に振り向いた。


「君は……?」


 一人の男が問いかける。


「直秀くんから、これを家族に渡して欲しいって頼まれたんです」


 そう言って、椛は竹の包を母親に手渡した。


「直秀くんが!?どこで会ったんだ!?」

「直秀はどこだ!?」


 直秀が行方不明になっていたことは、村中に知れ渡っており、捜索していた人々のようだった。


「直秀くんはここには来れません。ですが、病気のお母さんと弟や妹たちに、栗ご飯を届けてほしいと言われたんです」


 その言葉を聞いた直秀の母親は、竹の包を開けて栗ご飯を目にすると、腕に抱きしめ、声をあげて泣き崩れた。


「私が……私が栗ご飯を食べたいなんて言わなければ……っ」


 今にも折れそうな肩と手足。頬もやせ細り、直秀がいなくなってから一睡もできなかったのだろう。目の下には濃いクマがあり、顔色は悪かった。


 泣き崩れる母親に直秀が縋りつく。


「ごめん。ごめんよ……お母さん。こんなになって……心配かけてごめんなさい……っ」


 何度も謝る直秀だが、その声は届くべき人にだけ届かず、胸を痛める椛はそっとその場に立っていた。


「それは、直秀くんがお母さんや兄妹たちのことを思って作ったものです。どうか、食べてやってください」


 艮が前に出て静かに告げた。


「う、艮様!?」

「艮様がこんな村に!?」


 艮の存在に気付いた村人たちは、驚きと恐れ、そして何か安心感の入り混じった表情を浮かべた。


「艮様……息子は……もう、この世にはいないのですね。私の息子は、無事に天国へ行けましたか?」


 艮の存在はこの国の者なら誰もが知っている。黄泉送りの噂もまた然り。

 母親は、直秀がもうこの世にはいないことを理解しつつ、涙声で尋ねた。


「貴方の息子、直秀くんは無事にあの世へと行きますよ」


 艮の言葉に、母親はようやく肩の力を抜き、安堵の表情を浮かべた。

 母親の周りに弟や妹たちが集まり、竹の包へ目を向けた。


「お母ちゃん、それ、お兄ちゃんが作ったの?」

「そうよ……直秀が……作った……最後のご飯よ……っ」


 母親が竹の包を子供たちに差し出すと、弟妹たちは握り飯を一つずつ手に取り、口に運んだ。


「ほんとだ……直秀兄ちゃんの優しい味がする」

「お兄ちゃんの大好きな味だ」

「美味しいね」

「うん、うん、そうだね。美味しいね」


 兄妹たちの言葉に、母親は涙を流しながらも微笑み、頷いた。

 弟や妹たちも同じように涙を流しつつ、嬉しそうに笑っていた。


「お姉ちゃん、ありがとう……最後にお母さんと兄妹たちの笑顔が見れて良かった」


 直秀はぽろぽろと涙をこぼしながら椛にお礼を言い、静かに淡い光を発していく。


「おにい……ちゃん?」


 女の子が光を発する直秀に気づき、声を震わせた。


「なお……ひで……」

「お兄ちゃん!」


 母親と弟たちも直秀の存在に気づき、歓声を上げる。


「お母さん……僕のこと、見えるんだね……!」

「ええ、直秀!直秀っ!最後に会いに来てくれてありがとう!」


 母親はよろよろと立ち上がり、直秀に抱き着いた。

 弟妹たちも直秀の足元に駆け寄り、次々と抱きつく。


「おれっ……おれ……兄ちゃんみたいにできないけど……でも、兄ちゃんの分も頑張るよ!」

「僕も、お兄ちゃんが心配しなくていいように家族を守っていくよ!」

「私も、泣き虫辞める!」


 兄妹たちの決意に、直秀の光はわずかに揺れ、温かく輝いた。

 そして、安堵に満ちた表情で、そっと家族を見守るように空へと昇っていった。


 椛と艮は、静まり返った社へと戻った。

 二人の周りには、人魂となった子供たちの小さな光が、ふわりふわりと浮遊している。


「ねえ、お姉ちゃん。俺、子守唄で送って欲しいな」


 直秀の人魂がそっと椛の傍に寄り、柔らかく囁く。


「子守唄?」

「うん。お母さんがよく歌ってくれていた唄」

「でも、私、この国の子守唄知らないよ?」


 椛の言葉に、他の魂たちも集まり、輪になった。


「私、歌えるよ!教えてあげるから、私も歌って欲しいな」

「僕も!」

「私も……!」


 無垢な魂たちの声が重なり、社の中はまるで小さな音楽堂のように柔らかな空気に包まれた。


「わかった。それで、君たちが無事にあの世へ逝けるなら」


 椛は微笑み、そっと手を合わせると、子供たちの願いに応えた。



 ゆらり ゆらり 水の音

 かすむ彼方へ 舟はゆく

 かあさま呼べど 声は届かず

 夢のほとりで 眠りませ


 とおき とおき 星の影

 橋のむこうに 灯がともる

 てのひら重ねて 目を閉じれば

 あすは安らぎ 夢のなか



 椛の唄声に導かれるように、子供たちの人魂は静かに、そして優雅に空へと昇っていく。

 その光景は幻想的で、まるで星々が地上に降りてきたかのようだった。

 無意識に、椛の頬を一筋の涙が伝った。


「大丈夫。あの子たちは、無事にあの世へといけたよ」


 艮がそっと椛の肩に手を置き、優しく涙を拭った。


「うん……そうだよね」


 椛は小さく頷き、光る社を見上げながら、そっと願った。


「生まれ変わったら、今度は寿命をまっとうして……幸せに生きて欲しいな」


 その願いは、子供たちの光に乗って、遠く星空の彼方まで届いていくようだった。

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