4.まだかなあ
アルスは、平日は学校に通っています。帰ってくると、大急ぎで卵のところへ向かいます。
「シロロ」
呼びかけてみると、卵のなかの竜は起きていたようです。
「アルス」
答えが返ってきました。
自分の名前も覚えてくれたのです。
「わあ、ぼくのことも呼んでくれたんだね。嬉しいよ」
思わず卵に手を触れて、アルスは尋ねます。
「ねえ、いつも目しか見えないけど、卵のなかはどうなっているの?」
シロロの姿が少しでも見たくなって、卵の穴をのぞき込もうとしました。
すると、黒い瞳が一瞬ちらりと見えて「だめ」とひと声。それから、ぎゅっと何かで穴をふさぎます。途端に、卵はくるりと回転して、横倒しになりました。
卵のなかで、シロロは足の裏を穴の辺りに押しつけて転がしたようです。
「見ないでよ」
小さなくぐもった声がしました。シロロはのぞいてほしくないようです。
「もうしないよ」
アルスは素直にお願いしてみます。
「ね、もとに戻してもらえる? 穴が開いていないと、声が聞こえづらいんだ」
竜のほうが人間よりもずっと耳がいいのです。
シロロたち卵のなかの竜は、殻を割る前から人の声が聞こえているようです。けれども、卵が完全にふさがっていると人間には竜の声はよく聞き取れません。
「出てくるまでは絶対のぞかないから。見ないで楽しみにしているよ」
アルスはきちんと約束をしました。
それでやっとシロロは納得してくれたみたいです。がさごそとなかで動きまわる音がしたかと思うと、横になった卵がくるりと動きます。
卵の白い先っぽが下のほうへ移動したかと思うと、ころりとまた横倒しになりました。
アルスは吹き出してしまいそうになり、何とかこらえて教えます。
「シロロ、反対だよ。今足をかけたのは上のほう。いつも下になっているほうは反対側だよ」
すると、ごそごそと音がして、また卵がくるっと回りました。
今度はちゃんともとの位置に戻りました。
アルスは、いつもどおり卵の世話をするときも、寝る前にシロロの卵をベッドへ持っていくときも、シロロに話しかけています。
まだ赤ちゃんなので、寝ていることもよくありますが。
「出てきたら、おいしいものをいっぱい食べようね」
「おいしいもの?」
「竜と人間は、同じものを食べられるんだって。甘い果物とかほかほかのパンとか取れたてのミルクとか。お魚もいっぱいあるよ。一緒に食べようよ」
「うん、いろいろ食べようね」
「海にも行こうよ」
「海?」
「うちのすぐそばにあるんだよ。あ、シロロは見たことないよね。卵のなかだもん。えーとね」
アルスはシロロにどうやって説明しようか、真剣に考えます。
「広くてしょっぱくて大きな水だよ。砂浜にね、ざぶーんって波が来るんだ」
話しながらも、アルスには、潮の匂いが鼻をくすぐるように感じられ、白い砂の上に寄せては返す波の音が聞こえてくるような気がしてきます。
けれど、シロロにはそれが少しでも伝わっているでしょうか。
シロロがぽつりと言いました。
「海……知ってるよ」
「えっ?」
アルスは聞き返しました。
「海、わかるよ。ずっと遠くまで広がっていて、たくさんの島の周りにある水だよね。いつもうねっていて、太陽が当たるときらきら光るの。島のそばまで来ると、ざぶーんってなるよね」
「シロロ、見たことあるの?」
アルスはびっくりしました。
「ないよ。思い出しただけ」
「すごいなあ」
生まれてくる竜たちは、祖先のいくらかの記憶を持っている。
アルスもその話は聞いています。けれど、こういうことなのかと分かったのは初めてでした。
竜は、眠っていたものをひとつずつ呼び覚ますように思い出していくそうです。
アルスの語る海は、島の海岸から見た海でした。けれど、シロロの語る海は、島々の上空から見た海に違いありません。
シロロと自分とは全く別の海を知っている。
そう思うと、アルスは何だかすごく不思議な気持ちになりました。
自分の方がシロロより知識が多いと思っていたけど、竜には竜のものの見方や知っていることがあるのです。
シロロと二人で、これからいろんなところへ行って、いろんなものを見ていきたい、とアルスは強く望みました。
「そうだ、市場へ行って買い物もしようよ。他にはね……」
楽しみなことがいっぱいです。
「だからさ、早く出ておいでよ」
アルスは、どうしてもそう誘いたくなります。
「うん、もうちょっとしたらね」
「もうちょっとかあ」
シロロが何かためらっているようにも思えて、アルスは歌で励ましたりもしました。
竜の子、竜の子、出ておいで。
ぱりぱり、ぱーりぱりっ。殻を割って、出てきてごらん。
外の世界は明るいよ。広いよ。楽しいよ。
ぼくもみんなもシロロを待っている。
さあ、ぱりぱりって出てきてごらん。
五日がたちました。
朝ごはんの時間に、アルスはシロロのことを話題にしました。
焼きたてのパンにとろりとしたバターをつけて食べます。白身魚と豆の入ったスープに野菜サラダ。添えられたパイナップルは新鮮で、体の熱を冷ましてくれそうです。
お母さんがアルスの言葉を聞いて、話しました。
「そろそろ卵から出てきてもいいんじゃないかしら。だいぶひびも入ってきたし」
「もう力もついているはずだな」
お父さんもそう言っています。
アルスだってもちろん、すぐにでもシロロが出てくるはずだと思っています。
カイがとなりでパンをお代わりしています。アルスはそれを気にしながらも、ミルクを飲み干すと、告げました。
「きっと、今日こそシロロは出てくるよ。ぼく、よく話しかけて励ますから」
アルスは「ごちそうさま」と言って、卵の小屋へ走って行きます。
それでも、竜の子は卵のなかで、もぞもぞするばかりでした。そして、小さな声で答えます。
「もうちょっと待って」
出ておいで、と言うことにはためらっているシロロですが、外の世界にはとても関心があるようです。
晴れた昼間の空の明るさと暖かさ。吹く風のさわやかさや湿った大気にざあざあと降る雨。
夜明けや夕暮れの空が赤く染まること。夜には数え切れないくらいの星が瞬き、月が姿を変えること。
冷たく心地よい水。おいしい食べ物。たくさんの遊ぶ場所。
島の森林にはさまざまな実をつけるものもあり、美しい色合いの花が開くこと。リスやネズミなどの動物が駆けめぐり、たくさんの虫がいること。色鮮やかな鳥が飛んでいること。
そして、畑の先の青い小屋には幼い竜がいて、時には遠い海の向こうから郵便を運ぶ大人の竜がやってくること。
この数日で、アルスはシロロとたくさんのことを話しました。
シロロはアルスの話を、知っていることも知らないことも、どれも楽しそうに聞いていました。
「外はおもしろそうだなあ。アルスと遊べるのも楽しそう」
それだったら、早く出てくればいいのになあ。
アルスはもう待ちきれません。三日で出てくると思っていたのに、五日たってもまだなのです。
どこか落ち着かないアルスを両親はなだめます。
「無理強いしてはいけないよ。はずかしがり屋さんなのかもしれないよ」
「すぐ出てくる竜もいれば、そうじゃない竜だっているよ」
お兄さんもそう言いました。
「そうなの。じゃあ、ゆっくり待ってるよ」
「そうね、きっとそのうちどうしても外が見たくなって、殻を割って出てくるわよ」
お母さんの言葉に、アルスはこくんとうなずきました。




