第03話 名前を教えろ
実際に会ったアルヴェンダール=ロウデン様は、ゾッとするほどに恐ろしく、美しい人だった。
華美な騎士団の礼装を見事に着こなしてしまう、すっと通った高い背に、獲物を睨むような鋭い眼光。そして二つ名の“銀狼卿”を象徴する、キラキラと氷のように輝く銀の髪。醸し出す雰囲気は男性的で暴力的なそれなのに、性別を超え、中性的で触れ難い、圧倒されるような孤高を感じる。
その形の良い冷たい唇が動き始めるまでは、生き物の頂点にいる存在が首をもたげているようで、私が今、息をしていられるのは、あくまでこの方の気まぐれに過ぎないと直感させられた。
私にはこの方に相対することなど能わなかった。ただただ平身低頭して、まるで断罪されるのを待つだけかのようだった。
──あるいはミラベルなら、この美しさに並んで、堂々と立ち振る舞えるのではないか。
そんなことが、頭を過った。
「くだらん娘だ」
アルヴェンダール様は最初に、そのようにおっしゃった。
私が背をビクッと震わすと、あざ笑うかのように彼は続けた。
「おまえ、名は?」
「坊ちゃま!」
後ろに控えていた、たった一人の使用人の女性──口ぶりからするに、古馴染みだろうか──が、彼の冷たさを調和するかのように小声で言った。
「なんだマイラ」
「そのっ、妻となる女性の、名前を知らないなど、あまりにも」
「知らんものは知らん」
アルヴェンダール様はその女性をまるではねつけるようにしてから、私を睨む。
私はそれで固まってしまった。この方と一対一で話すだなんて、とても考えられなかった。
息を呑む。呼吸ができない。ともすれば、殺されてしまうかもしれない。
「ぺ、ペンフィールドです」
なんとかそう答えても、アルヴェンダール様は舌打ちを返すばかりだった。
「それは家名だろう。俺はおまえの名を聞いている」
名?
私の、名前か。
そうだ、聞かれたのは名前だ。
姓ではなく、名前。
「自分の名も言えんのか?」
「え、えっと」
私はまた混乱した。当然口を突いて出るべきそれは、とっくの昔に私の体から遊離したようだったから。
名前。名前。何かあるときに書いていた、あの、名前。
それももう、書くことすらなくなった、名前。
えっと。
お母様がくれた、あの名前は。
「シ、シーナ、です。シーナ=ペンフィールド、です」
「ふん」
久々にその名を、それもこの方を前に口にして、私は呆けてしまうかのようだった。
「おまえをすぐに突き返さないのは、家の意向があるからだ。本来ならおまえのような娘の顔など見たくもない」
アルヴェンダール様は動けなくなった私を見て、軽く息を吐いて立ち上がり、去り際に言った。
「俺の言うことにはすべて従え。さもなくば殺す」
***
翌朝に客室で目覚めて、私は本当に久しぶりに、家の外に出たことを思い出した。
昨晩のアルヴェンダール様の眼光もすぐに思い出されて、背中が竦むようだったけれど、一方で、あまりにも上等なベッドに寝させてもらえたから、あるべき心持ちがよくわからない。
ここは王都にある、ロウデン侯爵家の別邸だ。騎士団の第二師団長であるアルヴェンダール様は一年の半分を領地ではなく王都で過ごすそうで、その期間に私も、この縁談を進めることに相成った。
ロウデン本家とペンフィールドの本家の意向によって結婚自体はもう決まっているらしい。ここから先は、アルヴェンダール様が私を見定め、早々に離縁をしないかどうか、ということが問題だそうだ。
私が離縁されてしまえば、ペンフィールドは援助を受けられず、ミラベルの望んだ結婚は叶わなくなるかもしれない。
それだけは絶対に、避けなければならない。
よく眠れたけれど、目覚めるのは早かった。私は一階の炊事場に降りて、昨日別邸を案内してくれた使用人のマイラさんのところに行った。
アルヴェンダール様の意向で、ロウデン家は使用人をほとんど雇わないそうだ。アルヴェンダール様は自分の身は自分で守れるから、王都にいる間などはそれこそ使用人はマイラさんだけらしい。
マイラさんは調理台の上でパンを捏ねていた。
話しかけるべきか、迷う。家では同じ立場の使用人にすら無視されていたから。
「お、おはようございます。マイラさん」
でも、そうしないと話が進まないから、勇気を出した。
「あら、シーナ様。おはようございます」
マイラさんはあっさりと笑顔で返してくれた。
「ごめんなさいね。貴人をあんな貧相な部屋に泊めさせてしまって」
「……え?」
「固かったでしょう、ベッド。急ごしらえだったから、ちゃんと物を用意できなくてねぇ」
「いえ、すごく、よく眠れて」
固いのかな、あのベッド。
ずっと床に毛布で寝てたから、わからない。
「本当に、ありがとうございます」
私はわからなくなって、とにかく頭を下げた。貴族の娘として常識のないことを言ったかもしれない。今はわからないことは誤魔化すしかなかった。
マイラさんは目を丸くして私を見つめていた。
それで、えっと、えっと。
「その、朝食の、準備は、私も」
私がそう続けると、すでに丸くなったマイラさんの目がますます丸くなる。
「シーナ様は、水仕事をなされるので?」
「は、はい。その、マイラさん一人と、おっしゃっていたので。私も何か、しないと」
マイラさんは眉間にしわを寄せて、しばらく考えるようにした。
「……申し出は、ありがたいのですけれど。今は一旦やめておきましょう。坊ちゃまは口に入れるものを気にしておいでです。昨日の今日では、シーナ様がどんな目に遭うかわかりません」
「そう、ですか」
「まずは共に、朝食を食べて様子を見ましょう」
そうして別邸のテーブルの上に用意されたのが、蒸し卵と緑葉のサラダと、白パンに、冷製のスープ。
すごく豪華な朝食だ。
長くて大きいテーブル。そこにゆったりと座るアルヴェンダール様の向かいに、私も座る。
マイラさんから一つアドバイスがあった。ロウデン家では先に食事に手を付けるのは妻で、毒見のような役割を果たすらしい。
だから私は、先にサラダに口をつけて少し水を飲んだ。手早くパンも齧った。
緊張でパンが喉を通らない。こんなに上等なパンなのに。
「おい、娘」
それを見て、アルヴェンダール様は言った。
「主人と同じテーブルで飯を食うつもりか?」
私は自分の失態を悟った。
そうだ。毒見役というのなら、立場も相応であるべきだ。
すぐに椅子を降りた。食器を汚さないよう、ナプキンを床に敷いてその上に食器を置き、床に膝をつく。
それで、スプーンを手に取ってスープの毒見を続ける。
「食器を使うのか?」
ああ、私はまたも失敗をした。主人と同じ作法で食べて良いわけがない。
私はスプーンをナプキンの上に置きなおした。それからすぐに指先でスープをすくい、なるべく啜る音を立てないよう飲んだ。
「アル様!」
「マイラ。おまえは口を出すな」
アルヴェンダール様は立ち上がり、厳しい目で私の毒見を見つめていた。
そうしてしばらく経って、彼は自分の食事には手を付けないまま、礼服を取り、玄関に向かった。
「出る。いつ帰るかはわからん」
毒見役は……もういいのだろうか。
呆けてしまいかけたけれど、私はすぐに「見送らねば」と思い当たった。スープで汚れた手を拭って、玄関の方に向かう。
アルヴェンダール様はすでに馬に跨っていて、マイラさんが揺れる瞳でそれを見送ろうとしている。私は彼女の隣に、なるべく目立たないよう、しかし妻としての作法は正しいように佇む。
彼はしばらくこちらを見ようともしなかったけれど、最後に私を一瞥した。
「おい、娘。おまえは俺の言うことに従うのだったな?」
「はい、もちろんです」
「なら──」
馬上からあの鋭い視線が注がれる。朝日が銀髪を乱反射して、霞のように煌めく。
私は心底、綺麗だなぁ、と思った。
「──ずっとそこに立っておけ」
そう言い残して、彼は別邸を発った。




