第23話 家のために死になさい
──シーナは、まだ戻らないのか。
代わる代わる礼を述べにくる者たちをさばきながら、ふと、不安が募った。
戦場から帰ってきてからは、いつもシーナがそばにいた。彼女も俺もそうしたいのだと通じ合ったつもりでいて、だからこそわずかな間隙でも、彼女がそばにいないことが不自然にすら思えた。
最初は、しばらく夜風に当たりたいということだと思い直していた。
戦勝パーティーのような大規模な催し事に、それも英雄の妻として参加するのだから、彼女のたちからして疲れてしまうのはわかっている。それでも彼女は頑張ってくれた。着慣れない華美な服を着て、慣れない酒も飲んで、一生懸命に訪れてくる人々を応対してくれた。
ちゃんと甲斐もあって、シーナは本当に、美しかった。
他の男に黒百合の姫君などと持て囃されるのは気分が良くなかったが、元々綺麗でたおやかな顔立ちに、王国でも珍しい艶やかな黒髪は、きちんと着飾りさえすれば、他の誰の妻にも娘にも劣らない華やかさを持った。それどころか、周囲を圧倒するほどシーナは綺麗だった。
でもそれを本人は、自覚していない。
だからこのことを、俺の口からだけではなくて、周囲からも言って、聞かせてやってほしかった。
おまえはちゃんと価値のある人間で、俺の隣に相応しくないなどと悩まなくていいと。
それが本当に伝わったのかはわからない。けれど彼女は今に至っても時折浮かない顔をしているから、せめて俺だけは、ずっとシーナに対してこのような不断の努力を続けねばならないと考えていた。
それが一種の油断であったということに気付くまで、しばしの時間がかかった。
席を外すと言ったシーナと交わした抱擁と、彼女の薄くて細い背中の感触の意味深さが尾を引いていた。
「失礼」
並ぶ来賓に一言だけ言って、シーナの消えた方向に歩く。それはすぐに早歩きになる。
外に繋がる通路に出た。
少し酔い覚ましをしようとしている奥方が並んでいて、そのうちの一人に尋ねる。
「俺の妻を、見なかったか」
「ろ、ロウデン卿!?」
「俺の妻だ。黒髪で、青いドレスを着ている」
その奥方はバルコニーの方、それも、奥まった方を指した。
俺はそこに向かって、次第に、駆けていた。
これは、いつかの結婚式と同じような、彼女を隣で守ってやれているわけでもないのに、してしまった油断だ。
俺のふるまいは妻である彼女のふるまいだろうと、彼女がそばにいなくても彼女が俺の背中を見ていると思って、やりたくもない英雄のあるべき姿を勝手に自身に課して、それに夢中になってしまった。
「シーナ! いるか!」
バルコニーに出る。夜風が冷たい。左右を見ても誰もいない。
さっきの奥方が差した方向にまで行く。大理石の手すりまで寄って下を見る。そこにも人はいない。
だが、戦士の本能が、石の手すりについた縄の跡を、見逃さなかった。
「……っ!」
警備は万全なはずだった。このパーティーには武勲を与えられた戦士やその他の兵站の準備に多大な貢献をした者、そしてその家族しか参加できない。和平の直後ということもあって、会場の周りも王国の兵で固められている。
そんな中で狼藉を働ける者とすれば、それこそ内部の、武勲を挙げた者。あるいは──
直感が働いた。
そして、シーナを連れ去る目的も。
にわかに血が沸き立った。俺がそうさせるより早く冷たい風が吹いた。
気付けば俺は、一匹の氷狼に身を替えていた。
鼻腔を膨らますまでもなく、彼女の香りがする。
これは血の香り。
そしておびただしく溢れる、悲しみの香り。
踏みしめれば大理石が軋む音がした。風は吹雪き、大地と木々は凍って、建物を覆いつくさんとするかのようだった。
そうして俺は、月明かりにむかって、跳んだ。
***
両の腕を縛られ、猿轡を嵌められ、一切の身動きを取ることも許されず、ただの荷物のように私は馬車に乗せられた。
馬車は急停止して、ミラベルが指示すると、私は見覚えのない男の人たち──たぶん、レイヴンシェイド家の人だ──に、乱暴に地面に投げ捨てられる。
見えたのは、ペンフィールドの実家の門だった。
久しぶりの、実家の扉。
私はそれで、暗澹たる気分に戻っていくのと同時に、どこか慣れた、安心したような気分すら覚えていた。
──ああ、どうせ私はここに帰ってくる運命だったんだ。
門が開いた。やってきたのはお父様と、お継母さまだった。
「ミラベル! 首尾よくやったか」
「ええ。お姉様もね、こうして、快くついてきてくれたの!」
お父様が尋ねて、ミラベルが元気よく答える。
地面に転がったままの私の首根っこを、お父様は無理やり掴んで立たせようとした。
「早く立て。すぐに来るんだ」
久しぶりに会えたお父様は、前にも増して、私を何か汚れた物かのように扱おうとしていた。お継母さまもだ。それを見守って、まるでこれが正しい私に対する罰かのように、悦に入った顔をする。
「もう! お父様ったら冷たいんだから!」
おかしなことに、ミラベルはお父様から私を庇うようなことを言った。それは却って恐ろしいことだった。
だって、先ほどからずっと、ミラベルの声は異常なほど明るいから。
「お姉様は今から、家のために死んでくれるのよ? でね! それで、私、すっごく良いこと考えて! お姉様もいいんじゃないかって言ってくれたことなんだけど!」
「……ほう?」
「お姉様、ロウデン卿を譲ってくれるんだって! エルリック様も助かるついでに一石二鳥よ!」
お父様はそれを聞いて、一度だけ考えたあとに、顔をぱあっと明るくする。
「おお! なるほど! それは名案だ!」
「でしょ? でしょ? ロウデン卿も最近は大人しくなったらしいし、きっと良い夫になってくれるわ!」
「そうと決まればますます急がねばな! 邪魔が入っては良くない!」
お父様はレイヴンシェイド家の人に指示を出して、ひどく性急に、私を屋敷の中に無理やり歩ませた。
私が連れられたのは、かつてのペンフィールドでの日々でも、絶対に入るなと言われ続けていたところだった。
それは玄関を抜けた先の、階段の裏の通路を進んだ先にある場所。屋敷の一階の最奥部にあたる。
通路の途中で、お父様は人払いをするようにレイヴンシェイド家の人を引き返させた。だから、私と両親とミラベルの四人だけで、そこを進んだ。
酷い匂いがした。古びた埃の香りだけじゃない。汚泥の匂いとも、肉の腐った匂いとも違う、何か、根本的に岩が腐ったような、そんなおぞましい香り。
着いたのは、部屋と言うには広すぎる空間だった。
窓はない。蝋燭の明かりだけ。薄暗いけれど天井は高く、細かい砂がざりざりと広がっていて、けれど、向こう側の壁に、十字架がかかっている。礼拝堂のように見えた。床には怪しい魔法陣が敷かれている。そしてその中央に、椅子が一つ。誰かが座らされている。
煤けているけれど、金髪の、立てばすらりと背が高いような男性。
その人はきっと、エルリックさんだった。目は開いていない。顔も半分は包帯で巻かれていて、両手は吊り下げており、けれど体に不均衡に力は入っていて、なんとか椅子に座っている状態を保っている。
──なんて、痛々しい。
私はエルリックさんの前に放り投げられるように押されて、膝をついた。
不思議なことに両親は、それだけ確認すると踵を返した。
「じゃあミラベル。あとは頼んだよ。私たちは表を見てくるから」
「ええ! わかったわ! 万一の時はお願いね!」
扉が閉められる。
この不気味な空間に残ったのは、私とミラベルと、エルリックさんだけ。
そこで初めてミラベルは私の猿轡を外し、両手の拘束を解いた。
呼吸が自由になる。私が声を発しようとしたら、ミラベルは私の背中の真ん中をがん、と踏み抜いた。
「早く唱えなさい。待ってる暇なんてないの」
痛くて動けない。呼吸がまた苦しくて、立てもしなくて、抵抗すらできない。
ミラベルは私の首を掴んで、エルリックさんに正対させる。
「ほら! ほら! ほら! 早く!」
私は逃げるように、この場で唯一ミラベルではない人、正面のエルリックさんを、見た。
目は、薄く閉じている。何か見えているのか、見えてないのか、わからない。
けれどその口はわずかに動いたように見えて、
「ごめんね」
と、そう言われた気がした。
私はそれでもう、諦めてしまった。
頬から薄い涙の感触がする。ミラベルは耳元で叫び、ひたすらに罵声を飛ばしてくる。
次第に私は、痛む両肘を上げて、両手を近づけていった。
結局のところ、私は誰かに従うことしかできない。それを拒むことができない。
これで正しかった。最初から、最初からこうなるって決まってた。
両手の指の腹を合わせて、唱える。
「『荒ぶる御魂を今、我が命を賭して、鎮め奉らむ』」
唱えてもすぐには、何も起きなかった。
何かの間違いであってほしいと思った。この魔法もこの詠唱も、何かの間違いで、発動なんてしないんじゃないかって、そんな淡い期待すら持った。
けれどほどなくして、私の掌からは、たくさんの蛍みたいな緑色の光が浮き出始めた。




