第八十九話 どうかあなたが
「『傀儡師』は脳を酷使します。ヴィム本人は失敗すれば損害が出得る、程度の認識に留めていましたが、そうでなくても繊細な器官をあまりに無理やり動かすわけですから、深く考えずとも何かしらの副作用は見込むべきでしょう」
ヴィムの様子がおかしいということ自体には、かなり前から気付いていた。
「現在私にわかっているのは、記憶の喪失と味覚の変化、及び鈍化です。性格もやや変容しているかもしれません」
最初は新しい環境に慣れないがゆえ、あるいは単に昔のことを忘れているだけ、もしくは成長ゆえの身体の変化だと思っていた。
だけどそれでは説明できないくらい、ヴィムの記憶はところどころ欠落していた。
「恐らくかなりの記憶を喪失しています。長らく思い出していないことや忘れたいこと、その多くはきっと深層心理で重要だと思っていないことから順に忘れていっていると思われます」
ヴィムの自室にあった、顔のスケッチの下に名前が書かれているあのノート。
あんなの異常だ。
あまり関わりのない人の顔と名前が書かれているならまだ理解できるが、カミラさんやアーベルを含めた全団員の分を書く必要なんてどこにある。
「戦闘と関係が薄い感覚も鈍くなっているか変容しているみたいです。今見られるのは味覚や痛覚の鈍化。もともとヴィムはかなり好き嫌いが多かったんですが、ここ最近は急に味の濃いものや刺激物を食べられるようになっています。味わっていた素振りは見られないので、検査してみれば結果は出るかと」
カミラさんとアーベルは静かに私の話を聞いていた。
二人はまだ私の話を受け止めている段階のようだった。
唐突だったかな。
でも、ヴィムの性質は二人みたいな人には理解しづらい。
異常が結びついたりすればまだわかりやすいかも。
副作用さえなければ我々と一緒、と思われるのも違うけど。
「ハイデマリー、それは確かなのか」
「はい。思い返せば最初に『傀儡師』を使ったらしい大鰐の撃破の直後からその兆候がありました。物証として、団員全員の顔と名前、会話が事細かに記されたノートも確認しています。第九十九階層から戻ってきて以降はそのノートの存在も忘れてしまったみたいですが」
たとえば極々一般的な逸話やおとぎ話、歳を取るにつれ誰もが思い出す機会を失うが、それでも覚えているような類の話をヴィムはほとんど覚えていなかった。
あんなに本を読む子供だったのに。
「ヴィム少年は我々のことをもうほとんど覚えていない、記憶できないと? だから絆で引き留めようとしても無駄だと?」
「はい。覚えていたとして、強く残っているのは悪い記憶の方だと思います」
人間というのは悪い記憶の方を鮮明に記憶する、という話がある。
そしてそれとは別に、ヴィムにとってあの明るさはまったくもって重要には映らなかっただろう。
となれば記憶が残っていたとして、【夜蜻蛉】に対して恋しい気持ちが芽生えているとは考えにくい。
息苦しかった思い出の反面得られた楽しさが忘却され、その息苦しかった思い出のみが凝縮されたとなれば、この屋敷にいたいと思うわけもない。
「本人は自覚しているのか?」
「恐らく自覚まではしていないと思います。自分に何かしらの異常がある、ということまではぼんやりと感じている節がありますが」
この副作用の自覚はきっと難しいだろう。
そもそも忘れてしまう出来事は本人にとって重要度が低い。
その上で本人が深層心理で覚えていなければならないと意識しているもの、必要なものは残るわけだから、根本的に問題を感じにくい。
もちろん、その深層意識と私たちの望みは一致しないだろう。
もしかすると本人の望みすら置き去りにするかもしれない。
「だからねアーベル、言いにくいけど、ヴィムは君のことを覚えていないよ」
私がそう言っても、アーベルは何も答えなかった。
思案しているようだった。
歯を食いしばっているようにも見える。
しかし即座に否定はしない。
心当たりがあるのだ。
恐らくはあの長耳族の手合いの者と戦った喫茶店でのこと。
ヴィムはアーベルに対してほとんど初対面の人間のような態度をとっていた。
一息、ついた。
若干胸が空いていることに後ろめたさがある。抱えていたことを話してしまった。
良い機会ではあったかもしれない、いずれ判明していたことだ。
執務室の明かりがジジッと震えたのが聞こえる。
私も含めて、この場の全員にしばしの沈黙が必要だった。
「……ヴィム少年はそんな状態で、迷宮の呼び声を聞いていたのか」
カミラさんが呟いた。
「ハイデマリーさん、なぜ止めなかったんですか。推測でもいい、もっと早く言ってくれれば俺たちだって」
アーベルが私を責める。
当然と言えば当然か。
「やめろ、アーベル」
「ですがっ」
「ハイデマリーの顔を見ろ」
……顔に出ていたらしい。
意図なんてはっきり言えるものじゃない。
無責任かな。
「いいじゃん、アーベル。ヴィムにとってはどうでもいいことなんだ。無理に覚えてもらわなくても」
忘れて欲しいことだって、あるかもしれないじゃないか。
「俺は言いますよ、ハイデマリーさん。そういうのは本人が知らなきゃいけないことです」
アーベルは私に背を向けて、執務室の扉に向かう。
「待て」
「団長! 団長までそんなわけのわからない」
「落ち着け。ハイデマリーが今これを我々に言ったということは、つまり、そういうことだ」
頷いた。
さすがだ。
カミラさんは私の目から見ても素直に聡明。
この話をしていいと判断したのは、もうこれを言ったところで私たちにできることは何もないから。
ヴィムはきっと、もう迷宮にいるだろう。
「どういう意図なんだハイデマリー。聞かせてくれ」
聞かれるよなぁ、やっぱり。
「君が戦えば記憶が消えてしまう、と言えば、きっとヴィムは戦うことをやめるでしょう」
だってさ、君はあんなに楽しそうだったじゃないか。
窓の外、 迷宮の方を見る。
ヴィムはもうどこまで行っただろう。
急ぐ必要はないよね。
最終目標は角猿だろうけど、大型で肩慣らしをするっていうのもありだったりするんだろうか。
「それは、嫌なんです」
行け、ヴィム。どんな形だって、行きたい場所ができたんだろ。
逃げたい場所を見つけたんだろ。
逃げたいのなら逃げちまえ。
捨てていいものなら捨てちまえ。
忘れてもいいことなら忘れちまえ。
もう誰も君に追いつけないさ。
君はようやく、好きに生きることができるんだ。






