第八十七話 もう遅い、なんて
何を言うつもりなんだろうな、俺は。
クロノス相手に言いたいことがあるかと聞かれれば、ない。
説教をするつもりもない。
そんな資格もない。
「俺はさ、さして名誉が欲しいわけでもなかったんだ。【夜蜻蛉】のみんなからたくさんのものを貰ったってのもあるし」
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ褒められたかった。
それだけなんだ。
頭の中と外で言葉がするすると出てくる。
「ふざけるな! 全部お前がやったんじゃないか! お前が」
「聞いてよ」
でもうるさかったので、胸倉を掴んで頬を叩いてみた。
静かになった。
クロノスは面白い顔をしていた。
信じられない、と聞こえてくるかのようだった。
「知らない。知らないんだよクロノス。君がどうなろうが」
これはあれだな、クロノスに聞いてほしいんじゃなくて、クロノス相手だから言えることがあるんだ。
「俺は関わりたくなかっただけなんだ。君は君で好きにやれば良かったじゃないか。俺は何もしなかった。階層主討伐の話だって特に訂正しなかったんだよ。だってそれで君がどうこうなって逆恨みでもされたら面倒じゃないか」
整理されていた本心が固まっていく。
言葉にすることで何を思っていたのかがはっきりわかる。
「俺がちょっと、どうでもいい損をするだけだと思った。だからそうしたのに」
俺は今まで一度だって正義感で動いたことがない。
迷惑をかけたくなかっただけなんだ。
困っている人に手を差し伸べないのに罪悪感があっただけ。
つまるところ、何も責任を負いたくなかっただけ。
「なのに、余計なことしやがって」
背負うものを勝手に増やされてしまった。
重いよ、闇地図なんて。
どうしてそんなことを俺を関わらせてしまったんだ。
俺はもうラウラを助けてしまった。
君の罪の一要素になってしまった。
抜け出せない。
いつの間にかクロノスはまた騒いでいた。
痛みを誤魔化そうともしているのか、喉が潰れても叫んでいる。
「お前は【夜蜻蛉】にいたから! 俺だってお前くらい環境が良ければ!」
また頬を叩いた。
「ねえ、クロノス」
力関係が逆転していることに昂ってしまう。
嗜虐的な気分になる。
「俺って、かなり変だと思うんだよ」
まあでも、このくらいは許してくれよ。
「そういうのってすぐ伝わっちゃうらしくて、あんまりいい思いをさせたりしないみたいなんだ。けどみんな一生懸命受け入れようとしてくれて、本当にいい人たちだったんだよ。君の言う通り、環境は良かったと思う。でも、ダメだった。俺には向いてなかった」
俺の側がおかしいんだ。
論理的にも心情的にもみんなに一切の咎がない。
加えて言うなら俺に近い感性を持っている人も、なんとか折り合いをつけてうまくやっているんだろう。
現にハイデマリーもそうしていた節がある。
だけど、俺にはそれができないみたいなんだ。
どうしても気持ち悪いと思ってしまう。
違うと思ってしまう。
「だからさ、【竜の翼】みたいに無理に受け入れようとしないでいてくれる感じも、案外嫌いじゃなかったんだ。居心地は良くなかったけどね」
クロノスの眉が動いた。
「第九十八階層でさ、俺、活躍したんだ。それでちょっと勘違いしちゃった。俺はみんなに求められているんじゃないかって。それに応えることができるんじゃないかって」
「……じゃあそうしろよ! できただろうが! 俺ならそうしてた!」
会話が成立して拍子抜けする。
俺の方に会話をするつもりがあまりなかったから。
「うーん……どうかな、クロノスはちゃんとした指導者がいた方が良かったとは思うけど、そんないいものでもなかったよ。俺にとっては」
「ふざけんなよお前! そんなに恵まれて、それを! それを!」
「聞けよ」
三回目。
もう一度、さっきより強めに頬を叩いた。
「ねえクロノス、君は頭がおかしくなってるよ。俺のことを気にしすぎなんじゃないかな」
いつからだろうか。
クロノスはもともとそんなに慎重なタイプでもないけど、そんなに大馬鹿ってほどでもなかったと思う。
何かのかみ合わせが致命的におかしくなったんだ。
その異分子が俺だったというのなら、もしかすると俺にも責任の一端があるのかもしれないな。
さすがにそこまで罪悪感を背負うつもりはないけど。
「だからさ、俺のことは忘れて生きてくれよ。もう遅いかもしれないけど」
クロノスは茫然とした顔をしていた。
ようやく大人しくなった。
憲兵の人たちがやってきた。
念の為クロノスの手足を縛った。
この人たちにクロノスを引き渡せば、すべては一件落着になる。
そのまま然るべき手続きを経て裁かれることになるだろう。
裁判の結果はわからない。
どうなるのかな、犠牲になった人は多いけど直接殺しにかかったわけじゃないし、死刑とかにはならないのかな。
でも直接恨みがないのに何十人も殺したってのはなおさらタチが悪いと判断されたりもしそうな気がする。
いずれにせよ、これでもう俺とクロノスは本格的になんの関わりもなくなる。
あとは司法の手に任せればいい。
死刑か終身刑か、それとも刑期があればある程度は更生でもするんだろうか。
「……お願いします」
俺に頷いて応えて、憲兵さんたちはクロノスを荷物みたいに担ぎ上げた。
「だからさ、俺のことは忘れて生きてくれよ。もう遅いかもしれないけど」
あいつが俺を見下していた。
やめろよ。
そんな目をするなよ。
見透かしているとかじゃない。
こいつは俺を相手にしていない。
見下されてすらいない。
初めて会ったときから、あいつはずっと俺をこの目で見ていた。
「おい、こっちを見ろよ」
忌々しい憲兵がこの俺を担ぎ上げる。
何もしないくせに。事が起こってからしか動けないくせに、こういうときばかり正義面する屑共。
あいつは気怠そうに振り返った。
俺はあの目が大嫌いだった。
へりくだってヘコヘコして、自信がないっていうくせに。あいつの世界に関わる余地なんて最初からないと言われているみたいだった。
「こっち見ろって言ってるだろうが!」
「……見てたよ、ずっと」
嘘だ。
お前は一度だって俺を見たことがなかった。
「こっちを見ろよ! ヴィム=シュトラウス!」
追放したって無駄だった。
遠ざかっていくのに、あの瞳が俺を捉えて離さなかった。
*
猿轡を嚙まされたクロノスが担がれて運ばれていく。
それを見送っていくうちに、吐露したものの意味がわかってくる。
うん、やっぱりそうなんだ。
フィールブロンに俺の居場所はない。
受け入れてくれないんじゃなくて俺が受け入れてほしくないんだから、どうしようもない。
……本当にどうしようもないな、俺。
迷いは消えた。
異常な選択を取ろうとしている自覚はある。
でも夢現じゃない。
「……言われた通り行くけど、どう?」
虚空に向かって言ってみる。
半分冗談だ。
そのくらい余裕を吹かしてみたというだけ。
「ખૂબ જ ખુશ」
まさか返ってくるとは思わなかったので、びっくりした。
心地良い声だった。
居場所がない俺の行く場所といえば、一つだ。
進んで選んだ選択肢と消去法で残った選択肢が一致する。
半分くらい振り返ってみれば、しっくりくる方向があった。
一歩踏み出すのに達成感と罪悪感がある。
緊張する。嫌な緊張じゃない。
捨てちゃいけないとずっと言われていたものを、自分勝手に捨てていくような快感。
行こう。迷宮へ。






