第六十八話 同郷の盟友
その少し前の迷宮潜で、私は怪我をした。
ちょっとした怪我だった。自分で神官の魔術を使って応急処置をした上で全治までに一週間がかかったので、紙一重で冒険が終わってもおかしくないものではあった。
冒険者であるのならいつかは訪れる瞬間でもある。十分な反省と訓練のやり直しをして、そして改めて死ぬ覚悟で迷宮潜に臨む。通過儀礼と言ってもいい。
ただ、その怪我をした状況が、私たちにとっては別の意味を持っていた。
形としては、私がヴィムを庇ったとも解釈できたから。
◆
扉を開けてみれば、散らかっていた紙束が片付いて、部屋の隅に三つの箱が積み上げられていた。
その箱に目をやって、気まずそうにしているヴィムを見直してから、部屋に無理やり押し入った。
「明かりも点けずに。こんな夜逃げみたいなさ」
「ご、ごめん……」
「謝るなよ。話し合おう。何度も同じ話をしたけれど、もう一回だ。別に君が負い目を感じる必要はない」
私たちは暗い部屋で、正面から立って相対した。
もう背を抜かされて何年か。今やヴィムの方が頭一つ分くらい高い。彼自身は男性の平均より大きいというわけではないものの、私と比べれば相当な体格差がある。
それでも伏し目がちなヴィムは、随分に小さく見えた。
「言っておくけど、君は十分に役に立ってくれているからね。すでに付与術師として一人前。基本魔術の練度も上がってきていて、索敵も一級品だ」
「そう言ってくれるのは、嬉しい、けどさ」
「なに、私に一人で潜れってか? おいおいそれじゃさすがの私も死んじまうよ。死角が二倍だぜ?」
「そうじゃなくてっ!」
ヴィムは不意に、声を荒げた。
「俺と組む意味、ないよ……」
力なくそう言って、よりいっそう項垂れた。
やはりそういうことらしかった。ヴィムはこの部屋から出て行って、行方をくらまそうとしている。
私の前から姿を消そうと決断したのだ。
フィールブロンに来て以来、ヴィムが私と組むことに重圧を感じていたのは知っていた。
それだけで圧倒的な才能が証明される賢者と付与術師では、初期の段階から戦力としても期待値としても大きな差がある。組んでいるといえば即座になぜと聞かれてしまう。私がいないときに、ヴィムに交渉を持ちかける者さえいた。
だけどお断りだ。ヴィムを餌に私を釣ろうとする連中は全員伸した。
今現在の迷宮攻略が躓いていないと言えば嘘になるけれど、十二分に順調な部類。何かを変えなきゃいけないほどじゃない。
何より、私が嫌だ。フィールブロンにまでやってきて周りの雰囲気や慣習に流されるなんて、屈辱以外の何物でもない。
「いいかい、ヴィム、君は強くなる。君には才能がある。ちゃんと長い目で見たとき、迷宮の深奥を目指す私にとって、君と一緒にいるのが最適解なんだ。君には合理的な利用価値がある。今は我慢のときだよ」
私はこう言い続けていた。
間違っていないという確信がある。単なる妄信じゃない。贔屓目抜きにもヴィムは付与術の天才で、しかも旧来の体系を組み直している真っ最中だ。完成して数年訓練を積めば今とは全然違う景色が見えてくる。
しかしヴィムは黙ったままだ。納得した顔をしていない。何度も言ったことだから、私がこう思っているのは彼も承知している。
「わかった。百歩譲る。仮に私の見込み違いだったとして、君には君にしかできない役目があることをわかってほしい」
「……でも、賢者は、付与術も使えるし」
「ヴィムほどうまくはないって」
「……君なら、一か月もあれば追い抜けるよ」
「じゃあそれでもいい。君は私の一か月を詰めてくれていると思ってくれ。あわよくばもっと訓練して、それを三か月でも、一年にでもしてくれたらいい。たとえ私が君の思う通りの万能の天才だったって、できることは限られている。たまたま私が努力していないことをやってくれる人がいるということには大きな意味がある」
「そう、かもしれないけど」
「分業の本質的な意味ってそうだろう? 誰かひとりとんでもなく才能のあるやつがいたら、他の人間はみんな屑なのか? そりゃあ通らないし悲しいぜ。そんなみんながみんな不幸になる心意気はよかないよ」
私の剣幕に押されてヴィムは一度黙り込んだ。下を向いて言うか言うまいかして、それから、ポツリと一言、返した。
「それは、俺じゃなくてもいい」
思わずヴィムの胸倉を掴んだ。
「……良いふうに言ってくれているけど、さすがに誤差だよ。戦士の前衛がいてくれた方が何倍も効率がいい」
「おい、何言っているかわかってんのか」
「君は、その、最高にいいやつなんだ。公明正大で、誇り高くて、才能があって、そして、とびきり優しい。それが君なんだ」
「何をっ!」
「だからもう、気にしないで。君は十分、俺に構ってくれたから」
それは、殺し文句だ。
あの日からフィールブロン来て、今日に至るまで、一度だって私たちの間で口にしなかった言葉。
彼がいったい、何を指しているのか。
私を救うために付与術師になった、あの日のことを言っている。
「じゃあ! 私がただの憐憫と罪悪感で君とつるんでいるとでも思ったか!?」
「現に、俺って、弱いし……」
「今はそうかもしれない! でも、君はあっという間に全員を追い抜く! すでに片鱗は見えている! 私だって例外じゃないよ! 君には、君には才能が──」
「ハイデマリー。やっぱり君は、おかしなことを言ってるよ」
ああ、ダメだ。
「そんなわけ、ないじゃないか」
ヴィムはもう心を決めてしまっている。
それでもまだだと踏みとどまった。やりようはいくらでもあるはずだった。
問題は時間だ。先人がいないがために今は躓いているだけで、ヴィムは大きな成長の準備段階にいる。試みと訓練を積み続ける環境さえあれば、いずれは覚醒の時が来る。
それまで私と実力の乖離があるというのなら、たとえば一緒に大きなパーティーに入るのはどうだろうか。実力が不足していると判断されたら同じパーティーの違う部隊に配属されるだろうから、私はそれはそれでじっくり待って、ヴィムが頭角を現してきたあとに合流するという道を選べる。
大所帯に入るのは嫌だったけれど、ここから先はあらゆる折衷案を考えなきゃいけない。
私は改めてヴィムに提案しようとした。やり方を変えようと、やり直そうと。
でも、しっかり目を見て話そうとして、気づいた。
ヴィムはその口端に小さな笑みを浮かべていた。
夢が覚めるみたいに頭が冷えた。
もう、そういう段階じゃない。
ヴィムが、ヴィム本人が嫌なのだ。
微かに見覚えがあった。昔の、出会ったころのヴィムがコリンナおばさんに見せていた顔だ。諦めている。この場をやりすごそうとしている。
こんな顔になるまで、私は彼を追い込んでしまった。
陰気臭くて自信のない顔と、曲がった背筋は元々だ。私はそんな彼の風貌に親しみを覚えていたし、その心根を含めて、良いとすら思っていた。
だけど、これは違う。
やめてくれ。
私に向かって、そんな顔をしないでくれ。
君が私の味方であってくれたように、私も君の味方でありたいのに。
私の顔色を、窺わないでくれ。
掴んだ胸倉を離した。そんな勢いなんて残っちゃいなかった。
私たちは二人して、向かい合ったまま押し黙った。
言うことなんて何もなかった。話し合いは十分に為されていたから。
先に背を向けたのは私の方だった。
耐えられなくて、初めて私の方から先に目を逸らした。
「ねえ、ヴィム」
扉に手をかけて、言った。
「私と縁を切らないでほしい」
ここはきっと、切れ目だ。
「……その、私たちはさ、だいぶん、若い。まだ子供だ。そんなに白黒はっきりしなくたっていいだろう? ごくごくたまに会って、酒を飲もう。近況の報告をしよう。それで──」
もっと一緒に冒険をしたかった。いろんな体験を共にしたかった。
「──何か困ったことがあったら、助け合おう。今は無理でも、もうちょっといい距離感に、なったらさ」
だけどそれ以前に。
私はヴィムに、嫌われたくはなかった。
「私たちは、同郷の盟友なんだから」






