第五十三話 満身創痍
街道を逸れた道で馬力の強化を使うのは無茶だ。
俺どころか馬自身が自分の体を御しきれていない。一瞬でも歩調が乱れれば即座につんのめって飛ばされる。
祈るしかないのだ。保ってくれるように。
どこの国のどの兵隊がわからない旗が乱立する中を駆け抜ける。俺が抱えている少女が彼らの目的であると悟られないように、伝令か何かだと勘違いしてくれるこを期待して、平然と走る。
遠くに見えた森に着くまですぐだった。減速も遅れた。
馬力の強化を解いて、馬の首に押し付けられるのが数秒。浮遊を感じた。ガクンと馬体が下がった。
巻き込まれまいと自分からハイデマリーを抱えたまま飛び降りる。
俺が下になって、受け身を取れた。
「がっ……」
体が潰されて、全部が口から抜けた。
冷静に考えてダメだろこれ。落ちてきた人に潰されるのと一緒の衝撃だ。
意識が遠のく。その瞬間に言う癖がついている。
「『目覚めよ』」
意識の淵で踏みとどまる。
ハイデマリーには木を背もたれに寝てもらって、馬を確認しにいく。
馬は倒れて呻いていた。
文字にならない呻き声だった。
脚を見る。
前脚が複雑に折れていた。右脚の関節は逆方向に曲がって、左脚は折れた骨が皮膚を突き破っていた。
今更、目を背けたくなった。
何を考えているのか。さっき盗賊団に別の馬に爆薬を載せてけしかけたばかりなのに。
していたのは覚悟だけだった。認識が不十分だった。
俺が巻き込まれ、飛び込んだ戦いというのはこういう戦いなのだ。
いくつもの人命が散っている。横目に通り過ぎた戦いでも、今だって死者が出ているに違いない。
屋敷の人たちだって無事かわからないのだ。
散々汚れた山刀を構えて、苦しむ馬を見下ろした。
どこを狙えばいいのかわからなかったけど、首を狙って間違いということはないだろう。
「ごめん、本当に」
とどめくらいは、やってあげたかった。
*
ハイデマリーを背負って、森の最深部へ向かう。
強化を使うか迷ったが、やめた。これ以上の副作用が怖いし、魔力の枯渇も心配だ。
人間二人分の重さを踏みしめながら、大きな根を跨いでいく。
俺の使命はこのまま隠れ続けること。
この防衛線は時間との戦いだ。
本当に馬力の強化様様と言ったところで、俺が高速で移動し続けたお陰で、森の外の人たちは肝心の目標がどこにいるか知らない。
戦っていることからするに、情報が錯綜しているのだろうか。もしかすると盗賊団が目標を奪取したということを知らず、領主の娘が賢者の卵だという情報だけを頼りに屋敷が襲われたのかもしれない。
しばらくはこの場所が安全と見て、いいのだろうか。
唯一の懸念点として、魔獣がハイデマリーを襲ってくるかもしれないとは思っていた。ただ幸いなことにその気配はない。屋敷に一番近い森というだけあって、先の防衛戦のときに魔猪の類は狩り尽くされたのだと思う。
だけど、時間の問題でもあるのだ。
盗賊団は確実に追いついてくる。足跡を消す暇はなかったから、時間さえあれば森にまでやってくるに違いない。
盗賊団以外にも他の組織にも姿を見られている。森に誰かが入っているという情報が共有され、盗賊団が目標を奪い返されたと知られれば、結び付けられないわけがない。
山狩りが始まってしまえば、為す術がない。
もう馬はいない。狼煙を上げて救援を求めるのは自殺行為。味方より先に敵が来る。
今から策を練らねばならない。
きっと罠が要る。森の中を逃げ回り続ける。
「『目覚めよ』」
また力が抜けかけて、気つけをした。
俺も、次の戦いまで休まないと。
水を飲みたい。最深部の方、魔力薔薇があった場所には清水が流れていたはず。
体力が尽きるまえに着こうと早足になる。これ以上は止まれない気がした。止まったら立ち上がれなくなると。
そのとき、耳元で息がした。
背負っているハイデマリーの息だった。
「どうかした?」
何か喋ったのだろうかと思って話しかけた。答えは返ってこない。
賢者の“繭”がどういうものかはわからないけれど、意識はどこまであるのだろうか。そうだ、彼女も水を飲まないと。“繭”の状態では食べ物は受け付けないらしいけど──
戦慄した。
しまった。肝心の、彼女本人のことを忘れていた。
取り返すのに夢中で、まるで物みたいに扱ってしまっていたのだ。
すぐに彼女を地面に降ろして、仰向けに寝かせた。
呼吸が荒い。胸が大きく上下している。
額に手を当てる。明らかに熱い。
忘れちゃいけない。彼女は今、賢者の“繭”だ。体内が激しく変化している。
こんなに激しく動かして、体の負担を増やしたら、そもそも賢者として覚醒できるかもわからないのだ。
逃げるだけじゃ駄目だ。“繭”を完遂できなくても、彼女は死ぬ。
ああもう、自分の気の回らなさが嫌になる。
これだけ荒く連れ回してしまったんだ。どこかで打撲させてしまったのか。いや、高熱ということは脱水症状か?
じゃあ、水を飲ませるしかないじゃないか。
降ろしたところでできることはなかった。
彼女の手を取って、せめて頭が揺れないように背負いなおす。
重い。さっきより重い。
重すぎて一歩が進まない。止まってしまったから。
「『目覚めよ』」
気つけもそろそろ意味がなくなってきた。掛け声みたいに勢いづけるだけだ。
それでも歩かねばならない。行かねばならない。道には見覚えがある。踏ん張れる。
かつて二人で冒険した道を、行きなおすだけだ。






