第三十七話 約束
夢みたいな旅だった。
手が届くものしか見ていなかった。見ようとしなかった。だから発想すら湧かなかったのだ。閉じこもっていた世界の外が、こんなにも広がっていたなんて。
色づいた景色はあまりにも刺激的だった。魅力的だった。あの迷宮のむこうには全部があると確信できた。
浮かれて自分も行くだなんて、言ったくらいには。
本気だった。
しかし、現実というものがある。
俺が魔力に目覚めるかという、あまりに不確定で望み薄な問題が。
魔力の過多や増減というのはちょうど身長のような発想が合う。遺伝によるところが大きかったり、生活習慣によるという俗説が沢山あったり、対照実験が不可能なために本質的には要因がわからなかったり。
ただ確かなことは、シュトラウスの血筋には今のところ魔力に目覚めた者が一人もいないということ。
単にそれだけで、ほとんど無理な話だった。
片方の頬が、勝手に吊り上がっていた。
癖なのだ。
人間はどうしようもなくなったときに、怒るか笑うかする。怒るのは疲れるから、笑ってみる。自傷行為の一種なのか、そうしたら気休めになるのか、何も解決しない中でできることってそれくらいだから。
──でも、約束してしまった。
倉庫の隅で俺は笑っている。生きているだけでいいものを、わざわざ危険に身を晒そうとしている。
麻袋いっぱいに詰めた魔力薔薇の蕾と、向き合っている。
魔力薔薇を見つけるためにはまずモンスターを見つけなければならないとされているけど、モンスターの出現と魔力薔薇の直接の因果関係は立証されていない。
無関係でないとするならば説は二つ。
一、魔力を帯びた動植物が育つ生育環境というものがあるから、そこで育った植物と動物は魔力を帯びる。
二、魔力薔薇を食べた動物が魔力に目覚め、モンスターになる。
後者だろ、どう考えても。
前者はあまりに馬鹿らしい。じゃあ魔力薔薇以外の魔力を帯びた植物を持ってこいって話。
後者と言い切られていないのは、モンスターの消化器や糞から魔力薔薇と同定できる欠片が見つかっていないからだ。しかしその一方で魔力薔薇の毒にやられた死骸は見つかっている。この場合は胃袋から茎と葉が見つかるらしい。
ここから論理的に導き出される事実としては、魔力薔薇を食べた生き物は死ぬことがある、というだけ。
でも、辿り着く仮説は一つだろう。
この話を知った者ならすぐに頭を過ることだ。何かを得るためには危険を負わねばならない、という普遍的な直観に即した説。
──毒に耐えられた者だけが、魔力を獲得できる。
前例は聞いたことこそないけどきっといる。どこか公的な機関が認めると試す人が増えてしまって人死にが出るから、公式にはそういう認定は出さないとかそういう話じゃないかな。
袋を開けて見える、毒々しい青色。大量の薔薇の蕾。
「……ひひっ」
桶に汲んできたいっぱいの水を、コップに注いだ。
お酒ってこんな感じなのかな、と想像するような酩酊感があって、それがすぐに悪い方向に流れた。数時間後には腹痛に変わって、嘔吐するのが抑えられなかった。
けど不思議なことに、吐瀉物に青い花弁は混じっていないのである。
気味が悪いものを体に取り込んでいる実感がある。でも代償として正しいものを求められている気がして、逆に可能性を感じ始めるくらいだった。
魔力検査一回目。賢者の秤は傾かなかった。
想定通りと言えば想定通り。まだ魔力薔薇を食べ始めて何か月も経っていない。
食べる度に具合は悪くなっていく一方だった。でも仕事はしないといけなかったから、ずっと装い続けた。
魔力検査二回目。まだ賢者の秤は傾かない。
半年が経っていた。具合の悪さにも慣れてきた。むしろ正常な時間の方が短いってくらいだったのでどっちが正常だかわからなくなってくる。快調だと罪悪感が出るくらい。
頑張っている感じに一人で酔えた。まだまだ踏ん張る余地があった。
魔力検査三回目。変わらず。
どのくらい食べればどのくらい体調が悪くなるかまで把握できていたので、体調不良が疑われなくなった。
それどころかちょっと酩酊感が癖になってきているし、腹痛もしなくなった。体が順応してきているみたいだ。
コリンナ叔母さん曰く、丸二日意識がなかったそうである。
ハイデマリーにはちゃめちゃに心配されたけど、なんでもないと言って動いて見せたら、ふんと一言言ってふんぞり返っていた。
ちなみに四回目の魔力検査もダメだった。
そろそろいい加減疑ってくる。ただの自傷行為でしかないんじゃないかって。
でも、胸のあたりというか、肺のような心臓のような部分に、変な異物感を覚え始めていた。それが何か良い変化なんじゃないかという期待に縋って、目覚めた夜にも薔薇の蕾を食べた。
三年が経った。
未だに賢者の秤は傾いていない。
慣れたのを過ぎて、日常になって、そして、限界が近づいていた。
あと一年は保たない気がした。
平静を装うのは完璧。ハイデマリーも、シュトラウスの誰も俺を疑っていない。
死にそうなくらいの苦しみに、耐えているなんて。
体の内側の全部が痛かった。少し屈んでいないと割れそうだった。もともと猫背気味だったのに、どんどん視界が下を向き始めた。
自分でもわからなくなる。どうしてこんなことをしているのかって。
そのたびに思い出すのだ。
──約束、したから。
今日も薔薇の蕾を食べる。十四歳まであと少し。俗説だけど、そこを過ぎたらもう魔力に目覚める可能性はない。
「……うん?」
その日手に持った魔力薔薇の蕾には、奇妙な感触があった。
まるでコップに入っている水が動くような、そんな感触。
ちゃぽん、という音が聞こえた気がした。






