第三十二話 悠然と跳んで
翌朝。夜明け前。
「来たぜ」
「……うん」
そびえ立つ建物の名は「冒険者ギルド」。
この建物を有する組織の名も同じくする。
迷宮の入り口であり、迷宮そのもの、第一階層を改装した建造物である。
建物、というとあまりに矮小すぎる印象だった。まるで神話の時代に建てられた神造の祠のような佇まい。文字の形のような石が隙間なく組み合わさり、窪みには赤色の線が走っているように見える。
人間の手が加わっているのは、あくまでそこから補修したり扉を付けたりする程度の話。フィールブロンの建物の中でも異質、この街全体の力場の源だった。
俺たちは今から、ここに侵入し、突破する。
そもそも、なんの資格もない一般人は迷宮に入ることができない。迷宮に入るには免許が必要で、この免許を所持している人間を冒険者と言う。
冒険者になるには“職業”を取得するか特殊な技能を持っていることが必要であり、俺とハイデマリーはそれを満たしていない。いるわけがない。
なのに、ハイデマリーはまるで冒険者のようにニヤッと笑っていた。
昨晩を越えて、彼女は元の、いや、それ以上に無尽蔵な生命力に満ち満ちていた。
迷宮は厳正に管理されねばならない、とされている。
それは何よりもまず死者が出るからである。なんの装備もない素人が迷宮を行えば確実に死亡する。人的損失を防ぐためにはそもそも迷宮に入ることを制限せねばならない。
さらに言えば人が死ぬという事象は悪用が容易である。
たとえば証拠を残さず死体を処理したいなら、迷宮の奥に放ってしまえば勝手にモンスターがすべて食べてくれる。
さらに発掘、奪取される資源も、監視を外れてしまえばあっと言う間に悪用されとんでもない治安の悪化に繋がるわけだ。
然らば迷宮潜を行うための資格を定めるべきだということになったらしい。
警備員もいるに決まっている。突破の算段は正直立っていない。その場でなんとかなれば良いけど。
まだまばらとはいえ冒険者の往来は普通にあった。
子供の姿なんてまったく見えない。それどころか戦闘を生業とするだけあってみんな一般の人よりも身長が高いくらい。
「よーし、じゃあ、行くかね」
ハイデマリーは一瞬だけ俺の袖を引いて、僅かな人波に悠然と乗っかって歩き出した。
あまりにも簡単に一歩目を踏み出したので遅れかけてしまう。建物に入るだけなのだから簡単に景色は変わって、巨大な祠の内部が明らかになった。
外から見るよりも中は大きかった。天井があまりに高くて骨のように入り組んでいる梁の奥が見えない。
あまりにも長く続く廊下がそれだけで不自然なように、不思議なくらいの広さの床がずっと奥まで広場みたいに広がっている。
そしていくつかの人だかり。
梯子を使わないと一番上まで取れない掲示板には松毬みたいに紙が重ねられていて、比較的若い冒険者と思われる人たちが隅から隅までじっくりと読み込んでいた。
あれは……事務所みたいなものだろうか。制服を着た人に荒っぽい冒険者たちがそれらの人混みを行ったり来たり。
カチャカチャと鎧の擦れる音、杖が地面を突く音が不規則にドドドドと鳴っている。
音と迫力が巨大な空間で木霊していた。
素直に、場違いだと思った。
俺はいつもの山刀で、ハイデマリーは市場で買った取り回しの悪い杖みたいなこん棒を背負っている。
ごっこ遊びをしている子供丸出しだ。間違って入ったか、探検しにきた悪ガキくらいにしか思われないに違いない。
「……あそこかな。おいヴィム、キョロキョロするな。人の流れに身を任せろ」
「でも」
「おまえはチビだが女子なら私くらいの身長の大人がいる。平然としていたら止める方が億劫のはずだ。大人しくついてこい」
いやいや、いやいやいやいや。
俺が否定する間もなく、彼女は平然と人混みに歩き出した。
反応は半々。そもそも気付かない人、子供だと気付いてもあまりに堂々としているから事実を捉えあぐねている人。
しかし総じて、冒険者たちは奇妙さだけは共有したらしかった。
俺たち──ハイデマリーが歩くと人混みが少し割れた。彼女はその割れ目にぐいっと体を押し込めて、さらに進んでいった。
「ごめん、ちょっとどいて」
「……あ、ああ。すまんな」
そんな反応まで引き出す始末である。誰も何も気付いていないというわけじゃなかった。周りの指摘の方が追い付いていないかのようだった。
一番前まで出た。そこでは制服を着た職員さんが登録証を照会していて、冒険者たちも行儀よく並んでいた。
俺たちはその最前に、横入りして立った。
「……あれ? ……えっと、みなさん、お並びですので」
当たり前にふんすと立つハイデマリーを見て、職員さんは戸惑いながら手を差し出した。
「そういうのじゃないね」
「……はい?」
わけがわからないから、みんな混乱していた。
「ねえヴィム、先行っといて」
「え?」
「早く」
そんな中でも彼女は訳知り顔で俺を首で使って、受付の向こう側に行くように指図する。
俺も混乱しながら大人しく従う。
何故か通れてしまった。
「じゃ、行くね」
「はい? ……いや、あの、登録証は?」
「まあまあ」
投げた石を拾いに行くように俺の方についてくる。
こうして、俺たちは受付の向こう側、道路みたいに平らで広い地面に二人で立っている格好になった。
「……おいヴィム、せーので走るぞ」
小声でそう、聞こえた。
「え? は? あ、はい」
「せーのっ!」
彼女は俺の手をグッと引いて走り出す。頭は混乱したまま。じんわりと作戦の意味を理解するのを待たずに足をぐるぐると回す。
突然だったので、この場で走っているのは俺たちだけ。
後ろや周りの反応といえば、唖然だった。
まるでシーツに零れた水が染み込むまでの僅か一秒未満みたいな空白。
「「「「「あーーーーー!」」」」」
大人たちが気付いたころには、俺たちは相当長く走って、向こうの方にいた。
ハイデマリーはようやく固く尊大だった顔を解いて、笑い出した。俺もつられて、ようやく意味がわかって笑った。
視線の先には仰々しい儀式上みたいな間。
転送陣だ。
低く広い台座、石板のようになっている間がそれだとすぐにわかった。
結構距離がある。
後ろから慌ただしい「子供が入りました!」とか「捕まえろ!」という声が聞こえてくる。だけど、既に受付を終えて漫然と走っていた冒険者たちがその意味を理解するころには、俺たちはもっと先にいる。
「はははっ!」
「……ひひひっ!」
走って笑って、すぐ息切れして、肺の中が空っぽのまま走る。
最後の一歩だけ、互いを見合った。違う歩調を合わせて同時に跳んで、一緒に転送陣を踏んだ。






