第二十八話 中央市
目があちこちに移りながら、定まった視点を置いていくように早歩きで進む。
追手がかかるまで時間が限られている。その慢性的な焦りがかえって助けになって、速度が上がる。
玄関の部分を抜けて、住宅街みたいな区間も通り過ぎて、本格的に街の中枢に入った。
往来が増えて、半分以上が冒険者になった。鎧だけじゃなくて法衣や杖、もっと細身な鎖鎧。聞いたことしかないような装備がこれでもかと見られる。さっきの二人組みたいな人が右に左に前に後ろに、一々注目していられないくらい。
居を構えた店が並び、慣れたふうな呼び込みが聞こえ始めた。対して呼び込まなくても日常的に使われるような、立派な外装が古びて厳かさをまとい始めた老舗もちらほらと。
地面と垂直にそびえ立った煉瓦の壁の圧迫感。冒険者がそこに挟まれてひしめき合う感じ。
ここまで来ると建物の背は低くなって、向こう側からの声や盛り上がる歓声が聞こえ始めた。
道は迷宮から放射状に広がっているはずなので、真ん中に行けば行くほど隣の大通りとの距離が狭まっていく、と推測してみる。
雑音は頭の片隅に置いて、その量が増えていくのだけをぼんやりと感じていた。
見る景色だけを処理するので精一杯。だから視界を半径五歩だけに区切って歩くことになる。その一方で割り切った余りが積もるように、情報の嵩は上がっていく。
測ることなく溜まったそれはあるときに決壊して、ワッと溢れかえった。
中央市に着いたのだ。
「……すげえな、こりゃ」
私は呟く。ヴィムは押し黙ってあんぐりとしている。
地平線の向こうにまで広がっているかのような色とりどりの巨大な市場。その一角一角が、双眼鏡を持つ手を止めるのに値するくらい目新しい。
木の茶色、肉の赤色。着色料みたいな青色と黄色と緑色。
生臭い匂い。水の香り。香辛料の殻の雰囲気。
そしてそのどれもに、見たことのない、言葉にできない未知の具合がある。
私がすっぽりと入りそうなくらいの大きさの壺が当たり前に並んで、そこに収まらないくらいの肉だの魚だの草だのが山盛りになっている。
中年の女性が胡坐をかいて鉈で叩き割っている生き物に見覚えがない。魚……じゃない。蛙みたいな、全然知らない分類の生き物。
何か巨大なものが解体されて吊るされていた。馬三頭じゃたりないくらいの大きさ。剥がされた皮が奥の方に並べて鞣されていて、しかもその色は緑色である。
あちらこちらでジャリンジャリンと鳴る硬貨。最悪二三枚は零れても構わないと言わんばかりに交換される紙幣の束。目まぐるしく物が交換されている。
異世界だ。
規模感が桁違い。食べ物も素材五十人前。
「おおっ……業者かよ」
「業者だよ! お嬢ちゃんお使いかい?」
一番近くにいた屋台のおばちゃんに話しかけられた。
不意に話しかけられたのでちょっとびっくり。机に山盛りになっている子供くらいの大きさに魚の山にもう一度驚く。
……ヴィムの方はあわあわしていたので、私はかえって冷静に、気持ちよく発奮できた。
「違うぜおばちゃん! お使いなもんか! 私たちは冒険に来た!」
「そうかいそうかい、元気がいいねぇ! これぞフィールブロンっ子!」
それに背中を押されたような形になる。私たちはどんどん市場を進んでいく。
人を避けるのが大変だった。避けるものも避ける人も避ける先もすべて私の注意を引いてしまう。
「મજા」
「へっ!」
耳鳴りがするし体調も悪い。だけど体は動く。
一際人が集まってごった返しているところがあった。
人が多すぎてわかりにくかったけど、近づいてみれば広場みたいになっていることがわかって、この一帯は何か専用の売り場みたいになっているらしい。
「本日の目玉はこちら! かの【夜蜻蛉】の弟分【夕水蠆】が捉えた陸鯨!」
後ろにあった屋台よりも大きな布の盛り上がり、それがバッと剥がされて、横たわったモンスターが現れた。
もはや丘のような毛むくじゃらの巨体。その三分の一ほどを占める頭部と、長く広い顎。ぬいぐるみみたいに短くて極太の四本足に、胴体の延長みたいな尻尾。
閉じた瞼の奥の眼球はきっと私の頭より大きい。今すぐに開いてのっそのっそと動き出しそう。
これを……どうするんだろう?
食べるの? どうやって?
「さぁさご覧あれ! みなさま準備はできましたか?」
よく見れば、ここに集まっている人の手にはバケツが握られていた。握っている人はおそらく主婦と、付き添いの旦那だと思う。
司会の人の手にはよく切れそうな長い刃渡りの得物が握られている。武器というよりは解体用に見える。
「あいや失礼奥様方、どうどう! 今からこの腹を裂いてしんぜます。この切れ味の良い包丁で! これは包丁でございます! 一二の三で私がカチンと納刀したら合図ですよ!」
司会の人はシャキンと仰々しく包丁を振り、時折気持ちの良い拍子で地面をカンカンと叩く。そうしてくるっと綺麗に円を描いて回って目を惹く。職人技だ。
「……鯨油か、あれ」
その光景を見てヴィムが呟いた。
「鯨油ってあれ、鯨なの」
「図鑑にちらっと載ってただけだけど、陸鯨の中身は鯨そっくりらしくて、鯨よりも上質な油が取れるんだって。フィールブロンの周りの街の油ってだいたいこの鯨油らしくて」
「おー」
「一応の説では生態系のピラミッドで似た位置にいるし海の中と陸の上でも似たような役割を果たしているんじゃないかってことになってるし名称もそれからきてるけど、骨格とかまで似てるとなると俺は本当に近縁種なんじゃないかって……」
なるほど、確かにあの上あごが長く平べったい感じは本当に鯨みたいだ。トカゲでも水と陸の両方にいたりするし、突飛な話ではない。
「あっ……」
「ん?」
「ごめん……喋りすぎた」
「小さいこと気にするねぇ」
「ごめん」
カチン、と包丁が収められたら、闘牛の赤マントが振られるみたいに人がどっと陸鯨に群がった。
主婦と主婦の血で血を洗う戦いが繰り広げられていた。
付き添いの旦那は横目で見合っている。
このあたりに来て、ようやくフィールブロンにやってきたという実感がついてきた。
観光客や新参者に向けた外面じゃなくって、知らないものを知らない人たちがそれが得だからという理由で取り合っている日常。
リョーリフェルドとは全然違うのだ。
大きさも勢いも人も。
まるで迷宮に近づいていくたびに、そういう力場で歪められていくみたい。
ぞわぞわとする。駆られる。
「ષિઇંડા」
「おん?」
また、何か聞こえたな。
「ヴィム、何か言ったかい?」
「……いや、なにも」
「独り言か」
「ほんとに何も言ってないって!」
確かに聞こえたんだがな。
「તમે બળવો કરો」
ほら。
今度はヴィムの方を見ていた。彼の口はまったく動いていない。
誰だ?
誰かに囁かれている?
いやいや、意味がわからん。
幻聴か。疲れているのか。そもそも声なのか、これは。






