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アンダードッグ  作者: 九田
chapter 11
79/95

決戦の日(比喩)

 なかなか寝付けなかったというのに、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。

 理沙は携帯電話を手に取り、眠気の残る目をこすりながらサポーター仲間の書き込みに目を通した。

 誰もが興奮の中にある。期待と気合いと喜びが、短い言葉からあふれ出ている。

 J2第39節。ガイナス鳥取と島根ブロンゼの試合日が、こんな意味を持って訪れるなんて、去年の今頃は思いもしなかった。

 特別な一日、特別な試合だ。

 争うのは、J1昇格。

 これですべてが決まるわけではない。けれど、重要な試合になることは間違いなかった。後で振り返って、この試合が分水嶺だったのだと語られる。そんな予感を誰もが抱いていた。

 ガイナスはまだ立場をはっきりとさせていない。昇格を目指すのか、それとも断念するのか。選手やサポーターはここまでくると開き直って、勝つことでフロントにプレッシャーをかけてやろうと冗談混じりに語っている。


 すべては、勝たなければ始まらない。

 沸き立つ気持ちを抑えきれず、理沙は頬を叩いて気合いを入れた。


《クラブの経営危機のニュースを聞いた日。半身をもがれるような絶望感を覚えました。

 それから、たった10ヶ月。こんな日が来るなんて、本当に想像もしていませんでした。

 選手にも、監督にも、スタッフにも、サポーターの仲間たちにも、本当に本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 今日は、絶対に勝って、嬉し涙を流しましょう!》


 


 


 


 


 クライマックスには、ふさわしい舞台が用意されるものだ。

 開幕戦を思わせる、高く澄み渡った晴天。人で埋め尽くされたスタジアム。そして――因縁深い好敵手。

 これが逆の立場だったなら最高なのだが、本日はアウェイゲーム。つまりは島根ブロンゼの本拠地での試合だ。


 マッチコミッサリーによるミーティングを終え、眞咲はスタジアムの様子に感嘆の息を飲み込んだ。


 J2の、それもキャパシティの大きな陸上スタジアムで、チケットが完売するのは非常に希なことだ。試合会場は日も昇らないうちから人の列が並び、テレビクルーが大仰な反応を交えつつコメントを求めて回っていた。その熱気は太陽が中天に昇っても一向に冷めることなく、どんどん密度を増している。

 これぞホームといった光景だった。試合開始の笛を今か今かと待つスタジアムを、圧倒的な数のサポーターが白く染め、まるで冬の山鳴りのような声でチームを鼓舞している。

 クラブとしての地力の差を感じさせられる光景だ。ガイナスのように駆け上がってきたわけではなく、Jリーグに参入してから一歩一歩積み上げて作り上げてきた歴史が、今こそ結実するのだと、誰もが確信している様子だった。

 そして何より、山陰ダービーで昇格枠を争えることへの喜びが期待感を増している。

 いかに犬猿の仲といっても、そこにあるのは憎しみではない。仲が悪いからこそ、倒して切符を手に入れるというシナリオが輝きをもつのだ。


 試合前のアップを終え、選手たちがロッカールームに戻っていく。

 いよいよの開始に裏方でスタッフがばたついている中、インカムが携帯電話の着信を告げた。

 海を隔てた場所からの電話は、眞咲が待ち望んでいた情報を告げるものだった。


『ええ。……ええ。そう、なるほどね。ありがとう』


 手短に要件を済ませたとき、見計らったようにスタッフが声を掛けてきた。


「社長! ゴール裏への挨拶の件なんですけど……」

「ええ」


 日の光と声援の降るピッチに背を向け、コンコースに向かう。

 舞台は整った。

 後は、結果だけだ。


 


 


 


 


 試合は手堅く進んだ。

 重要な試合で、先制点を相手に与えたくないのはお互い様だ。立ち上がりが慎重になるのは当然だったが、それだけではない。

 ――島根ブロンゼは、予想されていた以上に思い切りのいい戦い方を選んだのだ。


 ボールを持つ時間は圧倒的にガイナスが多い。

 相手陣内まではするすると持ち込める。

 だが、そこから先は島根の集中した守備に阻まれて、シュートにさえ持ち込めないでいた。次第にセカンドボールも相手に渡り始め、忍び寄る焦りにストレスが溜まっていく。


(このままじゃジリ貧だ。くそ、どうにかマーク外さねえと……!)


 掛川がノールックでパスを出す。白田が府録と競り合いながらそれを追った。

 身体を入れ替えて受けようと足を伸ばすが、府禄に押さえ込まれて届かず、そのままボールがラインを割る。


「くそっ……すまん、トラ!」


 白田の謝る身振りに、掛川が片手を上げて応じた。


 ボールが島根の物に変わったというのに、府録が白田から離れる素振りはなかった。

 府禄の売りは、何よりその予測能力だ。恵まれた体格と鍛え上げた俊敏性がそこに加わり、ある種、攻撃的とすらいえる守備をする。

 掛川たちも、適当にパスを放っているわけではない。何度もやり方を変えて工夫しているのだが、それでも通らない。府禄がべったりと白田に張り付き、キャプテンの松田が少し離れて白田へのパスをシャットアウトする。白田一人に二枚も割いたその作戦は、今のところほぼ完璧に機能していた。

 舌打ちして汗を拭った白田を、府録が得意げな顔で挑発した。


「ハッ、おいポチ! 海外移籍なんて調子こいてんじゃねぇか!?」

「うっせ! つーか飛ばしだって分かって言ってるだろ!」

「今日はお前に思い知らせてやるぜ! 海外どころか、J2にだってまだまだお前より上がいるってことを――ぬあっ」


 キャプテンに首根っこを捕まれ、府禄の啖呵は強制終了となった。


「やめろこの馬鹿! なんっでそうお前はプロレスっぽいんだよ!」


 マイクが拾った単語に、中継を見ていたサッカーファンの多くが頷いたという。


 


 


 


 


 


 ――読み違えていた。


 椛島は自分の失態を悟り、苦い思いで考えを巡らせていた。

 試合の流れは、ベンチが最もよく見えている。だからこそ痛いほどに理解していた。

 相手の策を読み切れず、まんまとその中に落とし込まれてしまった。準備不足でこの展開を引き起こした責任は、監督である椛島にある。

 後悔する時間さえ惜しい。まんじりと変わらない停滞感を睨み、打開する方法を探した。


(さすが経験のある監督なだけはありますね。さて、どうするか……相手はカウンター狙い。下手を打てばバランスを崩してしまう。……フージをサイドに……いえ、それともワンボランチ……?)


 昇格を争う大一番で、ここまで割り切った戦いをしてくるとは思わなかった。

 何より予想外だったのは、その消極的にさえ見える姿勢にサポーターが微塵もひるまず、強い声援を送り続けていることだ。

 これが勝ち点1を得るための引き分け狙いなどではなく、勝ち点3を手に入れる戦いなのだと確信している。


 表情には出さないそんな焦りを離れたベンチから見て取り、対戦相手である外国人監督は、快心の笑みを浮かべていた。

 細っこいターミネーター呼ばわりされている鉄面皮からは、なかなか見られない表情だ。


『驚いているな、カバシマ』

『……監督、顔がすっごく笑顔になっています』

『ふむ、それはいかん』


 クールであることを信条としている監督だ。

 通訳の指摘に顔を引き締めたが、それでも口角は持ち上がる。


『我々はシロダの能力を正当に評価している。だからこそ、これまで以上に徹底した、完璧な――芸術的な意思統一のなされた守備こそが、勝利への扉となるのだ。

 J1には白田レベルのストライカーを持つクラブが多くある。その中で生き残るためには、これもまた必要なことなのだ。相手の長所を消し、特徴を消し、我々の檻に閉じこめることが。

 私の選手たちも、スタッフも、サポーターも、皆がそれを理解し、想定して戦ってきたからこそ――ブロンゼは、強いのだよ』


 そう言う彼らの順位は現在3位で得失点差があまりよろしくないのだが、賢明な通訳はそれを口に出す愚は犯さなかった。

 J1で戦うことになれば、島根であろうが鳥取であろうが、降格候補の筆頭としてみなされるのは間違いない。攻撃力は目を瞠るものがあるが守備に不安のあるガイナスか、統率された堅固な守備を誇るが決定力に欠ける島根ブロンゼか。昇格したときに問題を解決しやすいのは、後者だ。資金さえあれば、優秀なストライカーの補強に成功しさえすればいい。


『さあ、見せてこい。J1に行くべきは、我々なのだと!』


 この人の言葉ってときどき特撮っぽく訳したくなるなあ。身振りがそんな感じだからだろうか。

 通訳はそんな与太事を考えながら、真面目な顔で、大いに頷いた。

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