17.賭け
彼女に会ったのは、そんな頃だった。
「それで、君は一体どうしたいの?」
膝の上でゆったりと頬杖をついて、女は言った。
真っ赤な唇にはにたりとした笑みを浮かべている。おそらく蠱惑的と言っていい笑みだが、ヴィルヘルムはそれに正直に惹かれる気持ちにはなれなかった。
むしろ、その美しさこそが魔性の証明のようで、底知れなさに恐ろしさが込み上げてくるほどだ。
けれど、ここで引いてはならない。
自分は絶対に、願いを叶えてもらわなければならないのだから。
「叶えてほしい願いがある。私は、何だってする覚悟だ」
「なんだって、ねえ」
年格好はヴィルヘルムとそこまで差があるようには思えなかった。ただ紅玉のような髪は目に焼き付くように鮮やかだ。女は腰まであるそれを、細い指に巻き付けるようにして弄んでいる。
辺境の魔女。
その存在を知ったのは、もう随分と前のことだ。
聞けば、強大な魔力を有しており彼女のお眼鏡に適えば、どんな願いでも叶えてくれるという。
ただしとんでもない気まぐれで、出会えるかどうかも分からない、かの地に伝わるおとぎ話のようなものだった。
遠征の度に、こっそりとヴィルヘルムは魔女を探し続けた。そしてようやく、見つけた。
「まあいいや。とりあえずは君のその大そうな願いとやらを聞かせてよ。話はそれからだ」
ここまで来るのに十一年もかかってしまった。その分をきちんと返さなければならない。
「死んだ兄を生き返らせてほしい。その為なら、私の命を捧げてもいい」
ヴィルヘルムがそう言った時、魔女の金色の瞳がすっと細められた。猫にも狼にも似ている、捕食者の目。
場に静寂が満ちる。魔女は、叶えてやるともいやだとも言わなかった。
ただその金の目がヴィルヘルムの頭の先から爪先までをしげしげと見定めるように滑っていって、いつも佩いている剣のところで留まった。
「それは、君のものじゃないね?」
魔女の目が、青い石を見つめる。さすがはと言うべきなのか、彼女は全てを見てきたようだった。
「ええこれは兄の剣です」
コンラートのものは、全て王妃が形見として持って行ってしまった。元凶たるヴィルヘルムに触れられるものなど何もなかった。
たった一つ、死と戦いの色を濃く残したこの剣を除いては。
それからずっとこの剣を使っている。握る度に思い出す。振るう度に自覚する。この生の全ては贖罪にあると。
「へえ」
魔女は小さく感嘆のように声を漏らしたあと、「これはまた随分と厄介な呪い持ちだなあ」と独り言のように呟いた。
呪いとは一体何のことだろう。まあいい。そんなことより願いの方が大事だ。
「それで、願いは叶えていただけるのでしょうか」
勿論、だめだと言われた時の策も考えてはあった。ヴィルヘルムは今はこれでも王太子だ。金貨も宝石も、なんなら領地でさえも用意する準備がある。
「一つ質問だ」
魔女は頬杖をついていた左手を下ろして、すっと背筋を伸ばした。
「君は命を捧げる覚悟があると言ったけれど、家族や友達はいないの。自分がいなくなった先の未来のことを、一体全体どう思ってるのかな?」
それは、平坦な声だった。詰るようでも咎めるようでもない。けれど、ひどく突き放すようにこの胸に響いた。
何もないと思っていた心に、ぼんやりと浮かび上がってくるものがある。
やわらかな茶色の髪。強い意志を宿した、少しつり目がちな瑠璃色の瞳。
その髪に触れたこともないヴィルヘルムの妻、アンジェリカ。
これも、自分が兄から奪ったものの一つだ。彼女は本当なら、王太子だったコンラートと結婚するはずだった。それを自分が横から掠め取ってしまった。
「妻はいますが、問題ありません。彼女もきっと幸せになれる」
アンジェリカもきっと、兄を愛するに違いない。だって、兄はあんなにも素晴らしい人間なのだから。
魔女の形のいい眉がぴくりと上がった。そして確かめるように二度瞬きをする。
「ふーん。君はそう思っているんだ」
魔女はどこか不服そうだった。彼女は兄に会ったことがないのだから無理もないのかもしれない。けれど、コンラートを知る人間なら、誰もがそう思うはずだ。
「分かった。ボクと一つ賭けをしよう」
ぱん、と白魚のような手を叩くと魔女は宣言した。
「君がそれに勝ったら、お兄さんを生き返らせてあげる。お兄さんが死んだのはいつだい?」
「私が十七歳の時です」
「よし、じゃあ君を十六歳に戻そう」
「分かりました」
金色の目が怪しげに光る。まるでヴィルヘルムを値踏みしているような、そんな目だった。
「へえ、すぐに条件を飲むんだ。今から君は十二年分の自分を捨てるのに?」
「どうせ願いが叶えば俺はいなくなるのだから、大して変わりはないでしょう」
「そういうもんかなぁ」
「そういうものかと」
そう返した己の声は魔女の声と同じぐらい平坦に響いた。元からヴィルヘルムのものだったものなど、何もないのだ。未練を抱くこともなかった。
「君は、どんな君でも奥さんが君のことを好きになることは無い、そう思ってるんだよね?」
「ええ、そうです」
「じゃあボクは逆に、君の奥さんが君を愛する方に賭けよう。この賭けに君が勝ったら、その願い――お兄さんを生き返らせてあげるよ」
ああ、これで俺の願いは叶う。
その言葉を聞いて、ヴィルヘルムはそう思った。
たとえどんな俺でも、アンジェリカが好きになることなどないだろうから。どうか兄上と幸せになって欲しい。
ただ一つだけ気になることがあった。
「どうして、こんな面倒なことをするんですか?」
この取引自体は悪くはない。おそらくヴィルヘルムの方に分がある。それが分かっているから受けたのだけれど、そもそもこんなことを彼女がする理由はなんだろう。
ヴィルヘルムのことが気に入らないのなら、ただ断ればいいのだ。けれど、魔女はそうはしなかった。
「まあ一番は暇だからだけど」
魔女は長い足を組み替えると、妖艶に微笑んだ。
「君は、魔法使いが何が一番好きか知っているかい?」
そんなもの、普通の人間のヴィルヘルムが知る由もない。そもそも魔法使いと称する者に会ったのも、今日がはじめてなのだから。
「人間の生きた心臓、とかですか?」
魔女の、弧を描く真っ赤な唇はまるで血に濡れているかのよう。
「ああ、いいね。悪くない。丸かぶりにすると美味いんだ」
うっとりと魔女は言う。心の底からそう思っているような、そんな笑みだった。もしかしたら、誰かの願いの代価に心臓を求めたことがあるのかもしれない。
「ボクが一番好きなのはね」
そこで彼女は言葉を区切って、ふと表情をやわらかにした。そんな顔をしていると、老獪な魔女が見た目そのままのうら若き乙女のように見えなくもない。
「真実の愛だよ」
存在を主張するかのように、ヴィルヘルムの心臓が脈打ったのが分かった。
脳裏によぎったのは、膝折礼をしたアンジェリカの姿だった。
『はじめまして、アンジェリカと申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします』
そう言って頭を下げる様が、たとえようもないほどに美しかった。紫色の瞳は、強い意志を宿してきらりと輝いた。
『わたしは、殿下を心よりお支えする所存です』
凛と響いたその声の響きを、今もありありと思い出すことができる。
アンジェリカとヴィルヘルムはこれが初対面だった。国同士の結びつきのためのただの政略結婚で、それ以上でも以下でもない。
けれど、そんなことなど感じさせないほどに、燦然とアンジェリカは微笑んだ。
たとえどんな出会いであっても心を尽くす誠実さを。心根の美しさを。
その全てに、ヴィルヘルムは心を射抜かれた。
これはいけない。誰も好きになってはいけない。
もう誰も不幸にしたくない。好きにならないなんて、簡単だと思っていたのに。
この人は、兄さんの妻になる人だったのに。そして、俺はきっと、彼女を不幸にしかできないから。
ヴィルヘルムは椅子から立ち上がり、魔女の前に立った。
「愛とは、なんなのでしょう」
気づけば口をついていた。
ヴィルヘルムは兄を愛していた。いや、愛していたつもりだった。けれど、自分は兄を殺してしまった。
王妃も息子であるコンラートを深く愛していたのだろう。だから、あの人はあんなにも傷ついている。
このことからヴィルヘルムが学んだことは、一つ。
誰かを強く思うことは、必ずしも人を幸せにはしないということだ。
「さあ、なんだろうね」
ヴィルヘルムの想像がつかないほど長くの生を生き、この世の全てを見通しているような魔女でさえも答えはくれなかった。
「でもね」
金色の目がヴィルヘルムを見上げてくる。ふっと、息を吐いて彼女はまた笑った。
「それは魔法を使っても決して、作れはしないものだ。だからボクはそれが見たい。それだけさ」
どんな魔法を使っても作れないもの。
けれど、確かにこの世界にあるもの。
それをこの者は見たいという。
「……分かりました」
ヴィルヘルムはもう一度椅子に座り直して、そう返事をすることしかできなかった。そんなものがあるとは、到底信じられなかったけれど。
「では、はじめようか」
今度は魔女が立ち上がる番だった。小柄な女が、ヴィルヘルムを見下ろしてくる。
両手を広げれば、纏っているローブがばさりと広がり、それは宵闇の翼のように恐ろしく見えた。咄嗟にヴィルヘルムは目を閉じた。
「君の人生を、見せてくれ」
自分が覚えていたのは、ここまでだ。
ここでぷっつりと、記憶は途切れている。
再び目を開けた時、ヴィルヘルムの腕の中にはアンジェリカがいた。
泣いていたのだろう。瞼が腫れて赤くなっている。目尻に滲んだ涙を、少し迷ってから拭った。
抱える女の身のあたたかさ、やわらかさを感じて絶望した。
妻を抱え直して、ヴィルヘルムは大きく息を吸い、吐き出した。
大変なことに、なってしまった。
この身は確かに息をして、今この心臓は脈打っている。
俺は今も、生きている。
何があったのかは分からない。全ては幻を見ていたかのようで、遠くぼんやりとしている。
ただ肝心なことが二つある。
ヴィルヘルムが生きているということは、兄は生き返らなかったということ。自分は魔女との賭けに負けたということだ。
そして、それはこの女――触れないようにしていた己の妻がヴィルヘルムを愛したというその事実を示す。
ああ、俺は代替品にすら、なれなかったのだ。




