12.解けない確証
二人きりになった大広間の内。
ヴィルヘルムはアンジェリカの手を引いたかと思うと、手近なカウチにどかりと腰を下ろした。また行儀悪く片膝を立てて、それに頬を預けるようにする。
それに続くように、アンジェリカも隣に腰を下ろす。
そうだ、手当てをしなければ。そう思って繋いだ手を解いたら、ヴィルヘルムはそっとその手をトラウザーズのポケットにしまいこんでしまう。
「お手を」
アンジェリカはハンカチを取り出してそう言った。けれど、ヴィルヘルムは「うわ、ちゃんとしたレースのハンカチだ」とまるで取り合わない。
仕方がないからその手首をぐっと掴んで無理やりにポケットから引きずり出した。本当は消毒もした方がいいのだろうが、まずは止血だろう。
包帯の代わりに、ヴィルヘルムの手のひらにハンカチを巻いていく。けれど、ヴィルヘルムがアンジェリカにしてくれたようにはうまくいかない。
何せアンジェリカは人の傷の手当てなんかするの、はじめてだったので。
「なんであんた、こんなことしたの」
悪戦苦闘していたら、頭の上から声が降ってきた。
それは恥じているようにも怒っているようにも聞こえる。顔を上げてヴィルヘルムの面構えを拝みたいところだが、生憎今はそれどころではない。
「手際が悪くて、大変申し訳ございませんが」
包帯のようには上手く傷に添わないし結べない。きちんと巻き付けようとすれば、今度は、
「アン、そんなに絞められたらさすがに痛いよ」
やんわりと抗議をされた。仕方がないので、解いてもう一度最初からやり直す。
「……兄上が死んだのはオレが十七になった時だ。その時あんたはまだ、故郷にいたんだろ」
ヴィルヘルムが十七だというなら、アンジェリカはその時十一歳だ。それは、正しい。アンジェリカは頷くだけで応える。
「だったら、あんたには何も関係が」
これには顔を上げざるを得なかった。
「関係がないことなんて、ないんじゃないでしょうか」
それを言うのなら、何も関係がない。
自分が捻挫をしたことも、それを隠していたことも、そのまま舞踏会に出たことも。
何一つ、ヴィルヘルムには関係がなかっただろう。それでも、彼は「話してくれ」と言ったのだ。だったら、こちらも同じことだ。
「夫婦ですから、わたし達がともにいるのは当然のことです」
やっとのことでハンカチを結び終えたら、ぽつりとヴィルヘルムは言った。
「夫婦、か」
腰に手が回されて抱き寄せられたと思ったら、世界が回った。
「あんたはいつも、そう言うな」
「へっ」
目の前にあるのは大広間の天井で、その中心にヴィルヘルムがいる。押された右肩と背中に感じる固いカウチの感触。
「夫婦だったらさ、こういうことも、したんだろ」
迫りくるようにアンジェリカを押し倒して、十六歳の夫は問うてくる。このまま彼が何をしようとしているかが分からないほど、自分も子供ではない。
どん、とアンジェリカの顔の横に大きな手が突かれる。その音に、体がびくりと震えた。
「あんたも、早く呪いが解けたらいいと思ってるんだろ。こんな、魔法もろくに使えない子供じゃなくて、ちゃんとした夫に戻ってほしいって、ずっと思ってんだろ!」
ああ、またわたしは分からなかった。このヴィルヘルムはずっと知っていたのだ。
軽んじられていることを、己の向こうに皆、二十八の自分を見ることを。
それでも、必死で頑張っていたのに。
アンジェリカは顔を横に向けて、整った相貌から目を逸らした。視界に入るヴィルヘルムの右手には、自分の巻いたハンカチが結ばれている。
なんてことはない。音だけは大きく立てたが、この肩に置かれた手はそこまで強い力ではない。
男の力で本気で組み敷かれれば、アンジェリカに是も非もない。そして、思いの外そっと、ヴィルヘルムはアンジェリカを横たえたのだ。
やっぱりずっと、この人はやさしい。
もっと無理やりにすることだって、いくらでもできたというのに。
「……して、ませんよ」
本当は誰にも話したくなかった。知られたくなかった。これは王女としての、女としてのアンジェリカの敗北で、失態だった。
「殿下は、ご結婚されてからわたしを求められたことはございません」
けれどもう、このヴィルヘルムに嘘を吐くことはしたくない。
「えっ」
「あの時嘘を吐きました。偽りを申し上げて、申し訳ございませんでした」
「いや、それは多分オレのせいだから、いいんだけどさ」
覆い被さる男が分かりやすく狼狽えたのが分かった。
「なんでなんだよ」
それはこっちの台詞である。
「アンは、こんなに可愛くて、いいやつなのに」
肩をぐっと掴まれたかと思えば、また強制的に見つめ合わされる。灰青の瞳は興奮しているのか紫かがっていて、ヴィルヘルムはまくし立てるように続ける。
「どう考えてもおかしいだろ、なんなら今すぐ」
そこまで言ってしまってから、ヴィルヘルムははっと我に返った。
「ご、ごめん、なんでもない」
今度はヴィルヘルムがそっぽを向く番だった。顕になった首筋までが真っ赤で、色素が薄いからよく分かるな、などと実感した。
もっとも、そんなこと二十八歳のヴィルヘルムといる時には一度も思わなかったけれど。
「未来のオレ、どんなやつだったんだろうな」
己の未来を知りたいというのは、根源的な欲求の一つだろう。どんな風に大人になるのかを夢見ていた頃は、アンジェリカにもある。
「もっとちゃんとした大人になれるんだって勝手に思ってたんだけどさ、そうじゃないのかもしれない」
けれど、それが現実として訪れたところで幸せではないのかもしれない。誰だって、思っていた通りの大人になれるとは限らない。その事実をむざむざと突きつけられるだけだ。
ぴたりと引っ付いた体を、ヴィルヘルムは離した。そのことにどうしてだろう、一抹の寂しさのようなものを感じる自分がいる。
「きっとオレ、いい夫じゃなかったんだろ」
自嘲するように、ヴィルヘルムが言った。くるりと背を向けられて、アンジェリカからは彼がどんな顔をしているのか見えなくなる。
「兄上が死んだのにのうのうと生き長らえて、平然とあんたのことを蔑ろにして」
やさしい夫というものに、ずっと憧れていた。アンジェリカを見て、アンジェリカだけを愛してくれる、そんな人。
ヴィルヘルムは理想の王子様とは、少し遠いけれど。
「元のオレに戻りたくないな、ってもしょうがないけどさ」
「戻らなくて、いいですよ」
きゅっと、その上着の裾を掴んだ。弾かれたようにヴィルヘルムが振り返る。
ファーレンホルストとブロムステットが結んだのは、“王太子”と“王女”の政略結婚だ。
だから、相手がコンラートという兄でもヴィルヘルムでも、祖国の側から見れば大差がない。王子が挿げ替わっていたとしても、何の問題にもならない。
そしてそれは、ファーレンホルストの側から見ても同じことだろう。
嫁いできたのはアンジェリカでも、他の姉妹でも、誰でも、よかったはずだ。
けれど、今はもう、違う。
わたしは、この人をたった一人、夫としていたいのだ。
「わたしも、今のあなたの方が、好きです」
「ほんと?」
ヴィルヘルムが不安げに訊ねてくる。見る角度によって絶妙に輝きを変える灰青が揺れる。
「はい」
手が顔に伸びてくる。掠めるのは、巻き付けたハンカチの感触と確かめるようにアンジェリカの頬をなぞる指先。
鼻先が触れ合うほどの距離。けぶるような白銀の睫毛が震えている。
そんなところで、見つめ合った。
惹き込まれたように、息もできなかった。
流れる空気の甘さに酔う。どちらからともなく近づいて、こつんと、額が合わさった。
あと、もう少し。もう少し近づいたら、その唇に触れてしまうと思ったところで、
「はっ!」
夢から覚めたように、その胸板を押し返して俯いた。
わたしは今、一体何をしようとしていたのだろう。
火照ったように顔が熱くなるのをどうしようもできない。
「いや、そのオレもさ、そんないきなりするのはどうかと、思うし」
ちらりと盗み見れば、ヴィルヘルムもぽおっとした顔で何かを考えている様子だった。
「呪いって、どこのキスでも解けちゃうのかな」
場所によって、口づけの意味は大きく異なる。
さすがに唇に口づけるのは恋人か夫婦ぐらいだろうが、頬や手の甲なら儀礼の範疇で王太子妃たるアンジェリカも受けることはある。
魔術師団長は、呪いを解くために必要なのは“愛する者の口づけ”としか言わなかった。
「だ、だめです!」
解けるという保証はない。けれど、解けないという確証もない。
ヴィルヘルムは、呪いが解けたら今の自分の記憶が消えてしまうということを知らない。だからちゃんと、アンジェリカがこれを、拒まなければならない。
「分かってるよ。あんたが嫌がるようなことはしたくないし。その、段階があると、思うから」
ぎゅっと抱き寄せられて、首筋に吐息が触れた。
「でもさ」
ぴたりと、ヴィルヘルムはアンジェリカの首筋に頬を当てる。火照ったアンジェリカの頬と同じぐらい、それは熱かった。
「今あんたにキスできたらいいのにな、って思ったんだよ」
それはアンジェリカの心に浮かんでいたものと、同じものだった。
そして思った。
わたしはもう、この人の呪いを解いてしまえるかもしれないと。
*
「コンラート様がお亡くなりになったのは、ご遠征の時です」
きっかり一時間後に現れたのは、グレンだった。
忠義者の侍従は、「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げた後、そう続けた。アンジェリカはそれを、ヴィルヘルムの隣に座って聞いていた。
「辺境の魔物退治にご兄弟でとともに向かわれた際に」
そうか、やはり病気だというのは、嘘だったのか。
「ヴィルヘルム様を、お庇いになっての怪我だったとお伺いしております」
膝の上に置いた手を、ヴィルヘルムがぐっと握りしめたのが分かった。手の甲に血管が浮かび上がる。
グレンの顔が目に見えて曇った。語り口が一段低くなって、続ける。
「ヴィルヘルム様は、その後目に見えて魔法の鍛錬に励まれて……」
ああ、そうか。やっと分かった。
ヴィルヘルムは、兄を失ってその責任を感じて、十六歳の頃ほとんど使えなかった魔法を習得できるようにしたのだろう。
そして二十八歳の彼は、ファーレンホルストにこの人ありと言われるほどになったのだ。
平行線を行くばかりだと思っていた、隣にいる男と冷徹を絵に描いたようだった夫の姿が、ほんの少しだけ交わった。
「分かった。教えてくれてありがとう、グレン」
ヴィルヘルムはずっと静かにグレンの話を聞いていた。すっと伸びた背筋は、二十八歳の彼を彷彿とさせる。
窓から差し込んだ夕日が、ちらばったガラスを照らしている。歪な反射が床に落ちて、心がざわりとするほどきれいだった。




