第百話「エルク号の出航」
第百話「エルク号の出航」
エルク号の修理はたったの二日で終わり、私を驚かせていた。
ファルコさんは、したり顔である。
「なに、ちょいとしたからくりだ」
「はい?」
「被害が少なくて程度がいいやつが、何故か一番最後に残ってたんだよなあ」
私がフロイデンシュタット家の名前で船を一隻確保したと聞いてから、ずっと考えていたらしい。
にやにやと笑うファルコさんのしたたかさに感謝しつつ、これは聞かなかったことにしておこうと胸の内にしまっておく。
少し浮いた予算は、村の運営費と船の運航予算に半分づつ上乗せだ。……余裕、ほんとにないからね。
「さて、もうひと踏ん張りしてくらあ」
「はーい、お願いしますねー」
レシュフェルト王国フロイデンシュタット『領海軍』所属の巡航艦エルク号は、明日出航して、そのままフレールスハイムに向かう。
積荷の積載量は大樽で数えて千二百樽、魔法なしでフレールスハイムまで四日の船足は、とても頼もしい。
一旦は三ヶ月ほどで、こちらに戻ってくる予定だった。
「どう! どう! よっと! おはようございます、男爵閣下!」
「おはようございます、騎士ユスティン」
二日に一度は、王政府からの伝令がやってくる。
戦役の後始末が終わって動き出したのは、フロイデンシュタット領だけじゃない。
フレールスハイムも含め、国中が転換期を迎えていた。
伝令鞄から取り出された分厚い書簡束が、騎士ユスティンから手渡される。
「ありがとうございます、騎士ユスティン。確かにお預かりしました。そちらはどうですか?」
「書類仕事から解放されて、皆喜んでおります! ……あ、いや、もとい、騎士本来の任務が増えて、皆走り回っております!」
「あはは、お疲れ様でした」
ローレンツ様やメルヒオル様からの特別の伝言はないようで、一安心のような、心配のような……。
しばらく雑談して、活気付いている各地の様子を聞かせて貰った。
特にファルケンディークは堤防工事の給金引き上げで活況、周辺から出稼ぎに来る人も多いという。
フレールスハイム商工組合は、シュトッシュ号の代金一万二千グルデンを即金で支払っていた。
メルヒオル様の経済政策は、もう動き始めている。
ふふ、うちも負けてられないね。
「失礼致しますぞ」
「はい、お願いします」
愛馬に跨って駆けて行く騎士ユスティンを見送って領主館に戻ると、すぐにヨハンさんが開封して、見やすいように並べてくれた。
……すんごい丁寧なのに手早く、そして仕事がやりやすい。
流石は元第一王女殿下専属執事である。
この書簡も、出所は様々だった。
フレールスハイム商工組合から出された鶏の番の発注、ファルケンディーク代官所が発した工事夫の追加募集と賃金上乗せの布告……。
代官と領主へ向けた会議の召喚状は、もちろん王政府から出されていた。
開催予定は来月で、内示はあったから慌ててはいない。
「鶏は後でヨナタンさんに聞きに行くとして……」
「エルク号に載せて行くのが、丁度良いかと」
あと、私信も一緒に配達されてきている。
このあたり、緩いけど緩くないというか、封がされてなくて、王政府への報告も兼ねているのかもしれない。
「オストグロナウ領主ゲルルフ閣下と、ノイエシュルム領主カスパル閣下は、発注を撤回されたようですな」
「手紙にはフレールスハイムの工房のこと、記してましたからね」
お手製蒸留器の注文はとてもありがたかったけれど、流石にあの差を黙ったまま受注すれば、確実に信用を喪う。
あちらの工房の蒸留器は、最低でも金貨五十枚からと随分お高いけれど、聞いた限りじゃ能力は十倍ぐらいあった。
私だって、懐に余裕があったら工房製の蒸留器が欲しい。
もちろん今後は国内にも砂糖酒税の掛かっていないミラス酒が流通するわけで、この状況の中、金貨十枚も投資するのはちょっと冒険的すぎるかなと思う。
ところが……。
「リンデルマン閣下は、そのまま発注継続を希望しておられますよ」
「そうなんですか?」
「良くご理解いただいているようです」
手紙には、個人で楽しむには丁度良い能力と大きさなので問題ないことや、蒸留器の種類による味の違い、燃料に使う木や炭でも味が変化することなど、醸造や蒸留についての知識がつらつらと書かれている。
そして……。
「献上酒は、製法を変えない提案、ですか……」
「酒飲みの屁理屈と、切り捨てるわけには行きませんな」
苦笑しつつ、ヨハンさんと顔を見合わせる。
暴風のハンスは、どうもメルヒオル様と同じタイプの飲兵衛らしい。
きちんと論理立てた内容で、その説得力には頷かざるを得なかった。
▽▽▽
それはそれとして……。
今日現在、フロイデンシュタット家の財産――現金は、六十グルデンにまで落ち込んでいた。
ファルコさんの機転でエルク号の修理費が圧縮されていなければ、路頭に迷うことだったよ。
この六十グルデンは、村の運営維持費用に十グルデン、エルク号の航海資金として五十グルデンが割り振っていた。
村の運営費に十グルデンはいかにも少ないけど、エルク号の運行資金はこれでもぎりぎりである。
大きな船を動かせば、港に入った時の入港税や係留費など、いわゆる『諸経費』が大きくのしかかって来た。……その分、利益も大きいけど、高いことには違いない。
フレールスハイムの組合長イルムヒルデさん宛てに、一航海ごとの傭船費支払いをお願いする手紙を書き、ファルコさんに預けていた。
ちなみに十グルデンは、人数が減った村の人口百五十人少々の食費プラス雑費なら、指折り数えてだいたい五日分になる。
この運営費には、リンデルマン閣下から受注した蒸留器用の鉄材購入費も入っているけれど、恐ろしいことにこれでも何とかなる計算だった。
なぜかと言えば、私も含めたこの百五十人は、文字通り日銭を稼ぐからである。
もちろん、領主家の炊き出しは、当面続くことになっていた。
領民の皆さんと清算する時が、今から恐いけど。
三ヶ月後に戻るエルク号の稼ぎが、フロイデンシュタットの未来を決める。
それだけは、今から決まっていた。
まあ、ほんとにどうしようもなくなったら、ファルケンディークに出稼ぎに行こうと思っている。
魔法使いとしての私なら、相応以上に稼げるはずだった。
▽▽▽
「左よーし!」
「右よーし!」
「右の二番、前に出ます!」
「はいよ!」
進水式の当日早朝、大勢が浜に出ていた。
エルク号は村の希望であり、生命線でもある。
事故は恐いので浜に線を引き、誘導の数人以外は入らないように注意してから、ゆっくりとゴーレムを動かしていく。
「着水しました!」
「りょーかーい!」
船底が海底に着かない位置まで、そろりそろりと押し出す。
船はマストが高ければ高いほど、あるいは帆の面積が大きいほど、上が重くなった。
エルク号の一番下の船倉にはありったけの水樽が並べられ、空荷でも転覆しないようになっている。
航海中なら積み荷そのものが重石になるので水を捨てるし、逆に荷が少ないなら水で満たした樽を並べたりと、見えないところで忙しいそうだ。
「おおー!」
「ばんざーい!」
「よし、艤装と食料の積み込みを始めろ! ケヴィンは何人か連れて水漏れの点検だ!」
「はいよ!」
「ヨナタンとこに誰か走れ! 鶏の準備だ!」
昨日もしっかり点検はしてたし、まあ大丈夫だろう。
ただ、装備品は若干足りていない。
全員分に足りないハンモックや、壊れてしまった天測具……先に修理された三隻の不足分を埋めたお陰で、そのしわ寄せが来ていた。
特に、捕虜の天幕にも使った帆布はもう予備がなくて、最初の航海で利益が出たらすぐに買わなきゃいけない。
……海賊時代に比べたら、食料も装備もずっと充実してるから全然問題ないって、ファルコさんは笑い飛ばしてたけどね。
そして、新しく用意しなくちゃいけないものもあった。
マストに掲げて所属国を表す三角旗と、それからもう一つ、船尾に掲げるフロイデンシュタット家の紋章旗である。
地元の近海だけで使われる小さな漁船はともかく、所属を表す旗が掲げられていない外洋船は、海賊扱いされても文句は言えない。
三角旗は幸い、王政府からフラウエンロープ号の予備を借りることが出来ていた。
但し、これは緑色をした長い三角形の旗で、旧王国のものだった。
でも、エルク号の所属先を正確に記せば、『レシュフェルト王国のフロイデンシュタット伯爵家』になる。
新王国の国旗は、レシュフェルト王家の紋章――交差した剣と盾にヴィッダーが配されている――が、地の色を緑から白に変えてそのまま使われていた。
うちはオルフ家への感謝を込めて、大角鹿がいいかなと思っている。
家が続く限り残るものだし、由来としても悪くない。
「領主様、もう出るそうです!」
「はーい!」
最後の連絡に残しておいた漁船がエルク号から戻ると、あとは見守るしかない。
船員が忙しく動き回る船上から、ファルコさんが大きく手を振っていた。
「頼んだぞー!」
「ドジるなよー!」
少し距離があるので互いの声は聞こえないけど、向こうも『行ってくるぜ!』とか、『任せろ!』とか、いつも漁に出る時のように怒鳴り返しているはずだ
見る間に帆が張られ、錨が巻き上げられ……エルク号は、すぐに小さくなっていった。
「大きく稼いで、無事に戻ってきて欲しいところだね」
「ええ、本当に」
珍しく、イゾルデさんが笑顔でエルク号の方を見ていたのが、印象的だった。




