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辺境の街にて  作者: 山本ヤマネ
二番目のお話
24/29

01 〈D.D.D〉の教導部隊がやってきて

17.09.06 再始動のため書き直したり構成しなおしたり

 後ろに続く数台の馬車が、がたごとと車輪をきしませて音を鳴らす。

 半分以上が土に埋もれた中に辛うじて顔をみせるアスファルトの残骸が、途切れながらも線となって進むべき道先を示している。

 とはいえこの世界では街を少し離れればどこもこんなものだ。馬車がすれ違うだけの道幅がしっかり確保されているだけ、ここら辺は随分とマシな方なのだ。

 頭上を見上げれば、街道の両端に並ぶ大樹から覆いかぶさるように伸びた枝によって、空の半分ほどは覆われている。所々が陽の光を浴びて輝くのは、昨日まで降っていた雨の名残なのだろう。

 両脇の深い森から今にでもモンスターが現れそうな雰囲気ではあるのだけれど、一定間隔で設置されている魔除けの結界によってそれなりの安全は確保されているらしい。現に昼ごろシブヤの街を出てこの街道を進む道すがら、二組の〈大地人〉の商人の集団とも行き交っている。


 ここはシブヤの街とテンプルサイドの街を繋ぐ街道、〈ボドムリバーウェイ〉。現実世界では井の頭通りに該当する〈大地人〉の交易路だ。

 シブヤの街から西へと伸びるこの街道は、終点であるテンプルサイドの街に本拠をもつ私たちにとってはすでに馴染みのものだ。道の脇で巨木の根に押しつぶされている赤錆びた大型バスも、ちょっと先で大きな影を落とす高速道路の残骸も、〈大災害〉から一ヶ月あまりも経った今となっては見慣れた風景になりつつある。

 ただいつもと違うのは、いま私と一緒にこの道をテンプルサイドの街へと向かっている同行者たちの顔ぶれだ。

 隊の中ほどを馬に跨って進む私の前後には、大量の荷物を山のように積んだ荷馬車が数台。それから統一感があまりない装備をそれぞれ身に纏う〈冒険者〉たちが広くはない街道に長い列をなしている。

 その〈冒険者〉たちのレベルが不均一で、なおかつ高くてもレベル六十程度であるのは、数ヶ月前まで私も所属していた戦闘系ギルド〈D.D.D〉の教導部隊のメンバーで組織された遠征チームだからだ。

 どうしてそんな中に私が紛れ込むことになっているのかといえば、いつもの事ながら〈D.D.D〉のギルドマスターであるクラスティ君が元凶だったりする。今朝にゃん太さんに会った後に呼び出された〈D.D.D〉の会議の席で、面倒なシゴトを押し付けられたのだ。


 〈大災害〉が起きた後の最初の一週間ほどで〈D.D.D〉はいくつかの中小ギルドを吸収し、構成人数を大幅に増やしている。これはギルドの規模を大きくしようと画策したとかではなく、「今までと何も変わらない。今までのギルドの運営を変える必要もない」というギルドマスターであるクラスティ君の方針の影響だ。


 MMORPG〈エルダー・テイル〉に拡張パック〈ノウアスフィアの開墾〉が適用されるはずだったあの日に起きた集団異世界転移、〈大災害〉。あれから一カ月以上が経った現在でも、その原因はわからず、帰還の糸口さえ見えていない。

 そんな誰もが不安を抱える状況の中、ギルドに所属していないプレイヤーや、メンバーの少ない中小ギルドのプレイヤーたちが〈D.D.D〉というアキバでも最大の戦闘系ギルドに庇護を求めるかのように集まってくるというのは、まあわからなくもない。

 

 ただし、〈D.D.D〉は慈善団体などではなく、あくまでも〈D.D.D〉なのだ。

 クラスティ君がゲームだった頃と変わらないと言うのであれば、レベルや経験にかかわらず「来る者は拒まず、去る者は追わず」とい方針も変わらない。〈大規模戦闘〉《レイド》を攻略するための戦闘系ギルドであり、全てのメンバーがその目的のための要員であるということも変わらない。

 要するに、本人がどういう思惑でギルドに加入したのであれ、新人には〈大規模戦闘〉で戦えるようになるだけの教導を行い、しかる後に各レイド師団に配属させるという流れも変わらないということなのだ。

 まあ、とはいえ何も変えずとも全てがゲームだった頃と同じように出来るかといえば、そう簡単にいくものではない。今回で言えばその教導を行う環境と人員が圧倒的に不足しているのが問題となる。


『というわけです。急激に増えた新規メンバーに〈トランスポート・ゲート〉や〈妖精の輪〉が使えないことによるアキバ周辺フィールドの飽和状態。これ解決するための有効な手段として考えられるのは、教導部隊の増員と新たな狩り場へ赴くための拠点構築となります。とはいえアキバの人員やレイドゾーンの開拓から大きく戦力を割くというのもギルドの趣旨としてはあまり良い手ではない。そんな状況の中、我がギルドの内情にも詳しく、あの〈大災害〉直後の混乱時期にもかかわらず多くの初心者プレイヤーの面倒をみて、アキバから程良く離れた場所でギルドまで立ち上げているプレイヤーが居るらしいのですよ。聞けばかの人物は現在〈D.D.D〉の教導部隊を指揮するリーゼの前任者でもあるらしい。そんな人物であれば、我がギルドが現在抱えているこの問題の解決にも快く協力してくれるのではないかと、私は考えるのですけれどね?』

『ぐぬぬ……』


 と、そんな結果、私は今こうしているという、そういう状況なのである。


 いや、私だって普通に頼まれたのだったらそんなに嫌だというわけではないのだ。今は離れてはいるものの〈D.D.D〉は長く所属した思い入れのあるギルドではあるし、りっちゃんことリーゼはその中でも深く関わった後輩だ。有能で真面目な良い子なのだ。その彼女からのお願いであったのなら、私だってすんなり頭を縦にふるのである。

 なのだが、あの鬼畜眼鏡め。

 山ちゃん(高山三佐)りっちゃん(リーゼ)相手の時は内心はどうであれ、もう少し紳士的というか常識の範囲内での言動をしているように見えるのだけれど、私が相手の場合にはどうしてこうも扱いが雑になるのか。

『まず前提条件がこうである。次にこういったことが予想される。その結果最善の手というのはこうあるべきで、だから櫛さんがやってください。反論があるのですか? 良いですよ、全部論破しますから』

 みたいな感じで外堀をぜんぶコンクリートでガッチガチに固めたあとに、こっちがぐうの音も出ないような状況に追い込んで、それを見てニヤニヤするのだ。眼鏡に指をかけて光らせたりするのだ。

 ちくしょう、いじめっこか。いじめっこなのか!?


「おい櫛八玉(くしやたま)。現実逃避だか妄想だかはわからないが、眉間に皺をよせながら唸っている様というのは、正直気持ち悪いぞ」


 そんな時、不意に横からハスキーでどこか芝居がかった声が私の名前を呼ぶのが聞こえてくる。

 その声に顔を向ければ、そこにはいつの間にかに私の横に並ぶように寄ってきた馬が一頭。そして、その馬上にはタキシードにシルクハットという異質な装備で身を固めた〈冒険者〉が顔に薄笑いを浮かべている。


「あー、小豆子(あずきこ)か。そういえば小豆子もこっちに配属されたんだっけ」

「ああ、今回のメンバーは若手ばかりだからね。私はリーゼとユタのお目付け役といったところだ」


 そう言うと彼女はシルクハットのつばに片手をかけ、肩をすくめる。

 この口が悪くていちいち身振り手振りが大げさな〈狼牙族〉の女性の名前は小豆子。大人数が所属する〈D.D.D〉の中でも多いとはいえない〈付与術士〉(エンチャンター) のうちの一人だ。

 開設当初からギルドに所属する古株でもあり、私としても付き合いの長い友人ではあるのだけれど、女性であるにもかかわらずタキシードにシルクハット、おまけに白い手袋にモノクルなんていう見た目に加えて、宝塚の男役のような口調をどんな時も崩さない変人だ。ゲームだった頃だけでなくこんな状況になった今でもそれを貫き通しているあたり真性だと思う。


「櫛八玉、なんかとても失礼なことを考えてないか?」

「そ、そんなことはないし……」


 そんな変人な小豆子ではあるのだけれど、〈エルダー・テイル〉のプレイヤーとしての能力は非常に高い。

 〈付与術士〉なんていう戦場全体を把握する必要のあるポジションで多くの〈大規模戦闘〉に参加しているだけあって視野は広く、見た目や口調はあれだが行動自体は的確で、周りからの信頼も厚い。あと妙に勘がいい。


「っていうかさ、小豆子が居るなら部外者の私とか必要ないんじゃないかい?」

「いや、私と櫛八玉とでは得意な分野が違うからな。どう考えてもリーダー役は私には務まらないだろう? 後ろで小言を言っている方が性に合っている。それにだな……」

「部外者なんて言われると、他人行儀で寂しいでゴザルよ?」


 いつの間にかに顔を出し、うさんくさい口調で会話に割り込んできたのは孤猿。通称ゴザル。

 男性にしては低めの身長にがっしりとした体つきという見た目は、太ってるというわけではないがなんというか四角い。

 黒く隠密性に優れた和風の軽鎧に頭部の鉢金。懐には無数の苦無を仕込み、背には取り回しに優れた刀身の短い刀を斜めに背負う、忍者好きをこじらせた〈暗殺者〉(アサシン)だ。

 このゴザルはギルド内では〈資材管理部〉に所属している。この隊での各種資材の管理や現地での消耗品の確保は彼の担当だ。


「あ、ええと、そんなつもりで言ったわけじゃないんだけどさ。ほら、なんか私だいぶ無責任に抜けちゃった訳だし……」


 しかし面と向かってそんなことを言われると、申し訳ないようなちょっと嬉しいような気分になってしまう。

 こんないい加減な私でも相変わらず仲間と思ってくれる友人が居るっていうのは、とても嬉しい事だと――


「そんなもの、櫛八玉のやめる詐欺、引退する詐欺なんて今に始まったことじゃないだろう。もう何回目だ? まあ確かに今回の家出は少しばかり長いようだが、そんなもので責任逃れしようだなんて考えが甘いにも程がある。騒いでるのは高山くらいだな」

「まあそうでゴザルよなあ。末端はともかくとして、中心メンバーの中ではいつもの事って感じでゴザルよなあ」


 ――思わない。全然思ったりしない。そうなのだ。どうせこいつらはこういう薄情な奴らなのだ。

 恨めしげに睨む私の目線を避けるかのようにそっぽを向く二人を交互に眺めた後、私はひとつため息をつく。

 まあ私の知っている〈D.D.D〉というギルドはこういうギルドなのだ。それが〈大災害〉の後も変わっていないということは、まあそれはそれで悪いことではないのだろうけれど。


 そんな時、不意に頭上に覆い被さっていた緑の天幕が消えて、前方の視界が開ける。

 街道を包んでいた森を抜けたのだ。


「ふう、やっと森を抜けたでゴザルか。しっかし思ったよりも大変でござったなあ。馬車の車輪がぬかるんだわだちにはまること三回、岩に乗り上げて荷崩れを起こすこと二回。予定よりも随分と遅れてしまったでゴザルよ」

「そうだねえ、私も同じような事を何度かしてるけど、馬車とかに関しては〈大地人〉の御者さんにおまかせだったからなあ……」


 そうなのだ。今回の遠征の参加者は、教導を行う中心メンバー以外は新規に加入したプレイヤーばかり。アイテムを多数格納できる「魔法の鞄」を持っていない者も多いことから馬車を連れて移動することになったのだが、その運用に思いのほか手こずることになった。

 私が以前にこの街道を馬車を引いて通ったときに〈大地人〉を雇っていたのは、単に人手が足りなかったというのが理由なだけで、彼らの持つ能力を当てにしていたわけではなかった。今回それをしなかったのは五十人を超える遠征のメンバーであれば人手は足りると考えたからだ。

 ゲームだった頃の影響の大きい戦闘に関していえば、私たちの持つ〈冒険者〉の身体はまるで身体自体がそれを覚えているかのように自在に動かすことができる。お嬢様育ちのヤエならともかくとして、乗馬などしたこともなかった私がこうして馬をなんなく操っているのも、同じ能力の延長なのだろう。

 しかしそのゲームだった頃の恩恵をうける範囲というのは曖昧で、なおかつ思ったほどは広くないらしい。

 そして、そこから少しでも外れてしまえば、現実の世界と変わらないことになる。当たり前ではあるけれど、できることはできるし、できないことはできない。

 荷馬を一定の速度でまっすぐ歩かせることも、ぬかるんだわだちを避けて馬車を走らせる道を選ぶことも、経験して訓練しないとできるようにはならないのだ。


「ほんっと、私たちは自分では知らないところで、こっちの世界の人たちにたくさん助けられてるんだろうなあ……」

「ん? 姉御、なんでゴザルか?」

「なんでもなーい」


 怪訝な顔をするゴザルにぞんざいな返事を返しながら、私は屋敷の執事バルトさんやメイドのユーリちゃん、リーネちゃんの姿を脳裏に思い浮かべる。それだけで思わず口元がゆるんでしまう。

 馬車なんて特別なことだけじゃなく、私がテンプルサイドの屋敷で快適に過ごせているのも彼らのおかげ。今私たちがあたりまえのように日々の生活を続けていられるのは、運よく得られた彼らとの信頼関係という宝物のおかげだ。でもそんな私の大事な宝物ことは、薄情なゴザルたちには教えてなんてやらないのだ。


 樹々が(さえぎ)っていた初夏の風が、頬をなでて髪を揺らす。

 現実世界であれば季節は梅雨。そのせいなのかここのところ雨がちではあるのだけれど、この世界の気候は元の世界と全く同じというわけでもないらしい。頻度は多くとも長く降ることは少なく、雨が上がった後の空気はからりと乾いている。

 その雨上がりの澄んだ空気のせいか、それとも今まで視界が狭く遮られていたせいなのか、目の前に広がる景色がいつもより広いように感じる。

 街道の石畳の先にはかすかに街の影が見え始めている。そこから少し外れた南側に広がるのは〈テンプルサイドの森〉。この遠征部隊が目的としている初心者から中級者むけのフィールドだ。


「ほほう、あれが明日からの仕事場っていうわけか。レベル的には物足りなくはあるが、こう見るとなかなか荘厳な景色じゃあないか」

「あの中心に見える遺跡がレイドゾーンでゴザルな。拙者こっちへ来てからはまだ〈大規模戦闘〉には参加できてないでゴザルからなあ。少し楽しみでゴザルよ」


 小豆子と孤猿が、その〈テンプルサイドの森〉を見下ろしながら、どこか嬉しそうな表情を顔に浮かべる。

 〈テンプルサイドの森〉のネタ元となっている現実世界の井の頭公園は、周囲よりもへこんだすり鉢のような地形に広がっている。こちらの世界ではその地形は誇張され、クレーターの底にあるかのように眼下に広がっている。もちろんその広さも現実世界での縮尺よりも何倍もの規模に拡張されている。

 その大きな森の中心、孤猿が指差している半ば崩れかけた城塞のような建造物が〈堕ちた寺院〉(フォーリンテンプル)。主に〈ゴーレム〉や〈時計仕掛〉(クロックワークス)などのモンスターが出現するレイドゾーンだ。


「楽しそうなところに水さすようで悪いけどさ、あそこレベル六十の侵入制限ゾーンだぞ。小豆子やゴザルは入れないんじゃないか? それに今回の遠征の目的って初心者の戦闘訓練とレベル上げなんだから、レイドゾーンは関係なくないかい?」

「何を言う櫛八玉。家出してるうちに耄碌(もうろく)でもしたか? 教導部隊とはいえ、こんな所まで〈D.D.D(うち)〉が出張ってきたんだ。アレを無視するわけがないだろう?」

「それに侵入制限だったら〈師範システム〉でレベルを下げればいいだけでゴザルし。まあメンバー的には苦労しそうでゴザルが、こういうのは簡単にはいかないから面白いんでゴザルよ?」


 何を馬鹿なことを言っているんだこいつはとでも言うようなジト目で、二人が私をにらむ。

 あれ、私が間違ってたのか? いま私すごく常識的なことを言ったと思うのだが……


「まあそんなことよりもスケジュールが押してるせいで、うちの姫がご機嫌斜めだ。ほらユタが困っているぞ。(なだ)めるのは直属の先輩たる君の役目だろう。そろそろ行ってくると良いと思うのだが?」

 

 どうにも納得がいかない私を無視して、小豆子が隊列の先頭を指差す。

 そこに見えるのは、豊かなサフランブロンドの髪を揺らす長身で細身の女性〈冒険者〉と、赤褐色の和鎧を身にまとう男性〈冒険者〉の姿。この教導部隊の隊長であるリーゼと、その補佐役であるユタだ。

 遠目に見てもなにやら言い合いをしているのがわかる。まあそれも〈D.D.D〉にい居た頃からいつも目にしていたお馴染みの光景ではあったりするのだが。


「ええっとそれってさ、別に小豆子がやってもいいんじゃないかい?」

「嫌だ。めんどくさい」


 小豆子は両手を頭の後ろに回し、わざとらしく口笛をふくようなしぐさをしながらあさっての方向を向く。

 どうやらこいつは、めんどくさいことは極力私におしつけるつもりらしい。とは言っても小豆子に口で勝てる気は全くしないし、孤猿があそこに入っても騒ぎが大きくなるだけで逆効果だろう。おまけにそろそろテンプルサイドの街にも着いてしまう。それまでにはりっちゃんには冷静になってもらわないと、その後がめんどくさい。


「あーもうちくしょう。ゴザル、あとで覚えとけよ!」

「な、なんで拙者だけでゴザル!?」


 そんなままならない気持はとりあえずはゴザルに放り投げる。

 そして私は、隊列の先頭で口喧嘩をする二人の後輩のもとへと馬を走らせたのだ。





 二階建ての住宅ほどの高さがあるレンガ積みの塔の間を抜けると、不揃いな石が敷き詰められた広場に入る。その先に見えるのは、石やレンガで造られた家が並ぶ、まるでヨーロッパの古い町並みのような風景だ。樹木の侵食や風化などはあるものの現実世界の景観を大きく留めていアキバの街に比べると、ここテンプルサイドの街は元の世界で同じ位置にある吉祥寺の町を思わせるような建物の数は少ない。

 そんな景色が珍しいのだろう。ここまでたどり着いた〈D.D.D〉教導部隊のメンバーたちは、馬車にもたれかかったり周りに座り込んだりしながらも、街の風景を興味深そうに眺めては雑談に花を咲かせている。

 彼らにとってはアキバの街からこれほど離れたのは初めてのことなのだろう。道中はあまり会話もなくどこか緊張した雰囲気だったのだけれど、とりあえず目的地に到着ということで少し余裕も戻ってきたらしい。


 広場の端には、仕事をしながらも新たに街にやってきた〈冒険者〉の集団をちらちらと観察する街の住人の姿が見える。とはいってもその視線はあの〈大災害〉の日にこの場に現れた私たちに向けられたような敵意や怯えが混じったものではなく、次は何が起きるのかといった風な好奇心からくるようなものがほとんどだ。


「これはなんというか、随分とアキバとは違う雰囲気でゴザルなあ……」

「そうだね。街の住人の表情も、どこか明るいように見えるな」


 そんな街の様子を眺めながら、ゴザルは口をぽかんと開き、小豆子も目を見開いて驚いた表情を見せる。


「ふふふ、そうであろう、そうであろう?」


 もちろん私にとってもこの街は、もう一ヶ月あまりも生活の場としてきたこの世界での我が家のようなものだ。そうやって褒められるのは正直いって自分のことのように嬉しい。

 だがそんな私の得意げな気分は、背後から聞こえるブーツのヒールがカツカツと石畳を叩く音によって萎えしぼんでしまう。


 その音にゆっくりと振りかえれば、そこには腕を組みながら顔をうつむかせた女性の姿。

 ほっそりとしたモデル体型を包むどこか軍服を思わせるようなデザインのローブも特徴的だが、まず一番に目を引くのはそのボリューム豊かな金髪の縦ロールだ。いわゆるお嬢様なヘアである。そんな迫力ある美女がなにやらぶつぶつと呟きながら、顔をうつむかせているのである。正直だいぶ怖い。


「ええっと、りっちゃん。何故してそんなに不機嫌なのかなー?」

「…………」


 返事なく私を睨むその金髪縦ロール美女の名前はリーゼ。

 〈D.D.D〉の幹部である〈三羽烏〉の一人であり、ギルド内では教導部隊の隊長を任されている。というか、リアルが忙しくなってあまり手がかけられなくなってしまった私の後任として、一年ほど前に教導部隊の面倒を見る役を引き継いでもらった直属の後輩ちゃんである。まだ〈エルダー・テイル〉歴はまださほど長くはないものの、規律正しく真面目な性格でなおかつ記憶力もいい、とても優秀なプレイヤーだ。

 まあ、ちょっとばかし真面目すぎて融通がきかないところはあるのだけれど。


「いやまあトラブルはあったけど、こうやって無事にテンプルサイドまでは着いたんだし、もうちょっと明るい顔をしてくれてもいいんじゃないかなあ?」

「…………」

「おーい、りっちゃん?」

「…………」


 そんな後輩の挙動不審なさまを放っておくわけにもいかず、顔を覗き込みながら話しかけるも、りっちゃんから答えは返ってこない。


「――いきません」

「ん? なんだって?」

「納得いきません!!」

「の、のわっ!?」


 沈黙が数秒続いた後、今までうつむいていた顔をがばっと上げたりっちゃんは唐突に大きな声をあげる。


「やっぱり納得いきませんわ。なんで私たちがわざわざアキバ周辺のフィールドの使用権を放棄して、こんな所まで遠征しなくてはならないのですか!」

「えーとそれは、〈トランスポート・ゲート〉も〈妖精の輪〉も使えなくなっちゃって、アキバまわりの狩り場が大混雑になっちゃったから?」


 眉間にしわを寄せながら私に詰め寄るりっちゃんの迫力に押されて、私は思わず後ずさる。しかしりっちゃんの勢いは止まってはくれない。


「そもそもアキバ近隣のフィールドでの狩りのローテーションは〈大災害〉直後から戦闘行為を行っていたギルドや個人と何度も話し合いの場をもって決定されたものです。それを数週間も経ってからのこのことやってきて、やれ大手ギルドの独占だとか戦闘系ギルドが横暴であるだとか、濡れ衣もいいところじゃないですか。なんで私たちが譲歩しなくてはならないんですか!」

「ぐぬ。そりゃあまあ、他の中小のギルドには余裕がなくて、〈D.D.D〉にはそれを出来るだけの余裕が少しはあるから、……かなあ?」


 誰かに助けを求めようと周囲に目を向ければ、視界の端にはわざとらしく街の外の風景を指さして何やら話しながら私との距離を取り始めるゴザルと小豆子の姿。こんな時にりっちゃんをサポートする役の筈である副隊長のユタは、馬車の裏に隠れながらこっちを見つつ、手を合わせてしきりに頭を下げている。そうやって謝るぐらいならこっちに来てりっちゃんを止めろと言いたい。


「ぐぬ、ユタめえ。後でおぼえてろよ……」

「ユタは関係ありません! それに櫛先輩も櫛先輩です!」

「え、なんで私!?」


 そんな私の態度が気に入らなかったのか、りっちゃんの眉間のしわがまた深まる。いつの間にかにその矛先はギルドやアキバの事情から私へと変わっているらしい。なんだか怪しい風向きだ。


「大体、櫛先輩がわけのわからない理由でギルドを脱退して新しくギルドを立ち上げたりするから、私までこんな所に来ることになったんです! 櫛先輩は〈D.D.D〉の副長なんです。自覚が足りません。こんな事が起きてるんですから早くギルドに復帰してくださらないと困ります!」


 ちょっとまて。わけのわからない理由とか言うな。自覚ってなんだ。とはいえよりいっそう眉がつり上ったりっちゃんに反論するのはとっても怖い。ここはどうにか穏便にきり抜けねばならない。


「まてまて落ち着け。だいぶ言ってる事が支離滅裂になってきてると思うんだけれど。それはさておき、その心は?」

「高山さんばっかり我が主(ミロード)のそばに居て、私はアキバの外とかずるいです!」

「…………」

「…………」


 りっちゃんはそう言うと顔を赤くして、また顔をうつむかせてしまう。

 あーいやまあ、確かにりっちゃんはゲームだった頃からそういう感じではあったのだ。クラスティ君は外面は良いし、ギルドマスターなんぞをやるだけあって、よくわからない行動力もあるずるい奴だ。ああいうのがモテるのは知っているし、まだ高校生なりっちゃん的にはころっといってしまうのはまあ分からなくもない。

 とはいえ、奴の本性を知っている私としては、可愛い後輩をあんなダメな奴にだまされたままにしておくのは面白くない。


「まあ、そこらは適材適所とかなんとかあるとは思うんだけれどさ、クラスティ君はやめといた方がいいと思うぞ。アレは友人として付き合う分には、まあ面白い奴ではあるけど、付き合う相手としては最悪に近いというか……」

「…………」

「あれだぞ、確かに見た目も頭も良いし、なんか経済的にも勝ち組っぽいけど、性格とか壊滅的だぞ。あれ人間として考えたら失格なレベルだぞ……」

「…………」


 人生の先輩としては、いたいけな少女をあの鬼畜眼鏡から守らねばと言葉を重ねてみたものの、どうにもりっちゃんの反応は悪い。というか、むしろりっちゃんの不機嫌オーラはその濃度を増してきてしまっているような気がする。


「そんなの櫛先輩の方がダメダメですっ!!」


 黙ってうつむいていたりっちゃんが、唐突に叫ぶような声をあげる。その顔は今までにも増して真っ赤で、その目にはうっすらと涙まで浮かんでいる。どうやら私は虎の尾を踏んでしまったらしい。


「だいたい〈エルダー・テイル〉を引退するとか言ってましたけれど、別にゲームが嫌いになったとかじゃないですよね?」

「あーうん、そうね……」

「だったら辞めるとかまずダメです。仕事がとか彼氏がとか理由つけてるあたりがもうダメです!」

「ええといや、そうは言うけどね……」

「そんなの全部やっちゃえばいいんです! これだけの人がいる〈エルダー・テイル〉なんですから、気の合う人の一人や二人ちゃっちゃと見つけちゃえばいいじゃないですかっ!」

「……アッハイ」

「仕事だって時間のやりくりをちゃんとすればいいんです! それを安易に引退とか言っちゃってるのがもう全然ダメダメです! 櫛先輩は私の先輩なんですから、もっとちゃんとしてくれないとダメですっ!」

「ごめん、もう許して……」


 そこまで息をつく間もなく喋りきったりっちゃんは、はっと我にかえったように口をとざす。しかし時すでに遅し、既に私のHPはゼロである。二人して涙目のダブルノックアウト状態だ。


「あ、ええとボス、そろそろ良いッスかね……」


 そんな状態で向かい合ったまま頭を垂れて沈黙していた私たちに、恐る恐るといった感じの声がかかる。

 その声に顔を向けると、そこには困惑した表情で頭の後ろをかくダルタス、それからその後ろには私の屋敷の管理をしてくれている〈大地人〉の執事バルトさんと、おびえた表情でダルタスの後ろに隠れて震えるメイドのユーリちゃんの姿があったのだ。



 ◆



「お初にお目にかかります。このテンプルサイドの街の〈大地人〉のまとめ役のようなものをさせて頂いております、バルトと申します」

「ええと、ユタです。よろしくお願いします。この遠征チームの副隊長です。隊長はあっちのリーゼなんですが、まあちょっと今へこんでるっぽいので……」


 ぱりっとしたモーニングの執事姿で綺麗なお辞儀をするバルトさんにとまどいながら、さび色の和鎧を身にまとう〈武士〉(サムライ)、ユタがたどたどしく挨拶を返す。

 このユタは自分でも説明しているように、〈D.D.D〉の教導部隊の副隊長。聞くところによると現実世界でもりっちゃんと同じ高校に通う同級生らしく、ゲーム内でも彼女のサポート役をすることが多かった。

 先ほど感情的になってしまったのが恥ずかしいのだろう。りっちゃんはそのユタの後ろでばつが悪そうに口をとざしている。


「ほう、〈大地人〉の街の有力者というわけか。やはりアキバとは随分と勝手が違うのだな」

「そうッスね。テンプルサイドはアキバと違って〈大地人〉の街ッスから。こっちばっかり勝手はできないんッスよ」

「そんなことよりメイドさんでゴザル! かわいいメイドさんでゴザルよ!」


 その横では小豆子と孤猿に対して、ダル太がどこか自慢げな表情で応対をしている。っていうかゴザル、うちのユーリちゃんをそんな変な目で見るな。おびえて私にしがみついてるじゃないか。

 そんな挙動不審なゴザルや、ちょっと図に乗ってるっぽいダル太をひと睨みしたあとバルトさんたちの方に目を向ければ、慣れない会話にあたふたとしているユタの姿が見える。そろそろ助け船を出す頃合いだろう。


「ええとバルトさん、お願いしていた空き家とかってどんな感じです?」

「クシ様、申し訳ありません。やはり街の中では、五十人を超える人数の宿泊をまかなえる家屋は用意することができませんでした」

「まあ予想どうりですね。問題ないですよ」


 最初の頃に比べればだいぶ砕けてきてはくれているものの、相変わらずの丁寧口調なバルトさんにこちらも頭を軽く下げる。

 隊長のリーゼ、副隊長のユタ、資材管理係の孤猿、そしてお目付け役の小豆子。このゲームの頃から〈D.D.D〉に所属するメンバーに加えて、〈大災害〉後にギルドに加入した五十人ほどの初心者たちと物資を運んできた馬車が数台というのが、今回の遠征部隊の全容だ。

 一万を超える〈冒険者〉が住むアキバであれば問題にもならないこの人数なのだが、このテンプルサイドは、西へと続く交易路の中継地点とはなっているものの、さほど大きな街ではない。

 これから先はどうなるか分からないけれど、現状では外から多くの人が一度に訪れることもなく、私のギルド〈太陽の軌跡(サン・ロード)〉のメンバーの倍以上にもなるこの人数をどうにかするだけの施設など街の中には無いのだ。


「というわけで、予定どおり街はずれの学校跡の廃墟をベースキャンプにするよ。ゴザル、そのための資材とかは問題ないよね?」

「もちろん抜かりはないでゴザルよ。というか実際、雨風さえしのげればどうにでもなるでゴザルし」

「うーん、寝る場所とかお風呂とかっていう生活のあれこれは、あんまりおざなりにしない方が良いんだけど。まああの廃墟、元の世界だと女子校だったっぽいし、ゴザル的にはシアワセになれるかもなあ」

「さすがにもと女子校とはいえ、廃墟に萌えられるほど拙者は上級者ではないでゴザルよ……」


 軽口をたたきながらも頭の中ではなにやら計算をしているのだろう。ゴザルは手の指をおりながら考えるような仕草をする。

 ゴザルが所属する資材管理部は〈大規模戦闘(レイド)〉を行う際に必要となるポーションやスクロール等の消耗アイテムの配布や、ドロップアイテムの管理、再分配を行うチームだ。

 レイドを運用するために必要となるアイテムや、その成果として獲得されるアイテムの額というのはプレイヤー個人のもつ資産とは比べ物にならないくらい大きなものとなるし、額が大きくなればトラブルも増える。

 レイドギルドというのは短命に終わることが多いのだけれど、噂に聞こえてくる解散理由の半分以上は資産配分のトラブルだったりする。

 そんこともあって資材管理というのは実際のレイド攻略に比べて地味に思われがちではあるのだけれど、実はギルドの存続にかかわる重要なタスクなのだ。〈D.D.D〉においてそれを一手に担う資材管理部に所属しているというだけでもゴザルが優秀なプレイヤーであるということがわかる。性格や怪しげな口調はあれだが。


 とはいえそれもゲームだった頃のこと。

 現実となってしまったこの世界においてはゲームだった頃の知識や経験だけではまかなえない問題がいろいろと発生するだろう。ましてやゴザルはりっちゃんやダル太たちと同じくまだ高校生だ。


「まあ、というわけでエリックさん、どっかで見てるんじゃないかな?」


 私は少し離れたところからこちらを観察している〈大地人〉の集団に向けて、少し大きめな声で呼びかける。


「なんだい、ボスの嬢ちゃん。俺みたいなしがない行商人になんの用だ?」


 間髪いれずに人混みをかきわけて姿を現したのは、背が高くがっしりとした体つきの商人というよりは歴戦の傭兵といった容貌をした壮年の男性。〈大災害〉のちょっと後、この街からアキバへむかう旅をきっかけに知り合いになったエリックさんという行商人集団(キャラバン)のリーダーさんだ。


「こいつ、今回きた〈冒険者〉たちの財布を握ってるゴザル。どのくらいの期間になるかはまだ分からないんだけど、この先街の西の廃墟に滞在して活動するからさ、なんか必要そうなものとか売り付けたいものとかあったら相手してあげて欲しいんだよね」

「ほほう?」

「え、なんでゴザル!?」


 私があっけにとられたままのゴザルを指さすと、エリックさんは顎に手をあてながら唇をちらりと舐め、ニヤリと笑う。

 その目は獲物をとらえた猛禽類のそれだ。


「まあ、中の人は高校生だから商売の相手としてはだいぶちょろいと思うんだけれど、この集団ってアキバでもだいぶ大きい方の戦闘系ギルド、ええとまあ騎士団の一部だから。まあ資産はあるからとりあえずふっかけて儲けてもいいし、後のコネと思ってサービスしてもいいしって感じで、エリックさんの都合のいいように相手してやってちょうだい」

「ふむ、コーコーセイってのは判らねえが、了解したぜ。随分と面白そうじゃねえか」


 このエリックさんは既にヤエと共同でいくつか商売を進めていることもあって、〈大災害〉後の〈冒険者〉の事情にも詳しい。扱う商品の種類や地域による商売人同士の調整などもあって、まだアキバまでは商売の手をあまり伸ばせてはいないようだけれど、だからこそアキバや〈D.D.D〉とのコネを構築できる機会ともなれば彼にとってもチャンスになるだろう。


「なんか拙者の預かり知らぬところで、とても怖い話をされている気がするでゴザルが……」

「ははは、こっちはか弱いただの行商人だぜ、〈冒険者〉様が怖がることなんて何にもねえだろ。それよりもまずは自己紹介といこうぜ。売るにも買うにもまずはお互いのことが判ってなくちゃなんねえよな!」

「ちょっ! ま、待つでゴザルよっ!」


 少し引きつった表情を顔に浮かべるゴザルの肩にがっしと腕をまわしたエリックさんは、とっても良い笑顔でゴザルを引きずっていく。ゴザルにはいまのうちに色々と経験してもらうとして、まあこれで物資関連はどうにかなるだろう。


「さて次はっと、ええとダル太?」

「お、オレっスか!?」


 私が声をかけると、ダル太はびくりと肩をふるわせて飛び上がる。


「ダル太はこの街のちょっとした事情とか、ここいらの狩り場の情報とかをりっちゃんたちに伝える係ね。ゲームの頃のデータだったらりっちゃんが一通り把握はしてると思うけど、細かいところは変わっちゃってるからさ。あと低レベル帯の引率とかはうちでもダル太が一番経験多いから。一週間くらいは付き合ってあげて」

「イエス・マム!」


 ダル太がびしりと背を伸ばし、敬礼のようなポーズをとる。

 ここのところ無茶ぶりとか全然していないのにその怯えたような表情はなんなのだとか、いくら言ってもその変な掛け声をやめないのは反対になんかおちょくられてる気がするだとか、いろいろと思うところがないわけでもないのだけれど、まあダル太だからしょうがないと思うことにして、手っ取り早く指示だけを出す。


「俺たちはどうします?」

「うーん、まありっちゃんがもう少しで再起動すると思うから、そうしたらユタたちはあの西に見える学校跡に移動して、とりあえず腰をおちつけちゃおうか。今日はもう昼もだいぶ過ぎちゃったし本格的に活動するのは明日からの方がいいでしょ」

「了解。じゃあ移動準備はじめますね」


 そう言うとユタは他の遠征部隊のメンバーたちの方へ走っていく。

 ほかの面子が濃いやつらばっかりなのでちょっと印象が薄くなりがちではあるが、ユタは歳のわりには落ち着いていて、周囲をよく見て柔軟に動くことのできる良い子だ。

 自分で何かを計画したり、先頭に立って行動を起こすのにはあまり得意ではないようだけれど、決まった目的がある状態での実務となれば驚くほど手際良くこなす。こっちも後はまかせてしまっても大丈夫だ。


 明日からまた面倒なことは起こるのだろうけれど、とりあえず目の前のやっかい事は一通り片付いただろう。私は両手をあげて、ひとつ大きく伸びをする。


「よしっと。じゃあ今日は朝も早かったし、あとは屋敷に帰ってだらっと……」

「いえ。現在、相談があると訪ねてきた来客が二件。こちらは屋敷のほうでクシ様のお帰りを待っておられます」


 だが、そんな私のすがすがしい気分は、背後から容赦なくかけられるバルトさんの声によって吹き飛ばされてしまう。


「それと、昨日取引を行った食材の支払いおよび在庫の整理が滞っております」

「ぐぬ……」

「それに後日開催される長老会の会議の前に、目を通しておいていただきたい書類もいくつがございまして」

「ぐぬぬ……」


 そうだ。本当はわかっていたのだ。

 昨日までだって籠りっきりで事務仕事に追われていたのだから、一日屋敷を離れてアキバになんて出かけていたら、そりゃあ仕事だって積み上がってしまうのだ。

 でも、ちょっとくらいは現実逃避をさせてくれたっていいじゃないか。


 そんな時、私はふとある違和感に気付く。


「……そうだ。そう、ヤエは? ヤエはどこに行ったのさ!?」


 こんな何かが起きるような時には必ず顔をつっこんできて、八割くらいの確率でより騒ぎを大きくするヤエの姿が見えない。

 っていうか商売の取引関連や在庫の管理はヤエの仕事だ。バルトさんが私にそれをふってくるのもおかしいのだ。


「ヤエ様たちであれば今日の朝方、リーネを連れて西の集落にお出かけになりました。リーネの実家に挨拶に行くのだそうです。お止めはしたのですが、なんでもリフレッシュ休暇という〈冒険者〉の方々の制度なのだそうで……」


 そう言うとバルトさんは少し顔を歪ませる。彼としても何かおかしいとは思いながらも、引きとめられなかったことに引け目のようなものがあるのだろう。


「ぐぬ。あいつ面倒そうだからって逃げやがったな……」


 そういえばヤエは〈D.D.D〉に居たころからりっちゃんのことを苦手にしていた。

 嫌っているとかそういうのではないのだが、真面目で良い子なりっちゃんが相手だと、いつものように我儘が言えないというか、なにか罪悪感のようなものが湧いてしまうのだろう。純真な少女の前では無力になる悪魔みたいなやつである。

 とはいえまさか、街から逃げ出すまでとは思わなかった。

 ヤエが居なくなったことによってこのあと自分に降りかかってくるであろう事務作業の量を考えて、私はがっくりと肩をおとす。


「クシ様、おつかれ?」

「……いや、私がんばるよ……」


 私の服の袖をつかみながら首をかしげるユーリちゃんの頭に手を置きながら、私は空を仰いでひとつため息をついたのだ。


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