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その横顔を見つめてしまう

 私の予想よりも早く彼と――先輩と恋人になった。

 冬のクリスマス、少し先のバレンタインで決着が付くと考えいた。恋人がいる人もいない人も、想う相手がいる人たちはそわそわとした雰囲気を醸し出し、特に学生は誰もがその時期は浮かれてしまう。

 最近の先輩ならきっと。

 けれどそうはならなかった。


 嬉しい誤算。

 私の想像よりも彼は成長が早かった。

 文化祭が終わった後、ただ先輩が私のことをどこまで想ってくれているのかという確認をするだけのつもりで、先輩の誕生日を祝うために約束を取り付けることを目的としていた。


 部室ではもちろん意識させるため、誘導するように言ったのだけれど、効果が予想以上のものに。

 自惚れでなければ、彼の行動や言動に優しさ以上のものを感じていたから、少し控えめにしていたアプローチを再開しただけ。

 先輩がいつもしてきたように地道に一歩ずつ積み重ね育み認めさせる。いつもぼんやりとどこを見ているのかわからない彼の視界の中心に私という存在を。



「へ、――へぷっしっ」



 ずるずると鼻をすすりながら、汗だくになっていたYシャツとベストを脱ぎ捨てて小脇に抱えている彼。汗が引き、秋の夕方は肌寒く冷えてしまったようだ。



「変わったくしゃみですね」



 何か暖めるものはないだろうかと探す。

 ナース服なのかメイド服かよくわからない衣装の上に羽織っていたカーディガンを脱いで先輩の肩に掛けた。汗もかいてないし、雨にも濡れていないから綺麗なまま。

 私が使っているものは二回りも大きなサイズ。先輩にとってはちょうどいい大きさかもしれない。

 身長に合わせると胸がきついし、胸に合わせると丈が合わない。普段から苦労している衣服だけど、スタイルを隠す以外にも役に立つことがあるようだ。

 母さんの遺伝子元気すぎる。



「大丈夫?」

「はい」



 ここで、私には先輩がいますのでと言って抱きつけば可愛げがあるだろうか。先程キスを求めたばかりだし、今もこうして手を恋人繋ぎしている。

 私ばかり彼を求めるのは少し癪。



「あったかい。それに夏菜の良い匂いがする」

「……そうですか。よかったですね」



 本当にこの人は……。

 付き合ってなくても、付き合い始めた今でも平然と言ってのける。

 いい加減こちらの身になってほしい。

 この調子で何も出来ず、お預けを食らって悶々としてしまうことだってある。悪気がないからこそたちの悪い。

 全て先輩が悪い。

 でも今日は許してあげよう。何せ気分が良く満たされている。

 これから先は簡単にお願いすることも出来るのだ。我儘を言えば彼から求めてほしい。



「ありがとう」

「いえ、お気になさらず」



 私のことを律儀と言ってくれているけれど、こんな些細なことで毎回ちゃんとお礼を言う彼も十分に律儀。

 暖かそうな茜の空に、水たまりも空を映す。

 吹き抜ける風は優しい香りがして、冷たく火照った身体を撫でてくれて心地いい。


 夕方のこの時間の色が一番好き。

 中学の部活の終わり、ずっと二人で居た時間でもある。

 だから私はオレンジ色を好む。

 空いた左手を掲げる、麗奈に教わったマニキュア。ほとんどの爪は淡い水色だけれど、永遠を表すケルティックノット柄のリングがはめられた薬指の先端だけはその色。


 隣には先輩の顔。

 今もどこを見ているのかイマイチわからない。近くを見ているようで、その実何も見ていない。

 こちらが吸い込まれるような澄んでいて無垢な瞳。

 昔から変わっていないその横顔に見惚れるが、安心感と不安が入り混じる。

 綿毛のようにふわふわとした存在。

 穏やかで優しくて気遣いの出来る人。でも目を話したすきにどこかに飛んでいってしまいそうや危うさ。

 思わず繋いでいた手に力が籠もる。



「ん? どうした?」

「あ、いえ。なんでもないです」

「変なの」



 そう言って彼はくすりと笑う。

 先輩の笑顔はまるで子供のようで可愛い。素の顔つきが女性っぽいということ以外は特徴はない。

 私以上に表情がないがないから個性が見えてこないのだ。でも、一度笑ったりするとこちらがハッとするほど見違える。


 幸福な時間はあっと言う間。

 閉会式を終えた生徒たちが体育館から出てくるのが見えてきた。

 名残惜しくも手を離す。

 表情に変化があったのか、そっと暖かい手が私の頬をやさしく撫でる。



「よくわかりますね」

「ずっと一緒にいるからね」



 ガラスに映った自分の顔。

 いつも通りの無表情。

 先輩によく言われる眠そうな垂れ目には、なんの感情も浮かんでいないように見える。

 私の機微に聡いのは両親を除いて先輩だけ。

 仲のいい麗奈ですら、気づかないことが多い。

 表情をころころと変える彼女や母さんを羨ましいと思うこともあるけれど、こうやって彼が気づいてくれるのは素直に嬉しい。



「ここでお別れですね」

「一緒に帰らないの?」

「クラスの片付けがいつ終わるかわからないですし、先輩も実行委員の仕事が残っているのではないですか?」

「そうだね。夏菜にずっと待って貰うのは忍びないし」

「そういうことではないんですけどね」



 私はずっと待っていても苦ではない。

 特に今日のは私は無敵感がある。



「一度自宅に戻って準備したいので」



 買っておいたプレゼント。

 ついでにお風呂に入ってから先輩の家に向かうつもり。



「そういうことなのでよろしくお願いしますね」

「うん。気をつけてね」

「はい」



 教室の片付け作業もほどほどに私は一人自宅に帰る。

 麗奈に事情を伝えたところ『ほんと乙女』と馬鹿にされた。いつもなら小突いているところだけれど、仕事を丸投げしているから甘んじて受け入れた。

 後日詳しく教えろとも言われていたので、それも了承。

 なんだかかんだ彼女に相談したりすることも多かった。


 電車の中で母さんに今日は先輩の家に泊まることを伝える。事前に言っておいたけれど、母さんは抜けているから念のため。見た目そのままにのんびりと落ち着いた人で、けれど芯が一本通っている人でもある。

 私の憧れ。

 今日は父さんと文化祭に来ていたみたいだけれど、そのまま父さんとのデートを楽しんでいる内容のメッセージが返ってきた。相変わらず仲が良い。

 あとで先輩のお父さんとも合流する予定らしい。

 いつ仲良くなったんだろ。


 小走り気味に家路を急ぎ、すぐにシャワーを浴びることにした。

 本当はお風呂に浸かりたいところだけれど、これからの行動を考えるとあまり時間はない。

 ヘアピンで留めていたキャップを外し、衣装を脱いで籠に放り込む。

 衣装の丈が長いのと先輩が忙しくてあまり構ってもらえないのをいいことに、油断しきった女性モノのボクサーパンツとブラを洗濯機へ。

 泊まる予定なので流石に替えは気を使う。


 肌のケアは怠らない。

 髪もドライヤーで乾かし、着替える。

 下着は気を使っているのにオーバーサイズのパーカーにショートパンツというラフな格好。

 タイツは標準装備。

 もっとも最近は脚の筋肉も落ちてきたから履かなくてもいいのだけれど、綺麗に見えるからそのまま愛用している。

 小さなリュックに包装された箱を仕舞い、もう一度だけ鏡を見てから自宅を出た。


 普段なら先輩の家まで電車で30分程度。

 今日はその3倍の時間が掛かった。

 道中にあるスーパーに寄って食材を買い込み、更に予約していた誕生日ケーキを受け取る。

 リュックに入っているプレゼントはオマケでこちらがメイン。

 年頃の男子としては物欲が少ない彼。

 初めて先輩の部屋に入った時のことを思い出す。

 ベッドに机、本棚とパソコン。衣服の入ったクローゼットだけ。

 良く言えば片付いていて綺麗。悪く言えば殺風景。


 趣味以外に関心がない。

 プレゼントも本当に悩んだ。

 何を上げても喜んでいるのはわかっていたが、だからこそ余計に。

 ケーキの入った小さな白い箱を持ち上げて、自分の左手を見る。

 このリングのお返しも兼ねているのだから変なものはあげたくないから真剣に考えた。


 先輩の自宅の扉。

 鍵が閉まったまま、まだどちらも帰ってきていない。

 合鍵を使い、中に入る。

 ほぼ一人暮らしみたいな彼を心配した父さんが鍵を預かり私に投げたもの。

 昔は勝手に入ることに抵抗はあったけれど、夏休みの間同棲をしたことで今は第二の自宅のような考えを持ってしまっている。


 冷蔵庫に買ってきたものを仕舞い、エプロンを着けて調理を開始した。

 内容は唐揚げなど彼の好む物。

 子供舌は健在。

 本当に美味しそうに食べる彼の表情を思い出すと自然と調理に身が入る。

 日が完全に落ちる頃には準備は万全。

 あとは帰ってくるのを待つだけ。

 文化祭で汗だくになった彼は身体を流したいと思うだろうからお風呂も沸かしている。

 私もこちらで入ればよかったかもしれない。


 スマホの充電が切れそうなことに気づいて、石鹸の匂いが漂う先輩の部屋へ。

 殺風景だった部屋も今では私の私物で埋まっている。

 思わずニヤける。

 征服欲を満たされたような気持ち。

 と言っても部屋だけで、彼本人はどこ吹く風。

 何を考えているのかイマイチわからないし、こちらが驚くようなことをやってのける。

 今日だってまさか一人でステージにあがるなんて思わなかった。

 あの横顔は目に焼き付いて離れない。


 気だるげでもありながら、どこか楽しそう。

 余裕の表情。

 誰かに認められたいなんては思ってなさそう。

 欲がないということは自己顕示欲も薄い。

 純粋な気持ちで人に向けて演奏するのが楽しみといった感じだった。

 私が持っていない感性。

 素直に憧れた。


 集中して周りが見えなくなるところも、努力家であるところも、自然と車道側に移動してくれる紳士さも、私の分かりづらい表情に気づいて誂ってくるところも、暖かいその手のひらも、一緒にいて安心するところも、何もかもに惚れてしまっている。

 一緒に長くいるからこそ見えてくる駄目なところさえも愛嬌がある。

 一つ直して欲しいところがあるとすれば、思ったことをすぐに口に出してしまうところ。もちろん良いところでもあるのだけれど、場所や人を選ばない。つまり私以外の女性にも言ってしまう。

 わかりきっていること、嫉妬。


 20時を過ぎた頃にようやく扉の音が聞こえた。

 出迎えるために玄関に歩いて向かうが、靴を揃えて置いている先輩の後ろ姿。



「おかえりなさい」

「ただいま」



 彼の手には小さな黒い箱。

 振り返ってこちらに向いた顔は、初めて見るだらしない笑顔。



「何かいい事でもありましたか?」

「ちょっと下で父さんに会ってね。約束していたプレゼント貰ってきた」



 顔を崩して満面の笑み。

 果たして私のプレゼントでもこんなに喜んでくれるだろうか。



「あれ、もう帰ってきたんですか?」



 飲みに行くと言っていたけれど。

 そのためお義父さん用の料理は用意していない。



「今、春人さんたちと待ち合わせしているみたいだよ」

「そうなんですか」

「ちょっと部屋に飾ってくるね」

「はい。お風呂も沸いているのでよければ」

「ありがとう。助かるよ」



 ※



「ごちそうさま」

「はい」

「美味しかったよ、また腕上げた?」

「最近は直接父さんに指導を受けていますので」

「なるほどね。春人さんに追いつくのもすぐって感じだね」



 どうだろうか。

 さすがに経験の差もあり、長年努力していた父の背はまだ遠く感じる。

 それに父さんの自宅での味付けは母さんが好むもので、その味で育ってきた私もいくら努力しようとも追い抜ける気がしない。

 でも、もう少し違う道を行く。



「私の味付けに不満とかないですか?」

「全然? 全部美味しいけど」

「こういう味のほうがいいなーとか」

「全く」



 確かに綺麗に平らげている。

 彼の好みのものばかり用意したのもあるだろう。



「自炊してもさ、夏菜の味のほうが美味いし。自炊する前は惣菜やコンビニ弁当だったからなぁ。特に拘りがないんだよね」

「なるほど」



 先輩の生い立ちを考えると頷ける。

 ちょこちょこ味付けを変えてどちらが良かったのか聞くのがいいかもしれない。

 彼が立ち上がり食器を片付け始める。



「あ、今日は私が」

「こんくらいはさせて。本当に感謝してるからさ」



 そう言われれば口を噤むしかない。

 疲れているだろうにこの気遣い。本人は深く考えていないだろうけれど、それだけで私の心はくすぐられる。

 今日までの恋愛という勝負。

 内容は引き分けになったけれど、日頃からこうやって彼に翻弄されているのだから負け続けていると感じている。

 こちらを振り向かせることに成功したけれど、これはまだスタートにすぎない。

 彼のせいで私も負けず嫌いになったから。

 このまま引き下がるわけにはいかない。

 トラウマを抱えているけれど、それを持ってしても手を出してくれるよう自分を磨く。

 食器を洗う彼の横顔にそう誓いを立てる。



「夏菜」

「はい?」

「これからもよろしくね」

「……はい」

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