新生活④
明日始業式となる夏菜を実家に送り届け、そのまま今夜はお世話になることになった。
すっかり様変わりした見慣れない夏菜の部屋。
僕の私物がなくなったことで、部屋の比重が大きく変わってしまった。
手持ち無沙汰になり、夏菜の机に置いていた大きめの封筒を手に取って中から数枚のプリントを取り出す。
今日あったオリエンテーションの内容。
必修科目と選択科目。
来週から始まるのは必修だけで、選択科目を決める期限はまだある。暫くの間は体験的に選択科目の講義を受けることが出来るらしい。
明日なんて大学はサークル勧誘合戦ばかりで行く必要がなかった。
なので夕方からバイト入り、レジ打ち後に仕込みだけを手伝うことになっている。隙があれば勿論厨房に入り今泉さんの腕を盗む。
やれることが増えると楽しくなってくるんだよな。
早く明日にならないかなって。
夏菜の家に一時的な里帰りのようなものをしているとてもメモは手元にあり、時間がある時に何度も読み返してはイメトレを繰り返している。
そろそろこの作業も効率が悪いとは思うが、それ以外にやれることが少ない。
「大学楽しそうですか?」
ベッドを背もたれにしている僕に対して、夏菜はベッドに寝転びながら覗き込んでくる。
「どうだろう。僕にとっては来年からが大学本番って感じだし」
そもそもまだ始まってすらいない。
「サークルとかあるじゃないですか」
「興味ないしなぁ……、一度どっかのタイミングで見てみるのもありだとは思うけれど」
今日もオリエンテーションを受けた講義室を後にして、少し離れた廊下からサークルの勧誘は始まっていた。
うちらの高校も似たような歓迎会があったけれど、やはり本場とも言える大学の規模は大きく、大げさに言ってしまうと一歩歩くごとに勧誘を受けてしまい校内を抜け出すのにも一苦労だった。
来年の夏菜の入学に合わせて一緒に見て回るのがいいかもしれないと算段をつける。
「テニスサークルだけは絶対駄目です」
「すっごい偏見だけれど言ってることが簡単にわかるって凄いことだよね」
僕もそんなイメージもっちゃってるし。
でも実態は知らない。飲み会ばかりのサークルは結果として所謂ヤリサー言われるものが出てきて、大っぴらに言えないから隠れ蓑として遊びメインのサークルがこうなってしまうのだろうとは考えられるが。
「テニスのイメージが悪くなるのだけは可哀想」
「ちゃんとしたサークルはあるだろうけれど」
誰が言い出したのか誰がやらかしたのかは知らないがかなり不名誉。
こうやって妙な偏見が積み重なり、それが真実だと思い込む人が増えるのだから不誠実は割と罪だと思う。真面目にやっている人間にも迷惑というもの。頑張ってる人や真面目な人が嫌な思いをするそんな社会は嫌いだ。
「私たちはスポーツしたくなったらお互いで出来ますし、あんまり関係なさそうですね」
「まぁーね」
どうせ僕が負けるんだろうけど。
完全初見のスポーツやらゲームでも上達スピードが段違い。
だからと言って逃げるのだけは嫌だ。
「あ、そうだ、先輩。暇な時間ありますか?」
「今」
「私との会話が暇というわけですか」
「今日被害妄想ひどくない?」
「麗奈と話した所為ですかね」
「……何話したんだよ」
大丈夫? 虐められてない? 恋人として恋人じゃなくても人として心配になる。
「麗奈に気になる人が出来たらしくて、そのダブルデートをしないかって誘われたんです」
「いいよ」
「あの、無理だったら……。即答ですか」
大学が自分でスケジュール管理出来るということもあり、バイト7割大学3割の計算だった。週一日ぐらいは空けて問題ないだろうし。
どの道夏菜と会うために空けるつもり。
焦って大事なものを見失いたくはないよね。
夏菜と過ごす一日はその中でも大切なモノ。
「ゴールデンウィークがすぐだからそこで一日空けるよ。それで大丈夫かな?」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「んふ」
夏菜の笑いにつられて僕も幸せ気分に浸る。
あぁ、やばいなぁー。
日に日に好きになる。
夏菜の放り出された手に視線が吸い寄せられる。
対面から手を伸ばして恋人繋ぎ。
何も言わない。
この気持ちが伝わるといいな、とだけ。
そんな気持ちを汲み取ったのか彼女の握力が増す。
また見詰め合った微笑み合う。
そうしていたのもつかの間。夏菜のスマホが光る。
「麗奈ですね」
「うん?」
僕は手を離そうとするが彼女は強く握ったままで、僕の元へと移動して対面のまま膝に座り込む。冬乃さんもそうだったけれど、この親子は何かあるとこうして相手の膝に座るのが好きなんだろうと、血は争えないのかもしれない。
「この娘、結構せっかちだから」
「さっきの話か」
「はい」
「麗奈ちゃんの想い人ってどんな感じなの?」
「さぁ」
「夏菜も知らないんだ」
前に麗奈ちゃんが気になった人が出来たと夏休み前に聞いていた。それがどうなったのかと言うと、麗奈ちゃんが純粋に友達に紹介したいだけだったのに悲劇が起きた。その人は夏菜に気が移ってしまったという簡単な話。
責任を夏菜に押し付けようとさえする、とんだクソ野郎。
気分悪い話ではある。
僕は事後報告だけ聞かされたのに、これだけもやっとした気分にさせられるのだ。
当人たちはきっと暗い感情に苛まれたのは想像に難くない。
「どこ行くか決まってる?」
「いえ、まだです。要望出せますがどこがいいですか?」
「水族館とか行きたいかも」
ゴールデンウィークの時期にもなると昼間は暑い。室内でゆっくり出来る場所として水族館はわりとお気に入りで、時間さえあれば僕も一人で行ったりもしていた。その他として美術館も好きだけれど、夏菜も含めて美術館を好む女子というのは少ない。麗奈ちゃんたちと行くのであれば水族館のほうがいいだろう。
「魚嫌いなくせによく言いますね」
「食べるのはね、見るのは好きだよ」
どうみても食べられなさそうな魚一杯いるし、なんなら僕はクラゲが浮かんでいるコーナーが一番好きだったりも。
「わがままですね」
「どの口がそれを言うのか」
「この口です」
悪戯に人差し指で示す。
言わんとしてることもわかる。
次に繋がることもわかってしまうから。
「あう」
デコピンをお見舞いしておいた。
「明日から学校だろう? 早起きになるんだからそろそろ寝ておこうよ」
「大丈夫ですよ。先輩が起こしてくれますよね」
「まぁいいけどね」
パチンっとスイッチを切ると真っ暗な闇の中。
窓から入り込む光がまるで道のように伸びていく。
ツキアカリのミチシルベ。
楽器がないから鼻歌だけ。
サブスクリプションのアプリで音楽は大量にそしてかなり身近になった。音楽は僕にとっての道標だったりもする。
気分を切り替えるためのスイッチだったり。
静かな一人しかいない寂しさを紛らわせるために音に委ねる。
絵本を読むように音楽が僕のそれ。
僕が僕を嫌いにならずに、少しだけ好きになれたり。
最近は歌詞に連想するように思い出もあったりなんてね。
目をつぶると隣にある息が大きく聞こえる。
寝る前のこの静かな時間が好きだ。
あの日の遠い記憶。
というにはまだまだ始まったばかり。
夢や理想はある気持ちばかりが先をって今の僕にも言える。
「気になって眠れないんですが」
「ごめーん」
「タイトル教えてください」
「うるさくて眠れないってわけじゃなかったのね」
「先輩の歌声は良いと思ってますから」
「そっか」
枕元にあるスマホでアプリを開き検索して夏菜に渡す。そして流れるサウンドと悲しげで力強い歌声。歌詞に耳を傾ける。
僕が知ったのは解散後暫く経った後。
ランダム再生でたまたま流れてきた時だ。
その時の記憶と音が入り混じり、過去の情景が思い浮かんだりする。
匂いまで思い出せそうだ。
音とは不思議で眠っている時も聞こえていたり、人が死ぬ際最後まで聞こえていたりするものらしい。
車の免許の講習の一つに人命救助を行う。意識を失った人にもポジティブな言葉を掛け続けるように教えられた。それはやはり音が重要なようで科学的な根拠はないものの、マイナスな言葉を掛けるよりも助かる確率が高いらしい。
そして……。
人を忘れてしまう時も声から忘れていく。
たった数ヶ月、実の父親の声すら思い出せないでいる。
でも、今流れている音楽。
きっかけになる物がある。
その時はちょうど高校受験で図書室で過去問を開いていた。
正面に映るのは落ちていくような茜に揺らめくクリーム色のカーテン。伸びる二つ黒が机に長く伸びている。
行儀悪いながらも机に座り揺れる夏菜の脚。
袖から見え隠れする白い腕時計。
今とは違い少し太めで筋肉質な太もも。
たしかこのタイミングで彼女はストッキングを履き始めていたっけな。
鮮明に思い出せる過去の記憶。
ただの日常だって思い出になる不思議な鑑賞。
今は簡単に手を伸ばせば触れられる。
後頭部に顔を寄せるとあの日と変わらない、清潔感があり甘く艶っぽいバニラムスクの香り。
変わらない安心する匂いに気付けば意識を手放しつつある。
彼女の透き通る小さな歌声が最後まで聞こえていた。
明日からは別々の生活。
このひと時をより大事にしようと眠りの縁でそう思った。
※
鳴り響くアラームの音に起こされる、いつも通りの朝。
とはいかず、広いベッドに慣れてしまったせいか寝返りをまともにうてず夏菜に押しつぶされているだけで起きたら身体が固まって痛い。
春人さん直伝の起こし方で無理やり彼女を起こして準備をさせる。
せっかく実家にいるのだからと彼女を学校まで送り届けることにした。名残おしく離れていく夏菜に手を振って踵を返し坂道を下る。桜は散っても春の陽気というのは気持ちいいもので良い散歩になったと思う。
このまま真っ直ぐ一人暮らししているアパートまで戻り、空いた時間でスポンジケーキを焼き始めた。春人さんの誕生日も近いし、調理をすることになって贈れる物の選択肢も増えたことは喜ばしい。調理が出来るように、と言えないあたりは自分の実力をそう評価しているからだ。
今作っているのは練習用であり、プレゼントに贈るのはもう少し自分が仕上がってからだ。
バイトに行くまでの間、多少材料を無駄にしてもでも熟練度を上げていく。
バスケにもドリブルとパス、シュートという基本があるようにスポンジ生地を作るのだって大事なことがある。
例外もいるけどね。
ってあの子の場合、パスという選択肢がない。
温度だったりどのくらい泡立てるのか、逆に混ぜすぎて泡を潰してしまわないように。
何より大事なのが適切な量を守っているか。
教わった手順を頭のメモから引き出して生地を作り、温めておいたオーブンに入れて焼き始める。焼き上がりを待ち、粗熱を取っては半日以上を寝かせる。
するとちょうどバイトの時間になり、家に戻ってくる頃には出来上がっている。
仕上がりを楽しみにしながら準備を家を飛び出していく。




