卒業 1
「はい、これで完成です」
目の前で満足げに胸を張る彼女を見下ろす。
本日、卒業式。
ただ身なりを整えて登校するだけ、のつもりが珍しく先に起きていた夏菜に優しく起こされ着替えを手伝ってもらうことになった。
いつもはパーカーの上に羽織っていたブレザーは、綺麗にアイロンがけされてワイシャツに袖を通してから着ることに。
夏菜の制服を掛けているハンガーから僕が使わないからと、彼女が使っていたネクタイを取り出し、最後に彼女が僕の首に結んで着替えは完了。
「ちょっとやってみたかったんですよね」
「ネクタイつけるのを?」
「なんだか嫁っぽくないですか」
「よく見る朝の一コマだね」
「はい」
テンプレ的な仲の良い夫婦の日常みたいなイメージ。
実際にみたことはないしやっている人がいるとは思わないが、こういう王道的なイメージは誰もが思い浮かべることはある。
微笑ましいよね。
「何?」
完成と言ったものの僕の正面でずっと佇む。
上目遣いで僕を見上げて何かを待っているような。
「完成とは言いましたが完璧とは言ってません」
「寝癖?」
「いえ、寝癖はついてないですよ」
ちなみに彼女の髪は凄いことになっている。
どう寝たらそうなるのか不思議なほど。
ふわっとした手触りの良い髪質だからそうなるのか、寝相が悪いからこうなるのか。
多分、どっちも。
「仕上げが残っています」
「なんだろう」
久しぶりにしっかりと制服を着ている。
自分自身見慣れないというのもあるが、おかしなところはなくきっちりとしていると思う。
「わからないですか?」
「うん、ごめん」
「はい、反省してください。今日の先輩は鈍くてダメダメですね」
「それで答えは?」
「ここですよ」
目を瞑り指で唇を指し示す。
僕がしやすいようにと顔を上げてくれている。
背伸びをして準備万端。
「いってらっしゃいってやつね」
「そうです。……良いから早くしてくださいよ、この体勢結構きついんですよ」
「……うん」
爆発している彼女の寝癖を手ぐしで直し、腰ではなくお尻から持ち上げるように彼女を支える。
慣れた手付きで瞼を閉じ、彼女を導いていく。
「……んっ……んむ……っ」
夏菜が小さく喘ぐ。
「これで完璧?」
「……なんで舌まで入れてくるんですかね? 軽いキスのつもりだったんですが。私のイメージしていたものと違います」
「あ、ごめん。つい癖で」
「私がその気になったらどうするつもりだったんですか」
「朝からお盛んだね」
からかってみると背中の肉をつねられてしまった。
脂肪が無い分かなり痛い。
「いいんですよ、私は暫くしなくても」
「僕も大丈夫だけど」
「む」
膨れてしまった。
頬を突いて空気を抜いてあげながら、こちら折れることにする。
譲れないことならとことん話し合いをするが、こういうことならどちらかが簡単に折れる。
いや、僕の方がすぐ謝るな。
この子結構頑固。
謝罪すると簡単に受けいれて「それでいいんですよ」と、言葉を残して抱き合ったままの状態を解除。
「でもこういう朝の触れ合いって玄関先でやるイメージがあるんだけれど」
「……それはまだ下に父さんたちがいるからですよ」
「あ……、流石に恥ずかしいよね」
「いえ、それは全然。あの人たち対抗してくるので面倒なだけです」
言われてみるとありありとその光景が思い浮かぶ。
というか、親の前でやるのは恥ずかしくないのか。
僕は恥ずかしい。
「じゃあ本番は来年に取っておくか」
「朝から濃厚な奴をですか?」
「僕は今からでもやっていいんだぞ、卒業式遅れるだけだから」
「ごめんなさい、無理です。すみません、私のほうがヘトヘトになるのがわかってますから」
「今日バイトだもんな」
「先輩の卒業式ですから休み入れるつもりだったんですが、父さんがどうしてもというので」
申し訳無さそうに視線を床に向ける。
顔には出ないが仕草で本気で謝罪しているのがわかるので、彼女の頭に手を乗せて軽く撫でながら、気にしなくていいよと伝える。
「すみません」
けれど申し訳無さが勝っているようでもう一度謝罪が返ってくる。
気持ちを伝えるのは難しい。
言葉で行動で示しても伝わらないことなんてよくある。
「夏菜」
「はい」
だから伝わるまで繰り返す。
呼ぶことでこちら見上げる瞬間を狙い口づけ。
ただ唇を重ねるだけですぐに離して言葉を投げかける。
「本当に気にしなくていいから」
「でも――」
「まだ謝るならまた口を塞ぐぞ」
「んふっ、キザなことしますね」
「そっかな」
「そうですよ。でも、ありがとうございます」
「朝食の準備してくれてるだろうし下いこっか」
「はい」
僕が階段に一歩脚を下ろした瞬間、夏菜が思い出すように「あ」と声を上げた。
「どうした?」
「何度も謝ればキスできたのでは」
「馬鹿言ってないで行くぞー」
「ん」
小さく笑いながら頷く声が後ろから聞こえた。
※
夏菜に見送られ高校最後の通学路。
もはや一人で歩くことがなくなって久しい。
寂しいという気持ちも抱きながらも、今はどこか懐かしい。
隣に夏菜がいないのは一年と半年ぐらいだろうか。
二年に上って夏菜と再会……バイトではいつも一緒だったけれど、それでも僕は一人暮らしみたいな物を続けていて家は離れていた。
時たまこの坂道を一緒に登っていたけれど、付き合うまでは夏菜が駅で待っていてくれたりもしたっけな。
思い出は記憶に残ると思っていたが、場所にも残っているんだと思う。
場所だけではなく物や音にも宿る。
そう考えると僕の腕にある時計も指輪もネックレスも彼女の幻影が存在する。
一人だけれど一人じゃないみたいな。
でもやっぱり本物がいいよね。
保護者が参加しやすいようにと卒業式は日曜日。
もし平日だったのであれば夏菜と最後もこの道を進めたのだろう。
「言っててもしかたないか」
卒業生しかいない坂道を登る。
高校生にもなると保護者は一緒に来ないのかもしれない。
ま、確かに式は10時からで暇だろう。
駐車場は学校の敷地内ではなく別の場所を指定されており、そこから徒歩になっている。
わざわざ一緒に登校してくるほうが面倒。
僕もさっさと教室に向かうとしよう。
教室にたどり着いてから思ったのだけれど、夏菜と登校している時間で家を出てきたものだから教室には数人ほどしかおらず、朝のホームルームまで一時間程度の空きが出来てしまった。
それに夏菜の歩幅で歩いていたものだから、自分のペースで歩いてきたわけで余計に時間が余ってしまう。
司も当然まだ到着してないようで中庭に一人脚を向けた。
流石に朝からいないだろうと思っていたが、真っ白な愛くるしい小動物はいつものベンチで気持ちよさそうに眠っている。
僕が近づいても警戒する様子もなく眠ったまま。
人懐っこい上にいつ見ても綺麗な毛並みだし人に飼われているんだろうけど。
「君はいったいどこのお猫さまだったんだろうね?」
話しかけるも欠伸一つを返されるだけで、ちらりとこちらを見ることもない。
それどころか暖かい座布団が来たとでも思ったのか、隣に座るとすぐさま膝に飛び乗ってくるとうたた寝を再開。
まったく自由気まま、猫らしいや。
まだ少しひんやりとした朝。
中庭には風が届かず、太陽もまだ省エネ。
膝に乗っている暖かさを撫でながら僕もまた欠伸をしてしまう。
今眠ってしまったら起こしてくれる人がおらず遅刻が確定してしまう。
ほら、こんな場所にも彼女との思い出。
シロと眠る僕の隣でただただ見守る夏菜の姿。
時にはあきれた様子で。
撫でながら追憶していると、どうせなら夏菜と過ごした場所を最後に回ってみるのもいいかもしれないと思いつく。
過去を振り返っても碌な記憶なんてありもしなかった僕にも、今では虹色にも輝く素敵な記憶たち。
宝物と呼べる物たち。
シロのお尻を叩くとびっくりした様子で膝から降りてくれる。
「シロと夏菜仲が悪いみたいだけど仲良くしてくれよ」
僕を挟んで居る時は問題ないのだけれど、シロの隣に夏菜が座ろうとすると威嚇してくる。
のんびりと穏やかな気性なのに、どうしてか彼女だけには敵意むき出し。
最初は匂いのせいなのかなって思ったりもしたが、どうやら違うようで夏菜は動物に嫌われやすいという性質があった。
本人はまったく気にしておらず……、僕の膝を占領するシロに対して不満げではあったっけな。
さてと。
思い出の場所と言っても、僕たちの行動範囲は狭い。
三年間在籍していたこの学校の施設、一度も脚を踏み入れたことのない場所はそれなりに。
この中庭の近くにある学食。
今日は残念ながら休日ということもあって閉まっている。
僕と夏菜、司に雅先輩。たまに麗奈ちゃんが混じり雑談を交わしていた。
それぞれの恋愛観なんて今思うと小っ恥ずかしいことも含めて。
僕の偏食もあり色々と怒られた場所でもある。
今では感謝するしかないね。
お陰で舌も肥えた。
学食は入ることが出来ないので次に行くべき場所はというとやはり部室だろうか。
部室棟なので距離が離れているが、教室以外で一番長く過ごした場所というとここしかない。
「……あ、鍵」
ブレザーの内ポケットを弄っても何も出てこず、鍵は絵梨花ちゃんに譲渡しているから入れる訳がない。
どこにも入れないじゃん。
一年は雅先輩と過ごし、二年は夏菜と過ごし、三年は絵梨花ちゃんと多く過ごした。こんなことを思うと女性を取っ換え引っ換えしているようでクソみたいな男みたいだ。勿論そんな男になる下がるつもりない。
言葉は正しく使わないと語弊を生むね。
しかし、三年の時は絵梨花ちゃんと二人きりになる瞬間というのは少なく、基本的に夏菜が威嚇していた。二人でいちゃつきすぎて絵梨花ちゃんに苦言を呈されたこともあった。
各々が自由に休んだり、楽器を弄ったり、ご飯を食べたりと好きなことを出来る僕らの秘密基地。
部室の扉に手を当てて目をつぶり、少し撫でてからその場を去った。
廊下を抜ける風が少しずつ暖かくなっていた。
次に訪れたのは屋上。
春という季節柄、屋上は色とりどり鮮やかで朝露に濡れて光り輝く。
夏菜が入学してきた頃に訪れた花と同じ物が植えられていることに気付いた。まだ完全に咲き誇る時期ではなくいくつかは蕾のままで、次に訪れる僕らのような人間を待ってくれているかもしれない。なんてね。
僕らの特等席にもなっているベンチ。
朝早いためまだパラソルは閉じられている。今日は開く予定はないのかもしれない。
ベンチに横になり空を見上げる。
夏菜の膝が恋しいが、むしろセンチメンタルになっている今の自分を見せるつもりもない。これは本当に恥ずかしいだけで心配されそうでもある。
これは無意味な妄想。
彼女も言っていたけれど同じ学年だったのであればもっと校内で思い出も出来たはず。
文化祭も一緒に巡ったりはした。
けれど一緒に同じ出し物を出したりなんて出来たらきっと楽しかっただろうと。
校内が騒がしくなり、そろそろ司も来ている頃。
もう一度時計を眺めて立ち上がる。
最後に屋上から見える景色、梅の花が風を受けて坂道を下り、透き通った空気に街は活気づいていく。下る花びらとは反対に学生たちは話に花を咲かせて登ってくる。
クリーム色のブレザーは男子生徒であり、その隣には白と淡い水色のセーラー服。
恋人だろうか。
制服を着崩している者はおらず、皆きちんと正しく制服を着こなしている。
今日もパーカーにブレザーを羽織る予定だったが、これは夏菜に感謝だな。
式で浮いてしまうところだった。
視線を更に下ろしていく。
今は何もない校庭。
期間限定でテントが張られステージが作られていた。
これも大事な思い出の一つだが、こればかりは心の中でしか再生し得ない。
目を瞑ればあの時の夏菜の吐息、温もり、触れ合った感触はまだこの身体に残っている。
ぎゅっと手を握り締め冷たさを残して屋上を後にした。
※
「呆気なかったな」
「そうだね」
司が言う通り卒業式は呆気なく終わってしまった。
リハーサルのときはやたら長いなーって感じていたものの、本番はあっさりと気付けば終わっていた。
クラスと出席番号順に証書を受け取り席に戻るだけ。
国歌斉唱と校歌を最後に保護者や教師、生徒会に所属している在校生たちにも見送られながら体育館から退場。
校長の長いセリフや生徒会長の話もあった気がするが内容は一切覚えていない。
さらには県知事のメッセージの読み上げとか、聞いてすらいなかった。
時間が経つにつれて感受性の高い、特に女子生徒に多く見られ、涙を流し声にならない声で歌い上げていた。
釣られて教師も涙を堪えるように僕らを見守っていたように思う。
そう思うと教師たちが一番出会いと別れを繰り返しているような気もする。
残念ながら僕は思い入れがない訳だけれど。
僕と司は一年の頃は結構問題児扱いされたっけね。
その時にお世話になった教師は二年に上がる頃にはいなくなってしまった。
なんとなくもう一度会ってみたい気もする。
そして今は最後のホームルームを待っているところ。
僕と司は暇を持て余し、春の風に晒されながら窓枠にもたれかかるように駄弁る。
「そう言えば雅先輩来てたね」
なんなら子供を抱いて保護者席に座っていた。
学生時代とは違った落ち着いた雰囲気で大人混じっても違和感が一切ないからこそ、彼女ももう大人なのだろう。
「あぁ、そう言えばオムツありがとな」
「うん。半年以上も前の話だ」
祝った記憶もあるし赤ちゃんに触れて感動したのを覚えているが、何かをしてあげた記憶が一切なかった。
「ぶっちゃけすげぇ助かった。あんだけ部屋にあったのもほとんど使うとは思わなかったよ」
「やっぱり子供ってお金掛かるんだね」
「すぐ大きくなるし、服とかもすぐに買い替えになるってさ」
「へぇ」
「お前らはどうなん?」
「僕らは当分先じゃないかな」
いつかはと思う。
でも今じゃないのは確かだ。
「もしかしてレス?」
「なんでそんなことになるんだよ」
男同士だから別に構わないが。
でも教室には女子もいる。
というか卒業式にこんな話をするとは思わなかった。
しかし司が言うと夫婦的なニュアンスを感じる。
お前の家庭どんな? みたいな。
僕には早いな。
「週一は少なくともしてる」
「その言い方だともっとしてるだろ」
「同じベッドに寝てるんだからそういうこともあるということだけ」
あの子、無防備なんだもん。
誘っても来るし。
拒めないよ。
「ふ~ん」
なんとも腹立つ表情を見せてくれる。
目を細めて唇が歪み、片眉だけつり上がっている。
「そっちは子供産まれてからどうなのさ」
「流石にできねぇーよ。子供いつ起きてくるかわからないし深夜に泣くことだってあるしよー。雅の家だからさ、自分で処理するのも流石に」
「ふ~ん」
若い男子には結構重要な問題かもしれない。
「そういえば、渉は一人暮らしするんだよな」
「やめろよ。絶対にやめろ」
「冗談だって」
冗談に聞こえないから怖い。
「司たちは実家から通うの? 結構距離あるよね」
「いや。言ってなかったっけ、二人で暮らすことになってる。お義母さんが暫く一緒だけどな」
「子供も小さいしね」
「お義母さんが無理な時はうちのお袋が来てくれることになってる。親の存在って煩わしいって思うこともあったけど、こういう困った時に無条件で助けてくれるってありがたいし凄さを感じるよ」
「それに気付ける時点で凄いことだと僕は思うけどな」
僕の場合は比較対象になりえないけれど、それでも夏菜の両親に助けられて実感しているし、いつか子供が出来たのであれば彼らを目指したいと本気で思っている。
本来なら自分の親で感じなければならないことを、市ノ瀬一家を通して学ばせてもらった。
運がいいな僕は。
「そうか?」
「そうだよ。親の凄さに気づいた時が大人になる一歩かもね」
「なるほどな、お前の話いつも話半分に聞いてたけど、ちゃんとしたこと言ってたんだな」
「考えずに思ったこと言ってるから、どうかな?」
思い返すとしょうもないこと言ってる時もある。
夏菜はこんな話にもちゃんと付き合って考えて答えてくれたりもするけれど。
身体の向きを変え、窓枠に肘をつく。
高い空に三分咲きの桜。
新入生が入ってくる頃には散り始めか葉桜か。
ちょうど夏菜の終業式あたりには満開になって見応えがありそうだ。
梅の花は見事で僕らを見送る準備が出来ている。
「そういえば市ノ瀬ちゃんは?」
「バイトだって」
「意外だないつも渉の隣にいるから」
「結構各々好きなことやってるけどね」
生徒会以外の在校生は自由参加。
卒業式の在校生の席はそれなりに埋まっていた。
それに僕と夏菜は意識して隣にいるというよりは、どっちかの手が空いていれば自然と隣にいることが多い。
夏菜はすぐに片付けてしまうから、彼女が傍にいるのは必然的にそうなる。
秘密裏に練習したくても出来ないという欠点があったりも。
正々堂々と戦うつもりではあるが、ちょっとした仕掛けはしている。
バレてそうだけどなぁ……。
基礎的なところは何度も繰り返して春人さんにも合格をもらっているレベルには達している。
が、本当に基礎中の基礎。
本職についていくため、新しいバイト先に入って足手まといにならないための練習。
材料を無駄にしたのも数知れず。
要領が悪く何度も同じことを繰り返さないと身体が覚えない僕の財布にもダメージを負った。
正直、悠長なことをしていると思う。
時間は限られているし、望むものは高い。
春人さんから合格点をもらっても僕は認められず。
僕は僕の最も厳しい評論家。
勿論焦る気持ちはある。
だが一人で出来ることも限られていて、今はじっと堪えて準備だけをする。
一人になってからが本番だ。
僕らの会話はチャイムが鳴り響くまで続き、担任が到着するとすぐに散った。




