空白独白
「ただいま」
自分の家でこう言うのはいつぶりだろうか。
父さんも2ヶ月は帰ってこれなかったな。
ただ相手は2ヶ月どころの話ではない。
聞こえているどうかはさておき、リビングには人の気配。
テレビの音がうっすらと漏れ聞こえる。
真っ直ぐリビングには向かわず、マフラーとコートを脱ぎながら一度自室に戻りコートはベッドの上に放り投げて、マフラーは丁寧に畳み夏菜の着替えてが置いてある棚の上にそっと置く。
カシミアのマフラーをそっと撫でて、机の引き出しからお揃いのリングを取り出して右手の人差し指にはめる。
ちょっとした決意表明。
今はただのハリボテ。
それでいい。
リビングに顔を出すとソファから振り返る女の顔。
「えっと……」
なんと呼ぶのが正しいのだろうか。
産みの親だけれど母さんと呼ぶのはなんか違う。
今の名前はたしか、村川ゆな。
「村川さん」
下の名前で呼ぶほど親しくもない。
名字も違うのだからおかしくもない。
「……お母さんとは呼んでくれないのね」
「そりゃそうだよ。母親とは思ってないから」
「そう」
僕にとっては当たり前のことに相手は目を見開き引きつった笑みを見せた。
「むしろ母親だと思われてるって思ってた?」
「少しは……そうだったら嬉しいなって」
相手を知る前に知ってもらう。
少し強めの言葉を使っている自覚はあるが、どうせこの人には行き場がない。
今の僕はこう思っていると強く主張する。
でなければ最初にあったようにのらりくらりと躱されそうだからだ。
「そんなわけないよね。裏切られた人間はそう容易く許すわけがない」
小さな嘘でさえ、次に正しいことを言ったとしても信じるは難しくなる。
「……」
「貴女も裏切られたんだから、その気持ちはわかるだろ」
「……そ、そうね」
お互いの立場を理解してもらえたところでようやく建設的な会話が出来ると思った。
椅子を持ち出して対面に座る。
これから話すという意思表示。
「ごめん、なさい……」
今更謝られたところでと思うものの、ここで子供みたいに感情のまま罵詈雑言を浴びせても意味がない。
ただ受け入れて次の言葉を待つ。
もちろん許したわけじゃない。
どうでもいいと思える人だけれど知らないところにいるのであれば問題ないが、今は目の前にいるのだ。
「で、結局何がしたかったの?」
「関係をやりなしたいと」
「都合が良くないかなそれって」
「どうしてそこまで言われなきゃいけないの。やったことは悪いと思ってるけど、でも許されたっていいじゃない。かなり昔のことよ」
ため息が出る。
確かに昔のこと。
でも罪が消えることなんてない。
自分の通ってきた道。
その足跡が確かに残っている。
「わたしだって幸せになりたいもの」
「今まで幸せだったんじゃないの、好き勝手やってさ」
「気付くまでは」
相手も相手で疲れたようにため息を吐く。
虚空を見つめて過去を思い出すように。
「最悪の相手だったのよ」
そりゃそうだ。
それこそ最初から分かっているだろうに。
子供を前に見せびらかせるようにして優越感を得るような頭のおかしな人間。
「再婚してからはお互いに仕事ばかりで時間だけが過ぎた。家族と呼ばれる関係ですらなかった、ただ一緒にいるだけ。同居と変わらない」
「ふーん」
「わたしも子供だったのよ。仁さんと付き合って結婚して、でも仁さんは仕事ばかりで寂しい気持ちもあったし、彼しか知らなかったから浮気相手にときめきを覚えてしまった。こんなにも楽しいことがあるんだって」
「あんなことが」
「あれは……。あーしないともうしてくれないって言うから、関係を終わらせるって言うから。今思い返せば最悪なことをしたって思うよ。でも――」
「もういいよ。それは、今更過ぎるし」
「そ、そうね。ごめんなさい」
喉が渇く。
飲み物を用意せずに話しを続けていた。
一応は客人として相手の分のコーヒーを淹れた。
「ありがとう」
コーヒーを一口。
驚いたような顔の後、すぐにほっとしたような顔に変わる。
「おいし」
溢れるように感想を口に。
どんな相手でも本音の感想を聞けたのは素直に嬉しい。
「うん。それで本当はどうしてこっちに?」
以前にもした質問を繰り返す。
今ならもっとまともな答えを期待して。
「どっから話した方がいい?」
「最初からかな。時間はあるし」
そのつもり話しを始めた。
「夕飯はどうする? 何かデリバリーでも頼む?」
「それなら大丈夫」
タイミングよくチャイムの音。
普段なら合鍵で入ってくるのだけれど今回は人がいる。
夏菜にこの人と話すことを決めて教えておいたのだけれど、彼女から逆にお願いされて夕飯を作りに来てくれた。
話しに専念するためと、会話の内容が気になったようだ。
トラウマの原因でもある人間と向き合うのだから、場合によっては夏菜との先を望めるかもしれない、と思っている。
自宅で一度着替えて買い物を済ませてからこっちに来た。
最初から一緒に来てもよかったのだけれど、話しを優先してほしいとのこと。
コートは昨日から引き続き同じ。
ただ中は彼女には珍しく落ち着いた色合いのフェミニンな装いだった。
「遅くなりました」
「ごめんね。こっちこそ気を使わせて」
「私にそんなの不要ですよ」
「うん、ありがとう」
「それじゃキッチンお借りしますね」
夏菜は会釈だけで挨拶を交わし慣れた手付きでキッチンを支配する。
エプロンに調理器具、調味料から食器まで。
もう僕よりもこの家のキッチンには詳しいのではないかと思う。
半年以上前と比べたら色付いたものだ。
「彼女?」
「そうだけど」
「そうよね。そういう歳だものね」
寂しそうであり嬉しそうな表情。
まるで冬乃さんが夏菜を見ているときのような。
そういう顔をしていい人ではないとは思うがどう思うかは勝手。
今求めるは罪の意識があるかではなく、この人が今どう考えて行動しているのか何をしたいのか。
本来の気質を知りたい。
「で? どうしてこっちに」
横目で夏菜を見た。
「彼女なら事情を知ってるから」
「……」
「今はもう忘れられてるけれど、実際はこの辺りでは有名な話しだし」
何故有名になったのか。
小学校で堂々と僕が言ってしまったからだ。
勘違いを真実だと思って。
「その……。この家を出てから同棲して」
何も言わない。
次の言葉を待つ。
キッチンで夏菜の調理する音だけが部屋に響く。
家庭の音。
この家になかったもの。
「相手の稼ぎだけでは暮らせなくて働き始めた」
「で、それが辛くなって出てきたってわけじゃないよね?」
流石にその通りなら呆れて物を言えない。
専業主婦とは名ばかりの爛れた生活を送っていたわけだし、そう疑われても仕方ないと理解はしてほしい。
「そこまでは……。本当に好きな人が出来たと思ったし、一緒に暮らせるならって」
少しだけ安心した。
思ったよりはまともだった。
それがどこまでなのか見定める。
「1年ぐらいかな? 浮気されたのは。でもその前からすでに夢から覚めて、浮気されたことで完全に目を覚ました。なんでこんな人のために尽くさなければいけないのって」
「遅すぎない?」
「馬鹿だったと思う」
「どっちに対して?」
「もちろん自分に対して、一時の感情に突き動かされて周りを見えてなかった。本当に自分が子供すぎたのだと思うの」
よくある話。
一つの間違いで全てを失い。
それどこから負債を抱える。
ただ父さんはその選択をしなかった。
「別の人と付き合って、改めて仁さんの良さに気付いたってのもあるの」
「……」
「あ、いや。うん、ダメだね。こんな言い方じゃ」
言葉を吟味するように黙る。
「ううん、どう言い繕っても駄目だね。そう、自分勝手だった、何も知らなかった。自分の愚かさに見向きもしなかった」
「そう」
「いつかな? 仕事の休みに1人で外に出てきて、夫婦に子供が1人の光景を見て、わたしにもあったかもしれない未来の姿をみた気がして。いいなぁって思って、涙が出た」
どうなんだろう。
もしあの時あんなことがなくても、いずれこの人は似たようなことをしていたんじゃないかと思う。
自分を無知だというのであれば結果は変わらない。
「だからやり直したかったの」
「やり直せると思ったってこと?」
「もうわたしには何もないから、やれることはやりたいなって……。どうかな?」
「どうって。僕の一存じゃ決められない」
人のことを散々言ったけれど、僕もまた自分勝手な行動だ。
許す許さないは別として知りたいだけ。
その後に決めるのは父さんだ。
被害者は僕だけではない。
「夕飯、出来ましたので」
結構な時間話していたのか気付いたら夏菜が僕らを呼びに来ていた。
窓の外を見れば明るかった空も様変わりしている。
「ありがとう」
「いえ」
夏菜は僕から少し離れて、もう1人の人物の方へ。
「私は途中からしか会話を聞いてなかったのですが、貴女はせん……渉さんに謝罪をしたのですか?」
「え、何?」
そしてこちらを振り返る夏菜。
「先輩も人の話を聞くだけで、自分から伝えたいことってないんですか?」
「どういうこと?」
「関わらないでほしいとか、そういう要望とかです。あの人の仕打ちを考えればそういった気持ちを持ってもおかしくないんじゃないですか?」
「まぁ」
ここに押しかけてくるまでは関わりたくない人物ではあった。
でもこうして存在しているのだから受け入れるしかなく。
望みと呼べるような願望はなかった。
「特にないかな」
「そうですか。許すんですか?」
「それはどうかな。したことを考えれば到底許されるものじゃないのは確かだけれど」
結果として。
結果だけを見れば、あんなことがあったからこそ僕の性格はこうなった。だからこそ夏菜と出会い仲良くなれたのだと思うと相殺されている。
これは少し前から思っていたこと。
そして付き合って人を大事に想う大切を知った。
市ノ瀬夫婦のような存在がいるのだと安心した。
ただ進展というよりは、彼女の望む形を叶えられないという点においてだけマイナス。
「僕には夏菜がいるからね」
「なんですかそれ」
小さく溢すような微笑みを返してくれた。
心配して少し怒っているような表情だったけれど、その顔を見た瞬間から力が抜けた。
なんだかんだでトラウマの象徴。
緊張していたようでどっと疲れが押し寄せてきた。
「後の話は父さんを交えてしようか」
「そうね。それと、この娘に言われたわけじゃないけど、本当に申し訳ないことをした」
ソファから立ち上がると深く頭を下げた。
「許すわけじゃないけれど、謝罪は受け入れる。父さんともしっかり話し合ってくれ」




